ケガの功名。

チュン、チュチュン。
 小鳥のさえずりが聞こえる。
 長い夜に終止符を打ち、太陽の光り差す朝が来たのだ。
 このところ降り続いていた雨も止み、今日は久しぶりに青空が見えそうだ。

 しかし、次第に賑やかになってきた外に反して、油屋は未だ静まり返ったままだった。
 油屋の朝は遅い。
 風呂の営業時間が夕方から夜中まであり、それに加えて後片づけやら神々様の床の用意やらで、空が白み始めてから眠りにつくことも稀ではない。したがって起床はどうしても昼近くとなってしまう。



 そんな皆が寝静まった中。
 女部屋の一隅で、寝ているはずの一人の少女がパチリと目を開いた。
 そのまま静かに服をつけ、誰か踏まないように気を配りながらスルリと廊下に滑りでた。静まり返った廊下で、少女は誰にも気付かれず抜け出せた事実に、ほっと安堵の息を吐く。
 少女は元居た部屋に背を向けて、階段の下へと消えていった。

 部屋では隣の住人が、薄く目を開けていた。
 視線をずらして空の布団を見やる。
「千尋は今日もハク様とおデートかよ…。よくやるな、あいつらも」
 リンは少々あきれながら呟いた。
「…まあいいや。寝よ」
 しばらくボーッと布団を眺めていたが、我に返って反対側に寝返りをうつ。
 湯屋での二人の主な仕事は、きつい肉体労働である。寝れるときに寝ることは、ここの生活でとても重要なことだった。
 だからいくらか千尋が気遣われたが、リンは止めるをよしとしなかった。
 心の拠り所があることは良いことだ。特にこのおかしな世界では。
――しっかし、あのハクがねぇ…。
 そんなことを考えながら、リンはまた深い眠りへと落ちていった。



 千尋はリンが起きていたことなど露知らず、ひたすら先を急いでいた。
 本当は駆けていきたいのだが、そんなことをしたらどれだけ足音が響くか分かったもんじゃない。逸る心を押えて、音を立てないようにしながらも、出来る限り足を速く動かす。
 千尋がこんなに急いでいるのは、実はリンの考えているような理由からではなかった。
 彼女は湯婆婆の魔法によって豚にされてしまった、両親の様子を見るために、早朝の湯屋を抜け出しているのだ。
 お陰で多少寝不足なのだが、千尋は時間と体力の許す限り、畜舎に通うことにしていた。今すぐに食べられはしないと思っていても、二人の無事を確かめたかった。
――もちろんハクに会っていることも事実だが。
 彼は彼で、慣れない仕事を行う千尋を励ますためか、忙しい仕事の合間を縫ってこの畜舎通いに参加してくれていた。

 エレベーターのボタンを押してしばし待つ。こんな時間に使う人は居ないからすぐに上がってきた。早速ボイラー室へと下っていく。ギシギシ、音が大きいから結構ヒヤヒヤさせられる。
 出入口の小さな扉を開けて中に入ると、釜爺はまだ寝ていた。
 千尋は起こさないように、小声でススワタリたちに話しかけた。
「おはよう、ススワタリさんたち。わたしの靴、出してもらえる?」
 ススワタリたちはサワサワとさざめきながら、一足のスニーカーを運んできた。このススワタリたち、彼らの仕事を手伝った親近感からか、釜爺より千尋の言うことをよく聞く傾向にある。
「どうもありがとう」
 足下でピョンピョン飛び跳ねるススワタリたちに向かって、にっこりと微笑みかける。
 スニーカーをつっかけたままで外扉を開けた。
 激しい風がワッと吹きつける。
 千尋は靴をちゃんと履いてから、階段に向かって足を踏みだした。


