Gaining Through Losing

「何をしている、と聞いているのだ」
 半ば詰問するような声は、いつの間にか、よく知るようになったもの。
 見上げれば、見知った美貌のご近所さんが、形のよい眉をきりりと吊り上げ、を見下ろしているのだった。

「何だ、その脚は……よもや、事故に遭ったのではあるまいな? 何故、こんなところで座っているんだ」

 そりゃあ、不審がるのも当然だ。
 こんな、公道のど真ん中で、雨に濡れるのも構わず、荷物も全部ほうり出して、へたり込んでいるのだ。尋常じゃない。誰だってギョッとする。車だって通れないし、さぞ迷惑だろう。

 だが、動けない。立ち上がれない。
 代わりに、涙がどっと出てきた。

「お、おい……泣いているのか? 怪我でもしたのか――なんなのだ。
 黙っていたら分からんだろう、返事をしろっ」
 雨と涙でぼやけた視界に、顔をしかめた原尾さんの顔がにじむ。
 ああ、どうして、このタイミングで。
 これが母親だったら、そりゃもう泣きついて甘ったれて、荷物を半分助けてもらって、ぐしゃぐしゃでみっともなくなりながらも、暖かい家に帰れたのに。どうして、よりによって、この人に。

 スカートで尻餅をついた体勢のままだから、パンツがとっくに濡れている。ふとももと、ふくらはぎが、デコボコしたアスファルトに擦れて痛い。白いシャツには泥が飛んで、クリーニングに出さなければいけない。通学鞄の中の教科書も、多分壊滅的だろう。
 全てがもはや手遅れだが、今すぐ立ち上がって家に帰れば、もう一度やり直せるかもしれない。
 でも、いくら頭で解っていても、足が本当に動かないのだ。
 まるで電池の切れたおもちゃみたい。わたしの身体は、わたしの言うことを聞かない。主人にほとほと愛想を尽かして、ストライキしてしまったのか。

 肩を揺らす震えが止まらない。
 馬鹿みたいなしゃっくりも止まらない。
 ただ、冷たい雨に熱を奪われていく中で、捻った足だけが、ジンジンと熱かった。



 どれぐらい不様に泣いていたんだろう。気がついたら、わたしの上に、丸い影があった。
 恐る恐る顔を上げると、それはわたしの傘だった。チョコレート色の長い指が、J字の持ち手に絡まっている。縞々の奇妙な袖をたどっていけば、怒ったような、困ったような、不思議な表情の原尾さんがいた。

「あ……」
「………………気は済んだか」
 滑らかなテノールは、想像よりもずっと優しい。思わず涙が引っ込んだ。
 わたしがぽかんとしていると、彼は小さく苦笑する。
「いつまでそうして座っているつもりだ」
 言われて、初めて気がつく。原尾さんの右腕は、雨にぐっしょりと濡れていた。
 その斜め後ろには見覚えのある運転手さんが立っていて、大きな黒い傘を彼に差し掛けているのだ。自分は雨に濡れたまま。

 はっ、と顔が引き攣るのが、鏡を見ないでも分かった。
 つまりはこういう事、わたしの為に原尾さんは濡れて、原尾さんの為に運転手さんは濡れているのだ。なんて申し訳ない!

「ごっ、ごめんなさい!!」
 あたふたと立ち上がろうとするのだが、血の気を失った脚に、なかなか力が入らない。
 はぁ、とつむじの五十センチ上で微かなため息が聞こえ、二の腕を長い指がわし掴んで、わたしはゆっくりと重力から引き剥がされた。

 気分は正に釣り上げられた魚だ。
 えら呼吸に戻りたいのか、口はぱくぱく、胸はバクバク。

「……足を痛めたのか。他に怪我は?」
「いえっ、あのっ、はいっ、えとっ!」
 わたしは首と手足をがくがくと振り、なんとか返事のようなものをした。本当は、もう少しまともな日本語で返したかったのだが、無理だった。二の腕を掴んでいた指が、今度はわたしのウエストを支えていたからだ。
 ああ、彼の服が、汚れてしまう。
 ぶちまけた荷物は、いつの間にか運転手さんが拾い集めてくれていた。それらは同時に車の中へと吸い込まれ、原尾さんは松葉杖を後部シートに突っ込む。
 わたしは半ば庇われて、半ば荷物のように、長い腕に抱えられたまま、高級車に詰め込まれた。



 彼の車のシートは革張りで、革を濡らしたらダメになることぐらい、わたしも知っている。
 だから、全くちっとも座りたくはなかったのに、原尾さんは気にするな、と言う。かと言って、はぁそうですか、とくつろげるわけもない。
 運転手さんが出してくれたタオルは優しい花の香りがした。だけど、彼は濡れそぼったままでハンドルを握っているから、申し訳なくて顔が俯く。原尾さんはタオルで身体を拭いながら、時折わたしをちらりと見る。けれど、そこに会話はない。
 ただ、雨がガラスを打つ音、タイヤが水溜まりを跳ねる音、空調が湿度を払う音だけ、虚ろに響いた。

