ビタースイート


 西に立ち並ぶビルの縁に、大きく歪んだ夕日がまだ落ちるまい、としがみついていた。
 昼間、もくもくと湧いた入道雲が優しい橙色に染まっている。
 オレンジ味のカルピスみたい、と思ってしまうのは、部活帰りで喉が渇いているからだろうか。
 パンパンに張った足を鼓舞しながら、はもう一歩、茹で上がったアスファルトを踏みしめた。

 地元の駅に降りた途端、彼女の体は動くことを放棄してしまったようで、なかなか思うように足が進まない。
 たかが数分の道程が、今のには果てしなく遠かった。
 ヘッドホンから流れるお気に入りのポップスはただ流れているだけで、疲れた脳を癒しはしない。
 さっさと家に帰ってこの重たいバッグを投げ捨て冷蔵庫の麦茶を呷ってシャワーを浴びなければ、は人間に戻れないのだ。

 どこでもドアが欲しいのって、正しくこんな瞬間。
 げっそりしながら、とぼとぼと歩いていると、視界の端にきちんと刈り込まれた四角い垣根が見えた。青々と茂ったそれは見ているだけで少し涼しい。
 ご存じ、地元の豪氏、原尾さんちの垣根だ。
 ここの住人の顔を知ったのは、つい一ヵ月ほど前。何故だかお茶にまで招かれてしまって、顔も知らないご近所さんは、挨拶仲間のお知り合いとなった。ただ彼の名前は……まだ知らないのだけど。
 そんな事をぼんやりと考えていたら、まるで答えるかのように黒塗りの門がガタン、と開いたので、彼女は大層驚いた。

 姿を覗かせたのは、同い年ほどの青年。
 さらりと流れる、くせのない黒髪。西日を浴びて艶やかに光を弾く。
 切れ長の瞳を縁取る鮮やかなアイラインはいつもどおりに、格好は初めて見る私服だった。
 ――わ、普段着もシマシマズボン…!

 と、彼がこちらを振り返る。は慌てて背筋を正した。
「あ、こ、こんにちわ!」
 それとも、こんばんわの方が良かっただろうか。暑さとは違う汗が、の背中を伝う。
 彼と会うときは、何故だかすごく緊張してしまう。雲の上の人と話している気分。
 わたしなんかが話し掛けてしまっていいのだろうか、と思ってしまうほどだ。
 現代日本に身分階級はないはずなのに。

「ああ」
 対する原尾の返事は、なんとも簡潔。
 顎を軽く引いただけで、笑みはない。嫌悪もないが。
 はぎこちなく唇の端を持ち上げて――

「あーとっても楽しかった♥」
「今日はどうもありがとうございました、原尾様」
 わらわらと。門から同じような格好をした女の子が、幾人も湧いて出たのを見て、は思わず固まった。
 髪を染める事など当たり前の昨今を逆行するかのように、皆揃って伸ばした黒髪。長さはまちまちだがどこか同じ印象を受ける。
 大和撫子と言えないのは、肌が浅黒いからだろうか、過剰に引いた目元のアイラインのせいか。
 いや、この際はっきり言ってしまえば、彼女たちは壁画から抜け出したような古代エジプシアンな装いであったのだ。
 つまり、この場のただ一人の男、原尾と同じような。


「わたし、まだ帰りたくないなー。原尾様、もうちょっとダメ?」
「あ、何それー! 抜け駆け禁止よ!」
「うるさい、さっさと帰れ」
「えー、じゃあ送って下さい!」
 きゃぴきゃぴと響く(かしましい声。
 は呆然としてしまって、立ち去る機会を逸した。

 今、様付けしてた……?一介の高校生に?
 つかモテるんだ、原尾さんって……。

 理解しがたい状況ではあったが、それはどう見ても“原尾様ハーレム”としか言いようがなかった。
 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返すの視線が、厚い前髪の下にある原尾のそれとぶつかる。
 彼は何故か、少し慌てたように見えて、はまたまた驚いたのだ。

「あら、原尾様、こちらお知り合い?」
 その視線に気付いたのか、取り巻きの一人が初めてを見た。途端にざっと残りの視線が集まって、は狼狽える。
 薄く尖った上品な鼻、ぱっちりと愛らしい黒耀の瞳、これでもかと伸ばした睫毛、エキゾチックな化粧。
 女の目は、時に素早く残酷に、相手の出で立ちをチェックするものだ。
 繊細な爪にはラインストーンが並び、数メートル離れたここまで悩ましい花の香が届く。
 非の打ち所がない、洗練された美女の軍団だった。

