パンッ、と乾いた音がした?
 人工芝のテニスコートに、黄色い硬球が跳ね返った音だ。
 今まで全身全霊で集中していた音は、最後のそれだけやけに遠くに響いて聞こえた。
 そのくせひどく、耳に残った――。

色は(にほ)へど

 負けた。
 終わってしまった。

 その言葉だけ飽きずにぐるぐると頭の中を廻っている。
 そちらに気を取られていたは、対戦相手と握手をして青学の陣地にどうやって戻ったかよく覚えていない。気付いたら、空いているベンチに腰を下ろして、頭からタオルを被ってスポーツドリンクを啜っていた。
 考えなしに吸い上げていた液体で胃がチャポチャポ鳴っている感じがして、ようやくストローを口から離す。
 実際、喉の渇きはとっくに癒えていた。

 ――今、何時だろう。

 急に現実世界に引き戻された気がして、はぱちぱちと瞬きした。
 止まっていた機械(マシンが音を立てて駆動し始め、朝靄が陽光に消えていく感じ。
 長い髪がうなじのところに汗で張りついていて、蒸し熱いのに気付く。

 ――そう言えば、なんで周りに誰も居ないんだっけ?

 ミーンミーンと蝉の声しかしない、閑散とした周囲には急に不安になってきた。
 そもそもわたし、ここにいてもいいんだっけ?
 頭の上のタオルをむしり取って、彼女は怪しい記憶を掘り返す。
 ラケットはケースに収めて隣に置いてあった。仲間たちが残念そうに慰めの言葉を掛けてきたのには、きちんと答えられていた気がする――いや、嘘かもしんない。

「残念だったな」
「うん、今日はいいお天気だよね」
「あんまり落ち込むなよ!」
「うん、鰻の蒲焼きは美味しいよね」
「…だ、大丈夫か、?」
「うん、でも小骨が喉に引っ掛かると痛いよね」

 ……というような、噛み合わない会話をしていた気がする。


「あれ……おかしいな?」
「……確かにキミはおかしいね。そんなの今更だけど」
「うぎゃあ!」

 急に声が降ってきて、はベンチから3センチほど飛び上がった。

「あーあ、うるさいなぁ…俺の鼓膜を破るつもり?」
「い、伊武さん!?」

 ぶつぶつと聞き慣れたぼやき声は、不動峰の三年、伊武深司のものだった。
 彼はの驚きを心外だ、とでもいうように眉をひそめ、眼にかかる長い前髪を鬱陶しそうに手で払った。

「何? 俺がここにいちゃいけないわけ? ……ああ、そうだよね、俺なんかがいたら迷惑だよなぁ…………」
「ち、違いますよ伊武さん! ただ、いきなり出てきたからびっくりして…」
「いきなり? 普通に歩いてここまで来ただけなんだけど……ああ、でも俺なんかが声掛けちゃいけないって事が言いたい…」
「違います違います! わたしがボーッとしてただけです! ごめんなさい」

 慌てて口を挟んで、はラケットケースを退けるとベンチにスペースを空けた。
「さ、伊武さんも座ってください。ね?」

 その事に関して再び口を開き掛けた伊武の、黒いジャージの裾を引っ張って促す。
 彼は不満そうに口を歪めたが、意外とおとなしくベンチに腰を下ろした。
 もしかしたら、初めからそうするつもりで来たのかもしれない。

 ――が、が素直にそう信じられなかったのは、彼がたっぷり手の平二つ分、間を空けて座ったからである。

「あの、伊武さん……」
 三人掛けのベンチを悠々と二人で使いきる感じの間隔は、知り合いと仲良くベンチでお喋り、と言うよりは、袖擦りあわぬは他人の縁、とでも言うに近い。まるで知らない人同士のようだ、と思った。
 けれど、もっと詰めて座りましょうよ、と言うのも何だかおかしいので、は結局口を噤んだ。


「ええと、伊武さんは何でここに?」
 途中ですげ替えた質問は、彼のお気には召さなかったらしい。
 伊武は苛ついた様子で指でトントン、と木製のベンチを叩いた。
「どうしてそんなこと、聞く必要があるのかなぁ? ここに来たって事は、何か用事があったってことだろう? それがどんな用事だって、キミには関係ないよね? それとも説明しなきゃいけないわけ? やっぱり、俺が邪魔って言いたいの?」
「あう、ち、違いますったら……ごめんなさい」
 ちょっとした社交辞令を容赦なく言葉の槍で突き刺され、はガクリとうな垂れた。
 伊武に出会ってから一年と少し。ライバル校同志、と言う間柄ながら、何処か馬が合って、と伊武とは休日も一緒に練習するような仲にまで進展していた。しかも、果てにはJr.選抜のペアまで組んだ仲なのだ。彼のこのぼやきには大分慣れたつもりだったけれど、今日みたいな日には何もかもが上手く行かないらしい。

