月に叢雲(むらくも


 重たい手持ち鞄を何度目か、肩に担ぎ直して、は駅から家までの道程を進んでいた。
 丁度夕食の買い物時間なのだろう、いつもの下校時間ならシャッターを下ろした店が多い商店街は、今日は人で溢れ、活気付いている。
 汗ばんだ額の上を、春のそれよりも幾分温い風が、前髪を少し揺らして過ぎた。
 もう夏が近付いている。

 そして、テストも……。

 つまり、彼女はテスト一週間前という切羽詰まった状況に立たされているのだ。
 本来なら、今頃部活動に励んでいる時間帯なのだけど、今日からはそういう訳にもいかない。
 は瞼の裏の女子バレー部の仲間と、汚い部室にしばしの別れを告げる。突然あの部室を綺麗にしてくれる小人さんは、どうしたら出てきてくれるのかしら。
 そして、しばらくは楽しい部活の代わりに、母親の厳しい監視の下、脳への強制的な詰め込み作業――と注意が逸らされた隙を付いて漫画を熟読する、そんな生活が始まるのだ……。

 がくりと頭を垂れると、ヘッドフォンが耳から滑り落ちそうになったので慌てて付け直す。
 下らないことを考えて歩いていたら、もう家はすぐそこだった。だって、綺麗に手の入った垣根が見え始めたから。
 この垣根は、の家の斜向かいの原尾さんの垣根である。
 原尾さんの家は、大きい。前庭には何台もの高級車と怖そうなドーベルマン、電動の門は大きく黒光りし、建物自体も我が家がニ、三軒すっぽり入ってしまいそう。
 つまり、絵に描いたような大金持ちの邸宅。
 そしては、登下校時にこの家を観察するのが日課である。
 ……別に、覗きとかそう言うのではなく、ただこの無駄な豪華さを見るのが好きなのだ。あの門が勝手に開いて中から車が滑り出てくるのを目撃したときの感動といったら……!!
 しかしこの大豪邸にはまだ明かされない秘密がある。
 すなわち、住人の顔。こんなに近くに住んでいるのに、車の出入りしか見たことはない。
 いつかひょっこりと近所のお金持ちを見つけることが、彼女のささやかな目標である。



 長い長い垣根をようやく通り過ぎて、はようやく我が家にたどり着いた。
 鍵を引っ張り出すのが億劫で、ドアノブに手を掛けてみると、
ガチャリ
 空いていた。
 ――……都会の真ん中で、不用心じゃありませんか、お母様。

「ただいまー」
 気を取り直して声を掛けると、奥の部屋からおかえりー、とややくぐもった返事が聞こえた。
 多分、母親はテレビでも見ているのだろう。そのまま自分の部屋に行こうとくるりと向きを変えると、

ー、ちょっと回覧板持ってってー」
 背中に声が掛かった。
「えーー?!」
 帰るなりこれか、と眉をしかめながら、ドサリと鞄を床に落とす。ダイニングテーブルの上を見れば、確かに回覧板が置いてあった。
 正直面倒くさいが、出来るだけ勉強を先延ばしにしたいのと、母親の機嫌を取っておくために、彼女はそれを了承することにした。
 打算的というなかれ。テスト前の学生なんて、こんなもんである。
「しょうがないなー、次、どこなの?」
 左手でネクタイを緩めながら、右手で回覧板を手に取る。
 ざっと眺めた内容は、廃品回収の時間とか、地域の防犯に気を付けましょうとか、そんな当たり障りのない話。いやいや、新しい地区会長さんの記事もある。ふーん、あそこの八百屋さんのおじさんね、よくやるわー、珍しく背広なんか着て……。
 なんて、八百屋の大将を眺めていたから、その単語をうっかり流してしまうとこだった。

「ああ、原尾さんの家よ」
「ふんふん、原尾さんちね……って、ええっ?!」

 …………ええといまなんていったんですかおかあさん。
 その瞬間、の脳味噌は確実に動きを止めた。
 だってあの豪邸に、回覧板。
 似合わない。似合わなすぎる。そりゃあもう仏壇に薔薇の花束かすみ草付きぐらい、似合わない。
 ていうかあの家、廃品回収に参加しているのか。信じられない。
 二の句が告げられずにパクパクと口を動かしていると、母がコーヒーを注ぎにやってきた。