 対しては……汗まみれでよれよれ、髪もぼさぼさ、不恰好に巨大な荷物を肩に背負い、爪を伸ばす余裕などある訳もない。
 化粧は辛うじてマスカラだけで、そもそも造りが彼女たちとは違った。

「……ふっ」
 せせら笑うような残酷な形に、美しい唇が釣り上がる。
 カンカンカン、と脳内で試合終了のゴングが鳴った。
 1ラウンド開始直後の、右ストレートでTKO。
 比べるべくもなく、の惨敗だった。

「ええっとその……じゃあ!」
「うむ」
 やっと自縛の呪いから解き放たれて、はよろよろと家路の続きを辿る。
 追い掛けるように響く騒ぎ声が聞こえないように、ウォークマンの音量を上げた。
 自分でも、何がショックだったのかはよく分からない。
 ただ、原尾さんちから自宅までの三十歩が、今日の道程の中で、一番長く感じた。



 夏といえど、朝早くはそう暑くない。涼風など吹いて過ごしやすいぐらいだ――眠くて頭が働かないので、あんまり味わっている暇がないのだけれど。

 午前五時五十分、家人を起こさないようにこっそりと、は朝食の皿をシンクに下げた。
 靴下は履いたし、シューズは入れた…あ、新しいタオル!
 慌てて箪笥の中を引っ掻き回す。
 折角の夏休みだと言うのに、部活はを休ませてはくれない。いや、夏休みだからこそ生き生きと彼女を駆り出すのかもしれないが。
 ジャージで行ければ楽なのだが、行き帰りの電車が恥ずかしくて、わざわざ制服で通っている。
 青春の醍醐味と言えば聞こえはいいが、やってる方は結構辛いのだ。

 寝不足気味で腫れた瞼にため息を吐きながら、はおざなりにマスカラを擦り付けた。
 朝の貴重な時間を割いて、わざわざ鏡台に向かっているというのに、大して変わっているようには見えない。
 鏡の中の娘は目付きが悪く、可愛げがない――なんだか泣きたくなった。

 それでもの手は止まろうとはしなかった。
 鏡の張られた扉を開き、水色の歯ブラシを取り出してチューブの練り粉を絞りだす。
 しゃかしゃかと歯を磨く動きは自動的(オートマティックで、口を(ゆすいだらはもう、荷物を抱えて家を出るしかなかったのである。


 玄関を開けて鍵を締めたのは、きっかり午前六時。
 人のいないがらんとした町内もいつも通り。の気持ちなどお構いなしに、世界はいつもと同じに廻っている。
 はぁ、と鞄を背負い直して、初めの一歩を踏み出して――

 三十歩先でがたん、と比較的大きな音がした。
 黒光りする鋼鉄の門がするすると開き、これまた黒いベンツを吐き出す。
 そして昨日と同じ、横の門から出てきたのは。

「ああ……早いな」
「お、お早ようございます!」

 今度は挨拶の言葉を選ぶべくもない。脊髄反射でそれはの口を飛び出して――気付く。
 そう言えば、彼は「ああ」とか「うん」とか言うばかりで、ろくに挨拶すらもらっていないのだ、と。

 うわ、それって挨拶仲間とすら言えないんじゃない?
 昨日から下降気味のテンションに、更なる追い打ちを掛けられた気分。ずしん、と首の後ろに漬物石を乗せられたような心持ちで、はあはは、と引きつり気味に笑った。

「部活か?」
「ええ、まあ……」
 もう、なんでもいいから放っておいてくれればいいのに。
 そっちの方が幾らか楽なのに。

 同じく部活なのだろうか、原尾だってこれから出掛けるところだろうに、別に時間を焦った様子もない。
 は意を決した。

「じゃあ、電車の時間が…」
「乗っていくか?」
「え?」

 決意の気持ちはどこへやら、思いもよらない一言に、の思考は中断される。
 な、なんで?
 答えが知りたくて彼の顔を見上げるのに、原尾はさっさと車に乗り込んでしまう。

「早く」

 ……いつ、は意思表示したのだろう。
 それとも、元から断るという選択肢が無かったのだろうか。

 でも、さすがに全てを無視して歩きだすことが出来ず、彼女はいつかと同じように、ベンツの扉を引き開けた。



 つい二週間前も、こうして困り果ててこの車に乗った気がする。
 そしてやっぱり今回も、は困っていた。
 抱えた荷物が、座席に触れる面積が、少しでも小さくなるように縮こまっているので、窮屈で仕方がない。
 原尾はそんなの全然気にしないでくつろいでいる――自分の車なんだから、当たり前だが。