 わたしは、これほど真剣に、もぐらを羨んだことはない。

 幸いな事に、気まずいドライブはすぐに終わった。
 原尾さんの家のどこまでも続く緑の刈り込みが見えてきて、わたしは明らかにほっとした。制服から滴る雨と汚れが、これ以上高級車を汚す前に、退散したかったのだ。
 いつでも降りられるよう、荷物をまとめようとすると、ぐきりと捻った足首に嫌な圧力が掛かり、思わず眉をひそめて呻いた。

「……酷いのか」
 いつの間にか、原尾さんが気遣うようにわたしの足元を覗き込んでいる。それはもちろん泥だらけで、とても清潔とは言い難かったので、慌てて縮こめる。
「ええと、その……たいしたこ「じゃあ何故あそこで座り込んでいたのだ」
 間髪入れない鋭い問いかけに、うっと息が詰まる。間近にある黒耀の瞳と、目を合わせられずに膝を見つめる。

「……ごめんなさい」
「何故謝る」
 彼はムッとした声で言うと、背筋を正し、曇った窓の外を見つめた。
 また怒らせてしまったのだろうか。どうもこう、彼の前だと、何もかもが上手くいかない。変な呪いでも掛けられているみたいだ。

 キキッと、タイヤが悲鳴を上げて、わたしの家の前で止まる。
 迷惑を掛け、散々世話になった上、機嫌を損ねたまま別れるのは申し訳なかったが、降りないわけにもいかない。革張りのシートは濡れるばかりだし、わたしも早くシャワーを浴びたかった。

「あの、どうもありが「明日の朝、六時半だ」

 原尾さんは、再びわたしの言葉を遮った。キラキラと光を弾く瞳が、わたしを静かに見つめている。その顔を改めて美しいと思う反面、会話の意図が全く汲めない。

「………………六時半?」
 叱責を覚悟で、わたしは単語を反駁した。ごくり、と生唾を飲み込む。濡れた背中が、嫌な汗で冷たい。
「そうだ」
 彼は挙動不審なわたしを、まるで気にせずに頷いた。
「悪いが、朝練があるからな……だが、車で寝ていけばいいだろう。それでいいなら、送ってやる」
「………………え? ち、ちょっと待ってください」
「……不満か?」
 滑らかな額に皺が寄る。ただでさえ迫力のある美人なのに、そんな顔をされたら、なんかもう、ははーと平伏したくなってくる。

 しかし、ここで流されるわけにはいかないのだ。
 これ以上、迷惑を掛けてはいけない。

 原尾さんがわたしを拾ってここまで連れてきてくれたのは、道のど真ん中に座り込むわたしを車で轢くわけにもいかなかったからで、顔見知りを放っておけなかった近所のよしみの範疇だ。毎朝お抱え運転手付きのお車で、送ってもらうのとは話が違う。
 そもそも、わたしたちは同じ学校に通ってさえいない。彼はわざわざ、遠回りをしなきゃいけないのだ。
 それが、迷惑じゃなくてなんだというのだろう?

 わたしの足はただの捻挫で、一生歩けないわけでもない。最近はたまたま、色々とツイてなかっただけで、2メートルごとに転んでいるほどのおっちょこちょいでもない……と思う。
 ともかく、慌てずに行けば学校にも辿り着けるのだ。今朝だって、そうして通ったんだから。
 そう、もっとしっかり、自立しないと。
 働かざるもの食うべからず。自分で出来ることは自分でしないと、この世知辛い世の中を生き抜いていけないんだ。
 なにより、わたしはいつも原尾さんに萎縮している。そしてもたもたしている内に、彼に負担を掛けているんだ。そんなことじゃ、ダメなんだ。だって、今の日本に身分制度はないし……わたしは、彼と同い年。立場としては対等なんだから……きっと。おそらく。少なくとも、法の上では。

 わたしは意を決し、顎を上げて彼を見た。不可解に歪んだ美しい顔にひるまないよう、膝の上でぎゅっと拳を握る。
「あ、あの、原尾さん。わ、わたし……あのっ!」


*****


「ねぇー、もう、いい加減白状したら?」
 口調だけは気遣うような素振りだが、その瞳はゴシップの輝きを隠せない。わたしは紙パックのストローを咥えたまま親友に背中を向け、断固無視の姿勢を貫いた。
「みんなも気にしてるじゃない? この手の噂は、バシッと言っちゃえば収まるんだからさ、中途半端に隠しておくから逆に絡まれるんだってー」
 ほれほれと、突かれる背中が地味に痛い。昨日からずっとこの調子で、親友含め周りからの好奇の視線が痛すぎる。
 あーもー、あんたたち仮にも受験生なのよ!! 他人のことなんか心配しないで、ちょっとは勉強しなさいよ!
 だけど、何度そう主張しても、わたしの意見は聞き入れられることがなかった。
 曰く、勉強を阻害するようなネタをぶら下げているヤツが悪い。我々の進路を考慮するのであれば、真実を明るみに出して下手に好奇心を抱かさなければよいのだ!ーーである。なんで、わたしの学校って、この手のおバカばっかりなんだろう……。

