のるかそるか

 おそらく、あたしは校内で誰よりも彼の傍にいる女である。

 と言っても、別に恋人同士ではない。
 ましてや彼に片思いをしている訳でもないし、双子の妹とか長年の幼なじみとか、更には部活のマネージャーですらない。単なるクラスメイトなのだ。
 つまり、あたしは彼の後ろの席なので、嫌がおうにも彼を視界に入れざるを得ないポジションなのである。

 それどころか、あたしたちはこの席に変わってから初めて言葉を交わしたぐらいの、全く新しい関係だった。
 彼は学校一の有名人なので、あたしは入学当初から幾度となくその噂を耳にしてきたが、クラスも違うこちらの事など向こうは知らなくて当然。太陽は一学年に五百人も生徒がいる大規模な高校だから、クラスの位置関係によってはそれこそすれ違いもしない。
 現にあたしも、半径5メートル以内で原尾を見るようになったのは三年になってからが初めてだった。
 それでも、一部の女子は試合まで追い掛け回しているらしい。原尾は顔が良いので、周りの友達も何かと噂話に花を咲かせていたが、生憎あたしはそのようなミーハーな行為に全く興味がなかった。
 アメフトなど人生で一度も気に掛けたことがないし、そもそも彼はあたしの好みのタイプでない。あたしの理想の男性は、もっと渋くて落ち着いた大人の、だけどどこか可愛らしくて茶目っ気もあるような、ウィットに富んだ男性――そう、例えば舘ひろしとか。

 などと、想像の翼を広げていると、不意に鼻先へプリントの束が現れた。
「何をぼうっとしている。さっさと受け取れ」
 噂の原尾、その人である。
 学生としての日常行為、プリント回しがこの上なく似合わない彼は、しかめ面の尊大な態度で紙束をあたしに突き出している。
 古のファラオのような振る舞いをするこの男は、後ろに用事がある時も、決して他の生徒のように椅子ごと後ろの机に寄り掛かったりはしない。必ず椅子の横へ足を回し、背筋を凛と張って、こちらへ向き直る。
 毎度のことながら、その折り目正しさには感心してしまう。

「おい、早くしろ」
「はいはい」
 しかも妙に細かくて、その紙束は迅速かつ必ず手で受け取らなければならなかった。この場合、丁寧というより、こちらの都合など知った事か、という押しつけがましさがある。
 現に一度、鞄の整理に忙しくて「そこに置いといて」と頼んだら、烈火のごとく怒り狂われた。
 どうやら他人にペースを乱されるのが、我慢ならない性格らしい。なんて迷惑な奴だろう。

 正直な話、彼が癇癪を起こそうがあたしは知ったこっちゃない。
 我が侭とも言える言動に付き合う義理などない。ないはずなのだけど……何故か女子たちは非難がましい目で見てくるし、男子はやたらと慌てているし、教師すらそっとしておけと言いたげな態度を取る。

 なんだそれ!! お前ら絶対、間違ってる!

 この見目麗しい暴君が受け入れられ、許されている理由が、あたしには理解できなかった。
 顔か、やっぱり顔なのか。それとも金か――たしか、家が相当の金持ちだったはずだ。ああ、世の中ってキタナイ。
 だが確かに、席の近いクラスメイトの感情を逆撫でても面倒なだけである。今ではよほどの事でないかぎり、従ってやる事にしている。
 なにも腹を立てる必要などない。こちらが大人になった方が扱いやすい相手だと、悟ったのだった。ああ、あたしってケナゲ。



 と言うわけなので、あたしは神妙に彼の手からプリントを押し戴いた。すらりと長い指が満足したように離れていく。
 白い紙面をちらりと見れば、進路を決めるための二者面談をやるそうだ。やれやれ。
 ともかく、残りは後ろへ回す。
 もちろんあたしは彼のように優雅な性質ではないので、格好はどうであろうが楽で早い方がいい。身をひねり器用にバランスを保ちながら、椅子ごと後ろへ反り返った。

