真夜中の攻防

 眠りに落ちる瞬間は、いつも、重たい粉袋を引きずり落としていくような気がする。
 身体は重く、もはや動かすのも億劫なのだが、末端からさらさらと、砂のように脆く崩れていく。
 小さく細かく砕けて、夢の向こうへ滑り落ちるのだ。
 瞳を閉じて、暗闇の中、眠れるまでつらつらと拉致もないことを考えているのだが、いつしか言葉は日なたに放置したアイスのように溶けている。
 (ぬくまったクリームでは何の役にも立たない。単語が意味のない音に変わるか、変わらない内に、粉袋の身体はどさりと音を立てて下へ落ちていて、そこから先は、もうこの世ではないのだった。

 は眠りに落ちる間際、いつもそんなようなイメージを描くのだが、夢から覚めると、もう全然思い出しもしない。

 この時も、そうだった。

 はやにわに暑苦しさを感じて、ぼんやりと、しかし急速に黒い波から身を起こした。
 得も知れぬ圧迫感。頬に、何か柔らかく肌をくすぐるものが当たっている。
 意識が、鉛筆の先ほどには鋭く、そちらへ偏った。

 柔らかい……シーツではない。上掛けでもない。
 布よりもっとやらかく、くたりとして、熱っぽいような…………。

 その時、顎の辺りに湿った寝息が掛かって、それが自分のではないことが分かって、はぞっとして身を強張らせた。



「なっ、なに!? 誰っ!!」
 恐怖のままに首の辺りの重い頭を押しやると、それは不満そうにむにゃむにゃと唸った。

 じっ、ジロー!!!

 稲妻より早く、それが誰だか分かったのだが、分かってから次に驚かなくてはならなくて、は一拍遅れた。
 それから、どうして彼がここにいるのか、この状況はヤバいのではないか、と更に二拍遅れてぞっとし直した。

「な、あ、ななな…!」
 はごくりと唾を飲み込み、ようやく幼なじみを起こさなければ、と思った。
 ともかく、そうなったら一刻も早く起こさねばならなかった。は暗闇で彼の肩を探し、ぎゅっと掴んで揺すぶった。
「ちょ、ちょっと! ジロー!! 起きて!」

 彼は起きず、意味もなく呻いた。
 うつつに寄越した返事でもないことは明白だ、彼はとかく寝起きが悪いから。
 もう一度、強く揺すると、彼はむずがって寝具にしがみついた。ら、はほとんど動けなくなっていた。
 彼がしがみついていたのは、布団ではなく、だったのだ。

「…………………!!」

 声にならない悲鳴で、の頬はかっと火照った。
 それは驚いたからであって、それ以上は考えたくない、いや考えてはならない。
 それから、じわっと髪の生え際から汗が吹き出て、は本格的に赤くなった。



 今や、感情だけではなく、物理的にも暑かった。
 大暑を越えて、暦によれば秋に向かっているはずなのだが、天空はともかく、地上はまだまだ暑いのだ。
 そんな残暑の盛りに芥川家のクーラーは壊れ、家中どこも蒸して蒸してたまらないのだった。
 ジローは早々に根を上げ、暑くて眠れないと泣き付いた。
 お隣りさんの窮状を知った家との二国間協議により、ジローたち兄弟は、一晩だけ彼女の家へ避難することになったのだ。

 もちろん、この部屋で寝ていいなんて、一度も言った記憶はない。

 ジローは小五の弟の部屋で寝ていなければならなかった。おやすみを言い交わした後は、確かにそこで寝たはずだった。
 頭が冴えるにつれ、はますます焦りを感じた。
 何故彼がここにいるのか? 眠っているから問いただせないが、それは取るに足らない、くだらない理由に違いなかった。
 くだらない理由でなければならないし、深読みなど以っての外だ。

 は火照った頭を抱え、必死に考える。
 今ならまだ間に合う。かろうじて間に合う。
 年より幼いところを残したジローだから、今なら単なる笑い話で済むはずだ。
 早く彼を起こして、元の部屋に押し込めれば、誰にも気付かれないかもしれない。

 だから、今すぐ起こさなければ。今すぐ、今。

「ジロー!!」
 どぎまぎする程近いところにある耳に向かって、は精一杯小声で怒鳴った。
 ジローはようやく、うにゃ、と返事らしきものをした。
「ジロー、起きてよ! 部屋間違えてるのよ!」
 頼りなく浮上した意識のかけらに吹き込むように、は必死で言った。
 ついでに身じろいだ。枕がもがけば、彼は間違いに気付くかもしれないし、もうこの体勢も限界なのだ。は深く息を吸う。

「慈朗!!」

 彼は一瞬びくり、と肩を動かし、また身体を緩くした。
 本当に、なんて寝起きが悪いのか。呆れるやら、腹が立つやらで、段々乱暴な気持ちになる。
 サイドテーブルの目覚まし時計で、脳天をかち割ってやろうかしら。さすがに、そこまでやったら起きざるを得ないはずだ。
 は自由の利かない腕を伸ばし、不器用に空をまさぐった。

「ん〜〜、まふまふぷりん」
 ジローは意味の分からない寝言を言って、顔を寝具――であるところの、――に擦り付けた。
 はさすがに、今度こそ完全に、固まった。

 何故なら、ジローがしがみついて擦り寄っている場所は、鎖骨の下の、薄いの身体の中で唯一ささやかに膨らんだそこは、



「ぎゃああああぁぁぁぁぁぁ……」



 後から思い返すにも、それは色気のない、サイレンのような悲鳴だった。
 さすがにジローは跳ね起きたが、彼が真に覚醒するのは、兄の鉄槌が脳天に振り下ろされてからなのだった。

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