*****



「はあ、やっとついたぁー!」
 千尋は額の汗をぬぐった。
 必要以上に広い油屋を忍び出て、ここまで来る道のりのなんと遠いことか。
 特にボイラー室からの階段が怖い。手すりも柵もない粗末な階段は、巨大な油屋にしがみついているようで、不安な事この上ない。いつも吹いている強い風も行く手を阻む。結構な長さだが、千尋はなるべく下を見ないようにして駆け登ることにしていた。
 でもそんなことも、今から両親に会えるのならば文句はない。この数日は雨続きで、畜舎に行くのも久しぶりだった。今日はハクも話にきてくれるだろうし、何よりこの爽かな空気にあたれば気分も次第に晴れ渡ってきた。

「あ、ハク!」
 そんなことを考えていると、橋の向う側にハクが居ることに気付いた。
 声が聞こえたのか、ハクが翡翠の髪を揺らしてこちらを振り向く。いつもの優しげな瞳で、千尋に挨拶をかける。
「おはよう、千尋」
「おはようっ」
 千尋は早くハクと話したいとばかりに、元気よく橋を駆け渡った。

 しかし、あいにく連日の雨で橋はまだ濡れていた。しかも千尋は日頃からよく転ぶのだ。
「きゃあ!」
「千尋っ」
 案の定足をすべらせた千尋に向かって、ハクは急いで手を差し伸べた。
 が、勢いのついた千尋は、ハクの服を思いっきり掴んでしまう。

「?!」

 予想外の行動でハクの身体のバランスが崩れる。
 この濡れた足場では、思うように体制を立て直すことも出来ず、



「うわっ!」
「きゃあぁぁ!」

ドスン。

 二人は仲良く転ぶこととなった。



 …まだ視界がグラグラする。
 千尋の下敷になって仰向けに倒れたハクは、どうやら頭を少々打ってしまったらしい。
 しかしそんなことは気にかけずに、まず先にハクは腕の中の千尋の無事を確かめた。
 ハクの腕は千尋の腰にしっかりと回されていた。
 とっさに千尋を抱きしめてかばったのだったが、お陰でパッとみたところ外傷はないようだ。
 胸中で安堵の息をつく。
「千尋、怪我はない?」
 ハクは心配そうな顔で自分を見上げている千尋に話しかけた。
「わたしは大丈夫だけど、ハク、痛かったでしょ?ごめんね。大丈夫?」
 その顔には転んだ際に跳ねただろう泥が、数箇所についていた。
 クスリ、と笑ってハクの指が頬の泥をぬぐった。
「千尋、顔に泥がついているよ」
「ハクだって泥だらけだよ」
 泥だらけになってこんなところに転んでいる事が何だかおかしくって、二人は顔を見合せてしばらく笑いあった。



「ハ、ハク。もう腕離していいよ…重いでしょ?」
 ひとしきり笑ったあと、千尋が居心地悪そうに腕の中で動いた。
 よく考えれば、転んでからずっとハクに抱きしめられたままであった。
 意識して顔が赤くなる。
 そんな千尋を愛しそうに見つめて。
「千尋は全然重くないよ。まるで小鳥のようだ」
 と、ハクの方は一向に腕を緩める気配はない。

「で、でも…」
 千尋は真っ赤になって口ごもった。
 ハクは悪戯めいた笑みで、千尋を観察している。
 と見せかけて、ふいにその額に口づけた。
「な、な、な、」
 突然のことに首まで真っ赤にして、口をパクパクさせている千尋。
 クスクス笑いながら、ハクは身を起こして千尋を立たせる。
「ほら、畜舎に行くのだろう?」
 ハクが千尋に手を差し出す。
「う、うん」
 まだ火照った頬を片手で押さえながら、千尋がハクの手をとる。
 そして二人は畜舎へと向かう草むらに分け入っていった。



 後日。
 泥だらけになって帰ってきた千尋をみて理由を問いただしたリンが、顔を真っ赤にさせて口ごもる姿をみて、ハクに親の敵とばかりに嫌がらせをしつづけたのは。
 また別の話。
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