「ちょっと、これ」
 あたしの後ろは笠松と言う名のデカブツだ。文字通り、縦にも横にも幅を取るサイコロのような図体をしている。
 こんな奴が前にいたら迷惑きわまりないので、この席順で良かったと思う。
 こちらは去年からクラスが一緒だから、あたしも気安い。そういえば、彼も原尾と同じアメフト部だったはずだ。
「ねぇってば!!」
 帰りのHR中だというのに、ヤツは堂々と寝こけていた。
 仕方なく机の隙間にプリントを潜り込ませようとするが、無駄に体がでかいので机がすっかり隠れてしまってそれすら無理。
 ああ全く、なんてバカ!!
 揺すっても叩いても起きやしないので、あたしは大きく息を吸った。

「笠松!!」
「うにー??」
 なにが「うにー??」だバカヤロウ。小柄な美少女ならまだしも、あんたがやったって全然可愛くないっつーの!!
 もはや我慢も限界、あたしは固めた右の拳をヤツの巨大な頭の上に振り下ろした。

 ぼかっとすこぶる慎ましやかな音がして、頭を庇った笠松が跳ね起きる。
「いだっ!? おい、おみー、いきなり何すんだ!!」
「あんたが悪いのよ、あんたが。むしろ感謝してほしいぐらいよ」
 だが、彼はあたしより更に悲劇的に頭が悪いので、この純然たる好意にも気付かずに文句を言い募ろうとする。不届き者め!

 すかさずプリントを押しつけて黙らせていると、別方向からも、何か物言いたげな視線を感じた。
 一体誰だろう? 途中から、仮にもHR中だということをすっかり失念していたので、先生だったらちょっと困る。
 慌てて首を巡らせると、美しい顔をしかめ呆れきった、ひどく機嫌の悪そうな原尾がこちらを睨んでいた。
 どうかしたのだろうか? いやまさか、かなりありえないけどもしかして、チームメイトを叩いた事に腹を立てている?
 それならば速やかに弁解しなければならない。
 何故ならあたしはちっとも悪くない。むしろ、被害者だ――笠松は無駄に石頭なので、叩いたこっちの手の方が痛くなる。

「あのねぇ、一応言っておくけど…」
「見苦しい」
 あたしの言い訳など聞く耳持たず。彼は苦り切った表情で、吐き捨てるように言った。
「全く見苦しい。その上、野蛮だ! 貴様らは何故そうも愚かなのだ?」



 何をそうカッカしているのか、激高している原尾に罵られても、あたしは大して腹が立たなかった。
 彼の機嫌は大抵いつでも悪いから、慣れてしまったというのもある――その全てにいちいち反応していたら、ストレスと疲労で死んでしまうだろう。

 それよりもっと確かな理由は、あたしが彼に見とれていたから。

 なるほど、こいつは確かに馬鹿な暴君だったが、顔だけはやたらに良いのである。
 しかも、怒りでその美しさは失われない。むしろ、整いすぎた美貌に人間臭さが与えられて、血の通った躍動感が生まれる。
 その温度が、超然とした態度に思わず一線を画して崇めてしまいそうなあたしたちに、彼もまた一介の男子高生だと知らせるのだ。

 あたしは原尾を恋人にしたいとは思わないが、彼が美しいという事は素直に認められる。
 ひそめた眉の描くきついカーブ、張りのある額へ寄せられた皺、怒りにきらきらと輝く漆黒の瞳。皮肉な形にめくれた唇から白い歯が覗く。肌の濃さと対比して、一層眩く見えた。
 尖った鼻から荒く息を吹き出しても、何故か涼しげに見えるのが不思議だ。

 怒っている理由が分からないので、罵り声はほとんど耳に入らない。
 だから、あたしは聴覚よりも視覚に神経を集中させて、美しい絵画でも眺めるように、彼をのんびりと観察していた。



「仮にもそんな格好をしているのだ、少しは気品高く振る舞ってみたらどうだ?」
 未だ怒り続けている原尾は、そう言って鋭くあたしを顎で示した。
 太陽高校は日本であって日本でないので、色白で清楚な大和撫子ではなく、色黒で艶やかなクレオパトラが美女の見本なのだった。
 そりゃあ、確かにこんななりはしてますけど? と、あたしは風変わりな制服の襟をつまんで見せる。
「だってこれ、校則だしぃー。可愛いし、皆やってるから着てるだけだしぃー」
 それを聞くなり、原尾はげっそりとした表情で額に片手を添えた。

