Fly!!

 右耳の後ろ辺りから、強めの風が吹いていた。手入れの整った黒髪が、はたはたと頬を打つ。
 だが、娘の姿勢が崩れる事はなかった。
 この風向きを考慮した上で、既にアプローチが決まっていたからだ。
 カップ距離を目算していた視線が、白球を乗せたティーへ戻る。
 握り締めたのは5番のアイアン。革製の手袋がグリップと摩擦を起こし、ギリリと固く擦れた。

カキュンッ
 硬質なインパクト音を残し、ゴルフボールが澄んだ青空へと吸い込まれていく。

「よっし! バンカー手前5メートルってとこね」
 ニヤリと頬の端をつり上げた裕美子が、満足そうにグラブをケースに戻した。
 前方すぐをブラインドの林で遮られたこのコースで、飛距離を稼ぐにはカーブのキツいスライスしかない。
 一つ覚えのガウェインなど、無謀にもドライバーを選ぶかもしれないが――彼の飛距離を持ってしても、この林越えは難しいに違いあるまい。テクニックに長けたアイアンでしか今のショットは打てないだろう。
 男子のようなパワー、飛距離を持たない裕美子にとっては、得意のテクニカルコースでもあった。バッグを担いで球を探しに行く足取りも、心なしか軽い。

「ほらね、読みどおり」
 果たして、予告したとおりの位置にボールは落ちている。
 だが、フェアウェイから右に2メートルほどずれていた。スライスが効きすぎたようである。
「うぬっ……」
 サンバイザーの影で、ひくりと眉をつり上げる。
 なんの、まだ十分修正可能な位置だ。視野に入ったグリーンの、鮮やかに赤い旗を睨み据える。

「グリーンまで、180ヤードってトコか……ちとあたしには遠いけど、」
 裕美子はちらりと視線を脇にやる。
 頬に髪が触れる感触。まだ風は止んでいない。
「追い風……この強さなら、イケる!」

 ミーハーを隠しもしない表情が、この時ばかりは引き締まる。
 右肩に背負うようにグラブを振り上げ、迷いなく、インパクト。舞うようにふわりと打ち上がった球が、気流に乗って芝を均したグリーンを目指す。
 タン、と小気味の良い音を立てて着地したボールはあまりに際過ぎて、彼女は一瞬肝を冷やす。
 しかし、実際は確かに乗っていたらしい。
 てんてんてん、と慣性を残して転がったのは、カップの方向だった。

「やった!」
 思わずその場で飛び跳ねてしまう。それぐらい会心のショットだったのだ。
 それはもう、ビデオを回して収めておきたかったぐらいに。
 日ながゴルフをやっていても、ミラクルショットなど滅多に出ない。それは神の奇跡でなく、己の努力の結果であったので。
 移り気なはずの裕美子が根気良くゴルフを続ける理由は、インパクトの後にこんな瞬間が待っているからかもしれない。

 グリーンへ駆け出したい気持ちを抑えて、ボールの軌跡を追う。
 三打目からカップまでは約4メートル。落ち着けば十分落とせる距離だ。
 舞い上がった気持ちを整えるため、大きく息を吸う。
 パターで慎重に打ち出すと、するすると素直に芝目を踏み倒す。コトン、と軽やかな音を立てて、裕美子のボールはチップインした。


 と、突如拍手の音が響く。誰もいないと思っていたのに。
 思わず背筋を伸ばした裕美子だったが、近付いて来る少年を見てすぐに警戒を緩める。
 それは栗色の髪を肩まで伸ばした、絵に描いたような美少年だったのだ。

「さっきのショット、良かったよ」
「ランス! いつから居たのよ」
 声掛けてくれればいいのに、と少女は口を尖らせる。その表情は年相応で、先ほどの鋭さは見る影もない。
 瞬く間の変貌に苦笑しながら、ランスロットは弁解した。
「一応掛けたんだけど、聞こえなかった? 集中していたみたいだからね」
「そ、そっか」
 暖かい眼差しに妙に照れて、裕美子は頬を掻いて誤魔化した。お気に入りのランスロットの声にも気付かないとは、なんたる不覚。
 逆に、少年にとってはその集中こそ好印象であったりするのだが。

「ランスもさ、練習しにきたの?」
 褒められ続けるのには慣れていない。気まずさから変えた話題に気付いていたのかいないのか、彼はあっさりと首を振る。
「うん、パット練習をね」
「あんだけ入るのに……まだやるの?」
 それが日課だと知ってはいながら、呆れてみせる裕美子である。
「それよりもさ、あたしの宿題見てくんない? アリア先生ったら山程出すんだもーん」
「……ダメ」
「あ、やっぱり」
 予想どおりの答えに、彼女は肩をすくめる。仕方がない、部屋に帰って宿題でもやるか……。

「でも、練習なら見てあげてもいいよ」
「えっ」
 思わぬ申し出に、慌てて顔を上げる。少年は幾ダースものボールを取り出している最中で、彼女の方など見ていなかったけれど。
 しゃがみ込む背中を眺めながら、少女はニマニマと頬が緩むのを抑える事が出来ない。

「じゃあ、お言葉に甘えて♥ よろしくお願いします、ランスロット先生!」
「いいけど……宿題は?」
「後でプラタに見せてもらうから、平気でーす!」
「…………」
 意気揚々とパターを取り出した裕美子に、ランスロットは呆れながらもボールを渡すのであった。
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