 またここで無言合戦が繰り広げられるのかと思うと、の胃はシクシクと痛んだ。
 そしてもう、彼女は自分から話し掛けられないのだろう。
 すぐ隣にいるのに、彼との間にはっきりと境界線が見える。それは昨日の美女に鼻息で引かれた、乗り越えようのない隔たりだった。
 二人は家と年が近いだけで、共通点などなにもない。
 国籍は一緒かも知れないけれど、原尾の外見からでは、はっきりそうとは言い切れない。
 そもそもの住む世界が違う、宇宙人みたいなものだった。

 そう、最初からそうだったのだ。そしてそれは、今でも変わっていない。
 もちろん、そんな事はだってとっくに承知だった。
 承知だったはずなのに――。

 ぐるぐるとネガティブな思考に引きずられて、朝ご飯のトーストが拒否反応を起こしている。
 嫌悪感を押し込めて、はぎゅうと目を瞑った。
 快適なはずの高級車なのに、車酔いしそうだった。

 いっそここで降ろしてもらって、今から電車に乗り換えようか。
 そうまでは思い詰め、

「……いつもこんなに早いのか?」
 ぼそ、と発せられた言葉が自分に向けられた“会話”だと知って、彼女は慌てて横を向いた。
 伏せられた睫毛が気まずそうに窓の外を見ているので、すぐにぐるんと首の角度を直したけれど。

「え、あ、ええっと、いつもはこんなに早くないんですけど……今日は練習試合があって」
「そうか」
 それで会話が終わってしまう気がして、彼女は慌てて穂先を継いだ。

「原尾さん…は、いつもこの時間に?」
「ああ、大体はな。校舎が遠いのだ」
「ちょっと離れてますもんね、太陽高校。あ、だからいつも車なんですか?」
「いや、荷物が少なければ電車で行くが?」
「え、そうなんですか? でも駅で会いませんね――って、出る時間が違うのか…」

 あれ、おかしい。
 何を、こんなにべらべら喋っているんだろう。さっきまで降りようとさえ思っていたのに。
 ハッと我に返り、はシュルシュルと肩を縮こめた。

「……どうした?」
「い、いえ、あの……うるさかったかな、と思いまして」
 すると彼は驚いたような、戸惑ったような、そんな様子で瞬きをした。
 瞼が動くたび、長い睫毛が上下して、褐色の頬を擦りそう。その仕草は、彼を年より幾らか幼く見せた。
「いや……そんな事はない」

 おかしな奴だな、と今度はいつも通りに目を細める。
「余の周りには、そんな事を言う奴はいないのだが」
「……そうですか?」
「そうだな」
 いつも誰もが、頼みもしないのに、口さがなく喋っている。
 忌々しそうな口調に、自分が怒られているのではないのに、はすまなそうに肩をすぼめた。
「むしろお前は静かな方だ」
「……はぁ」
 静かというか、緊張しているのだと思うのだけど。だって、この見た目エジプト人の王様みたいな彼の前で、いつも通り振舞える訳がないじゃないか。



 眉を情けなく八の字に下げた娘を見て、原尾は不服そうにため息を吐く。
「……まあ、しかし、それはそれで…」

 言いかけたところで車が音を立てて止まった。いつの間にか、の高校に着いていたのである。
「ああ、着いたぞ」
 彼は話を続けるつもりはないらしく、運転手に彼女側のドアを開けさせた。慣れないエスコートにあたふたとしながら、は大きな荷物を引っ張り下ろす。
「ええっと、わざわざありがとうございます。お世話になりました」
「気にするな」
 バタンと扉が閉まる瞬間、その尖った顔が、微かに笑みを浮かべたような気がした。

 なんだかホッとしたような、名残惜しいような、微妙な気分。
 疑問は新たな疑問を呼んで、脳味噌が消化不良を起こしそうだ。
 良いように振り回されている自分が、何やら情けなくもある。

 自分の考えに没頭していたは、もう一度バタンとドアが鳴った音を聞き逃していた。
「言い忘れていたが、」
「うわっ!?」
 後ろからいきなり声を掛けて、彼女の心臓を騒がせておいて、原尾はそんな事を気にした風でもなく、ぬばたまの瞳で彼女を見下ろした。
 深く沈んだその色に射すくめられている気がして、の身体は動かなくなる。
「その……、次に余に会う時は」
「ななな、なんでしょう?」
「敬語を使うな」
「……え?」

 聞き直した時には、もう、彼は車に戻っているところであった。
「それだけだ」
 釘を差して彼は車に消える。エンジンを吹かして、ベンツは走り去った。



「……ええっと……」
 何が、言いたかったのだろうか。
 いや、言っている内容は分かるのだが、頭がそれについていかない。
 とりあえず、敬語なしは無理な気がする。それはもう確実に。

 その日、朝練に間に合ったにも関わらず、の戦績は振るわなかったのであった。
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