 シュンと下を向いてしまった少女に、伊武は溜息をついた。
 いや、違う。こうじゃない。別に彼女を困らせようと思った訳じゃなくて……。

「……ねぇ、キミは応援に行かなくていいの?」
「え?」
 再び変わった会話に、はパチクリと瞬きをした。

 応援、応援……応援って言うことは……

「ああ、そうか! だから皆いないわけだ!!」
 パチンと手を合わせた彼女を、伊武が半眼で迎える。
「……もしかして、今まで気がついてなかったとか?」
「え、えへへへへ、ちょっとボーッとしてたら、その……」
 つい…とか何とか言って明後日の方向を見ている少女。
 緑の木立の奥の辺りでは歓声のような騒ぎが聞こえているというのに、それすらも耳に入っていないのだろうか。
 思うに、彼女はここが試合会場ということも忘れているに違いない。

 まあ、大体のことはこの浮かない顔を見れば分かるけど、と伊武は声に出さずに呟いた。



「……キミって本当に手を掛ける奴だね」
 そうぼそりと言って、伊武が腰を上げる。
「あ……」
 が焦ったように彼を見上げた。
 腑抜けすぎて呆れを買ったんじゃないだろうか、このまま去ってしまうんじゃないか。そんな不安が胸をよぎり――しかし、それらは杞憂に終わる。

ドサッ
「うぇ?」
「ほら、仕方ないから今だけ肩貸してあげるよ」
 あーあ、俺ってなんて面倒見いいんだろうね、等と言いながら、伊武が隣に座っている。
 いや、それは先程までと変わらない――ただ、肩が触れ合うほどすぐ側に座り直したことを除いて。

「あ、あのー、伊武サン……??」
 訳が分からない。おずおずと伺うようにすぐ側にある顔を見上げる。黒髪の隙間から覗く横顔は、些か憮然としていた。キュッと細い唇が結ばれている。
「えっと、あの、何……?」
「……馬鹿だね、キミ」
「な、なんなんですか、もう!」
 ムッとして声を上げると、彼は顔を背けて更に低く呟いた。

「…………頼られてやってもいい、って言ってんだよ」
「……え」
「……ほら!」
 気短な先輩は、靴先で地面を踏んだ。

 接近した肩、人気のない木陰のベンチ。
 伊武はそっぽを向いて、目を合わせようとしない。

 は一瞬躊躇して、
「はぁ……んじゃお言葉に甘えて…」
 こて、と僅かに高い肩に、頭を預けた。

「…………」
「…………」

 伊武は何も言わない。でも頭を振り払おうともしない。
 今の行動で良かったのか、悪かったのか。には知る由もない。その上何を言えばいいのかも思いつかないので、二人はしばらく黙ったままでいた。

 会話がなくなると、遠くに試合の喧騒が戻ってくる。それをぼんやり聞きながら、彼女はそっと瞳を閉じた。
 沈黙は苦痛ではなかった。元から伊武はあんまり喋る方じゃないし、ぼやかない分だけちょっぴり優しい。
 肩から余計な力が抜けて、はもっと素直に伊武に寄り掛かった。
 何だか半分強制された格好だけど、その温もりは心地が良かった。息遣いに微かに揺れる肩に、無機質なベンチよりも安心した。

 ――ああ、そっか……。
 ゆっくり働く鼓動の数を無意識に数えながら、は目をつぶったまま頬笑んだ。
 隣の先輩は、自分を慰めにきたんだ。
 決してはっきりそう言わずに、いつもどおりにぼやいていたけれど。
 文字通り肩を貸しただけで、励ましの言葉をくれたわけじゃないけれど。
 ただ隣に座って、熱を分けて。じんわりと。
 それは鋼の熱さでなく、水のように冷たくて、温かい。
 脳よりも肌で感じる優しさだ。

 その不器用さが伊武らしくて、彼女は何故か泣きたくなった。

 身じろぎして開いた隙間を埋めるように、が伊武に懐くと、彼はそっぽを向いたままぼそぼそと言った。
「大体、生意気なんだよ。一回負けたぐらいでメソメソするなんて。全国一位の青学の名が泣くってヤツ? あーやだやだ、一度名声を受けただけでそれにしがみつくなんて、浅ましいね」
 ……やっぱり、口を開くと意地悪だ。
 でも追い払われないから、はそのまま聞いていた。
「……キミにはまだ来年もあるのに。負けて泣きたいのは、後がないこっちだって言うの。
 ま、俺はみっともなく泣いて同情を誘うなんてごめんだけど」
 彼が喋ると、声帯を震わす空気の振動がにまで伝わってくる。
「……だから、今日だけだよ。キミがあんまりみっともないから、哀れんでんだよ。これ以上恥を晒さないように、せいぜい反省しなよね。
 ……あーあ、俺って本当優しいよね」
「……うん、優しいです、伊武さん」
「わ、分かってるよそんな事……馬鹿みたいに繰り返さないでくれる」
「はい」

 自分で言いだしたのに、肯定したら怒られた。
 は笑いを噛み殺すけど、くっついた肩から笑っているのが分かって、伊武は不機嫌そうに眉をしかめた。



「伊武さん……ありがとうございます」
「……まあ、当然だよね」
「はい、そうですね!」
「……何笑ってんの。腹立つなぁ」
「はい、ごめんなさい」
「じゃ、今すぐ止めてみなよ。誠意が感じられない言葉言われたって、不愉快だね」
「はい、頑張ります!」
「……素直すぎるキミも、気持ち悪いよね…」



 でも結局の笑いが止まらないから、伊武の文句も止まらなかったのだった。
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