「ああ、これだから……。全く嘆かわしい。余の周りには、煩わしい馬鹿しかいない――かと言って、臆病すぎるのも難儀だが……」
 ぶつぶつと何事かを呟いているが、その内容は意味不明だった。
 だが、あたしはやっぱり、大して気にしない。何故なら、そろそろHRが終わる時間なのである。

「へぇー、じゃああんたは、お淑やかで頭の良い女の子が好きなのねー。分かった、分かった」
 放課後まで恨みを引きずる謂れはない。とりあえず、そう手を振って話を終わらせようとしたあたしだったが。

「なん…だと?」

 急に、怒りを忘れて唖然とした彼の様子に、こちらも驚いてしまって手を引っ込める。
「え、なに? どしたの?」
「いや……どうやらHRも終わるようだ」

 彼は即座に表情を取り繕い、前に向き直ってしまったが、そんなあからさまな動揺を見せられてはこちらの好奇心が収まらない。
 あたしは机ごと前ににじり寄ると、彼の背後で興奮して囁きはじめた。
 だって、すっごく面白すぎる。原尾とコイバナ、うーん似合わない!!

「え、なに? もしかして、図星? 図星だった?? へぇーそうなの……。へぇぇぇ〜〜。18へぇぐらいだわー。へぇぇぇ〜〜! 原尾サマのタイプが、意外にも大和撫子だったとはね…。
 てゆかなに? あんた、もしかして好きな子いるの? いたりしちゃうの? しちゃうワケ??
 うっわ、なにそれ、超ビックリなんだけど!!」

「やかましい黙れ余計な口を叩くな」
 即座に鋭く凍れるような叱咤が飛んでくる。あたしは首を竦めるが――彼がこちらを向かないのを良い事に、こっそり下を向いて忍び笑った。
 だってそこで反応するだなんて、認めたも同然だ。ああなんだ、こいつ結構かわいーやつじゃない。楽しい。俄然、楽しい。今すぐ腹を抱えて床を笑い転げたいぐらいだ。

 怒った原尾を眺めるよりよっぽど面白くなってきたと言うのに、無常にもチャイムが鳴り響く。
 原尾は危険を察知して早々と教室を出ようとしたが、やたらに楽しくなってしまったあたしは、それを引き止めようと試みる。

「ねぇねぇねぇ、詳しく聞かせてよ! 誰にも言わないから!! ね?
 ほら、あたし、あんたのこと全然タイプじゃないし、興味もないから! 平気だから!!」
「下賤な口で余に話し掛けるな!! 忌々しいやつめ、喧嘩を売っているのか――興味がないなら、さっさとどこへでも行くが良いだろう!!」
「いやいやいや、そゆ意味の興味じゃなくてさぁ、ねぇ。あはははははは!!」
「くそ、愚かな……おい、笠松! フィールドに行くぞ!! 早くしろ!」
「ま、待ってくにー、俺はこいつに用が……」
「余はこんな下世話な女に用などない! 行くぞ!!」
「あははははは、ちょっと逃げる気? ぶくくくくっ……」

 もはや走るように、原尾は部活へと去っていく。
 引きずられるようにして付いていく笠松は――もっとも、本気で引きずられている訳がない。原尾の体格でそんな芸当、絶対に無理だ――何度かこちらを振り返ったが、結局あたしたちの間は開いていくばかり。
 笑いすぎて上手く酸素を吸えないあたしは、遂に追いかけるのを諦めた。
 あー楽しい。この席最高。やっぱ、学生の本分はコイバナよね!!

 未だ込み上げる笑いをこらえ、あたしは満面の笑みを浮かべて、つれない彼の背中に怒鳴った。



「じゃあねー原尾くん! また明日〜!!」
「席替えだ! 何があろうとも、明日は絶対に席替えだ…!! 分かったな、笠松!!」
「お、俺かにー!?」
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