「……間抜けな顔して、何やってるの、あんた」
「え、だ、だって…」
「さっさと回してらっしゃいな。おやつにシュークリーム、あるわよ」
 シュークリーム、それは困った。
 原尾さんちを堂々と訪ねるのと、同じぐらい重要だ。
 は動転したまま、ゆるゆるのネクタイを首に引っ掛けたまま、健康サンダルで外に出た。



 ペタペタと足を引きずるように、は斜向かいまで出掛けていく。
 その途方も無く大きな門は、いつもと同じくしんと静まり返っている。
 彼女はさてどうしよう、と困った。インターホンの左上には、某警備会社のロゴ付き監視カメラ。さすが豪邸と言いたいところだが、非常に押しづらい。モニターで侵入者をチェックしているのかと思うと、何もやましくはないのにドキドキしてしまうのだ。
 大丈夫、ただ回覧板を持ってきただけじゃない!
 はそう自分を鼓舞し、人差し指をチャイムの上に置いて……

ウィィーン

 突如、どこかで小さく機械音がした。はビクリとして指を引っ込めた。
 二、三度門がギシギシと軋み、ゆっくりと重たそうに開いていく。傍にはしか居ないのに。
「え、え、え?」
 まだ何も…チャイムさえ押していないのに…!
 戸惑う彼女は、やけに近い車のモーター音に飛び上がるほど驚いた。車道のBGMにしか考えていなかった車は、この家に向かっていたのだ。


 誰かが帰ってきちゃった…!!
 門の前に付けた黒塗りベンツから、は視線を離せなかった。他人の家の前で、回覧板を抱き締めて、馬鹿みたいにつっ立っている。
 なんとも決まりが悪かったが、今更走って逃げられない。そんなことしたら明らかに不審人物だ。
 バッチリ映った防犯カメラで、警察に突き出される――わけはないと思うけど。
 そんなの鼻先で、高級車のドアがカチャリと開いた。

「……うん?」
 出てきたのは、背の高い学ラン姿の男子学生だった。
 すらりと長い脚。浅黒い肌と、嘘みたいに尖った高い鼻。宝石のように光る瞳は理知的で、長いまつ毛の奥からを見下ろしている。
 絵に描いたような美青年だったが、美青年と言いきるのは難しかった。

 だって、水色のアイラインで、独特に目回りを縁取っている。
 サラサラした髪は、どこまでも直線的なカット。すなわちおかっぱヘア。
 全体的に教科書に載ってる、エジプトの壁画みたいな格好。
 とりあえず、日本人には見えない。

 何この人、ありえない。よく見ると学ランもシマシマだわ…!
 エジプト人?
 それともビジュアル系??

 美形なんだけどすこぶる奇妙な風体の青年に、は固まったままぴくりとも動けなかった。

「……なんだそなた」
 門の前でつっ立ったまま動かない娘に、彼は不審そうに目を細めた。
「何か用か?」
 その一言で、にようやく魂が戻った。
「え! いや、えーと、わたしは…」
 わたわたと手を動かす。あんまりびっくりして、頭から言葉が吹っ飛んでしまったようだ。何にも出てこない。
 しどろもどろしていると、彼は左手の先のファイルに目を向けた。
「なんだ、それは」
「あ! ああ、これ、回覧板です! これ、回しに来たんです」
 ようやく何しにしたのか思い出したが、ぎこちなくそれを差し出した。
 ふん、と怒ったんだか頷いたんだかよく分からない態度で、彼はそれを受け取る。
 骨張った長い指を、その先の紺色のマニキュアを、おっかなびっくり彼女は見送った。
「余が渡しておこう。ご苦労だったな」
「あ、はい、どうも、こちらこそ…」
 もにゃもにゃと口籠もっている間に、彼は背を向けて門をくぐって行ってしまう。
 さよならを言うことも思いつかないで、彼女もぼんやりと体の向きを変えた。
 一歩二歩三歩。
 ガシャンと門が閉まる音。ブルルンと車が動く音。そんな音が意味を成さずに、随分遠くで聞こえる。



 が本来の自分を取り戻したのは、自分の家に辿り着いてからだった。

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