 いい加減しつこい突っつき攻撃を、背中をよじって振り払う。ちらりと後ろを見ると、相変わらずのニマニマ顔の親友。ああ、頭が痛い……。
「………………あれは、お父さんの車デス」
「ウソッ! あんたの父さん、ベンツなんか持ってないじゃん!!」
 大体、日本の平均的なリーマンでベンツ持ってるワケないっ、と速攻で否定される。まぁ、確かにウソなんだけど……そんなに全力で我が家の財政を切り捨てることないじゃない!
「………………じゃあ、わたしの足を心配してくれた、お医者さんの車デス」
「あんた、初日は自力で登校してたじゃん! つか、じゃあってなによ、じゃあって。アキラカに今考えたでしょっ!」
「ウソじゃないもん、ホントだもん!」
 んなわけあるかっとヘッドロックを掛けられそうになったところで、運よく予鈴のチャイムが鳴る。
「あっ、わたしちょっと、トイレッ!」
「こら、!!!」
 制止の声はギプスを振り回して遮って、混雑する廊下をのたのたと分け入って、女子トイレの個室に飛び込み鍵を掛け洋式便座にへたり込む。
 ああ、もう、一体どこで間違ったの!!
 何度自問しても答えは出ない。多分、初めから全てがダメで、足をくじくようなドジをするわたしが一番バカなんだ。それで周りを騒がせて、迷惑を掛けている。これは間違いない。

 でも……
 でも、わたし、はっきりと断ったはずなのに。
 断ったはずなのに、なぜこうして原尾さんの車で送迎されて、クラスメイトに妙な勘繰りを入れられて追い詰められているんだろう。
 それだけ、唯一分からない。何故だろう。わたし、ちゃんと言ったよね?

 だけど、朝起きたら玄関前には高級車が付けてあって、恐る恐る覗き込むと原尾さんにさっさと乗らんか、と睨まれた。それでも、朝は誰にも見られずに済んだのだけど、なんと夕方にもお迎えがあったせいで、クラス中の全員が何事かと騒いでいる。

 なんか、この手のコントロール不能な事態は、過去にも何度かあったような気がする。
 もちろん、人生なんて全てが万事思い通りになるわけじゃない。でも、よくよく記憶を手繰り返すと、最近の出来事は概ね、原尾さんが関わっているような……いや、そんなに親しく顔を合わせているわけでもないんだけど……。
 なんでだろう。おかしい。神隠し? 記憶喪失? 転んだ拍子に頭も打って記憶が混乱してるとか?



 ああもう、なんだか全然、考えがまとまらない。
 ともかく、こうなった過程はどうだっていいから、今からでも遅くないから、お断りをしよう。せめて、夕方のお迎えを辞退させていただこう――だって、夕方は原尾さんは部活だからって、わたしのために、わざわざ運転手さんが車出してくれてるんだよ!! わたしのためだけに、ガソリンが消費されちゃうんだよ! もう、ついでとかそんな次元、通り越してませんか??

 シャンパンピンクの携帯電話を取り出し、高速でメールを打つ。
 送迎のやり取りのためにって、先日アドレスを交換したんだ。だから当たり前だけど、それまで番号さえ知らなかった。だって、わたしたちはただのご近所さんで、たまたますれ違うぐらいにしか接点がなかったから。
 そういう、いわゆる「顔見知り」の人は、そんなにほいほい送り迎えしてもらう間柄じゃないと思うの! それってわたしが頭が固いだけ? いやいや、でもフツー、そうじゃない?



 バレー部の現役時代にはなかなか爪も伸ばせなかったけど、今はちょっと形を整えて、ささっと淡い色なんかを付けたりできる。あんまり長いのは、扱いにくくて得意じゃないんだけど……。震える親指で送信ボタンを押すと、もうすぐ授業が始まりそうだ。

 今や校内で唯一落ち着ける場所となってしまったトイレ――我ながら、大分虚しい――から這い出でて、ぎこちなく教室へと戻る。
 その途中で、ポケットが震えた。
 焦って転びそうになる身体をわたわたと動かし、持ち直して、携帯を引っ張り返信を見た。

 ――問題ない。気にするな。

 文字にしてわずか10字。シンプルにして明朗な返答。
 あの涼やかな風貌と僅かに低い滑らかな声で、さらりと言い放つ、その仕草まで思い浮かぶような。

 だけど、それはわたしが欲しかった返事ではない。

「いやいやいやいや!」
 思わずツッコミが出てしまう。聞こえるわけないのに! そのまま光速で返事を綴る。ガコガコとボタンが連打される上に、チャイムの音が重なる。けどもう、ともかく早く返事を送りたくて、その場に突っ立ったままひたすら、ガコガコと、機械に文字を打ち込んでいく。

「おい、! チャイム鳴ったぞ!」
「はい、すみません! ちょっと待って!」
「待つか、アホ! さっさと教室に入れ!」
 数学の先生が怒ってる。分かってます、分かってますけど、本当に、あとちょっと、なんで!
!!」



 でも、駄目だった。無理だった。
 その後、授業の間を盗んで何度メールを打っても、原尾さんからの返答はなく、放課後にはあのベンツが校門でわたしを待っていた。

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