月に叢雲(むらくも

「お母さーん、わたしのネクタイ知らない?」
「さぁ、見てないわ。あんた、どこに置いたのよ?」
 それが分かってたら聞かないよ、お母さん!!
 悲鳴にも似たツッコミは、苺ジャムを塗った食パンの向こうに押し込まれた。
 ただでさえギリギリの朝の支度は、物が一個見つからないだけで確実に“遅刻”の二文字まっしぐら。
 は慌ただしく走り回りながら、朝ご飯と寝癖直しと捜し物を一度にやろうと苦戦していた。

「あーもーどこやったんだっけなぁ…!」
 昨日まで使っていたんだから、難しい場所にはないはずなのに……。
 しかし、自室は日頃の行いのお陰で、総ての物が不規則にとっ散らかっているのだ。
 本棚の中に入りきらない教科書が、机の上をわが物顔で占領している。先月美術に使った色鉛筆は、ケースの蓋が壊れてそこかしこに散らばっている。しかも何故か、冬に仕舞い忘れた手袋が片一方だけ落ちている。
 きちんと片付いているのは、プリクラ帳の中身だけ。
 仕方がなく、お気に入りのネクタイの捜索を諦めて、たんすの中から予備を引っ張りだした。

「ほら! もう八時よ!!」
「はいはい行ってきまーす!!」
 叫んだ語尾がバタンと閉まるドアの向こうに遮られて、母親はやれやれ、と肩を落とした。



 さて、母にとっては終わった朝の喧騒も、にとっては未だ続行中。
 生温い風を切って、ガシャガシャと騒がしく自転車を漕ぐ。
 何せ、もう八時なのだ。いつもなら駅まで歩いていくのだが、今日は時間がない。スピードを付けないと出席に間に合わない…!
 度重なる遅刻は成績不振を招くから、気を抜く訳にはいかなかった。
 アスファルトのデコボコに引っ掛かって、ステンレス製の前籠が騒ぐのなんか、知ったこっちゃない。
 は女の子らしさ、なんてかなぐり捨てて、二つの車輪を回し続けた。
 原尾家の長い垣根さえ、もうとっくに通り過ぎていた。
 しかもその事に気付いたのは、電車に乗って一息付いた頃だった。


 ――そうだ、ついに見ちゃったんだっけ、“原尾”さん。
 火照った頬にぱたぱたと手で風を送りながら、は脳裏に彼を思い浮べる。忘れもしない、特徴的すぎる彼を。
 彼女のささやかな好奇心を刺激する近所の原尾さんは、高校生ぐらいの年齢だと思うのだけど、とてもそうは見えなかった。

 だって、彼、学ラン着てたけど、古代エジプト人みたいな格好だったんだ。
 それに、あの現代語じゃないような、偉そうな喋り方。しかも一人称が“余”!!

 あんまりびっくりしすぎて、おやつのシュークリームの味さえ霞んでしまった。せっかくの、雁屋のシュークリームだったのに。
 あんな人が近所にいたなんて……世界は広かったんだなぁ、とつくづく思う。
 ついでに、お金持ちってやっぱり変人が多いのかしら、なんて不謹慎なことも。

 ガタンと電車が大きく揺れて、は慌てて吊り革に縋った。
 プシューと空気の漏れるような音がして、鉄製のドアが開く。その間から、彼女は駅の名前を確認した。
 学校まではあと二駅。自転車を飛ばした甲斐あって、充分間に合う時間。ポケットの携帯電話をマナーモードに切り替えるのを、忘れないようにしなくちゃいけない。
 一時間目の授業は確か…英語の文法。げ、辞書家に置いてきちゃった。トモコに借りに行かなきゃ――


 電車の風景が飛んでいくように、彼女の思考も目まぐるしく流れていく。
 試験前の学生ともなれば、考えることは山ほどある。
 いくら通学路にある近所と言えども、いくら奇抜な息子を見てしまったとしても、そうそう“原尾さんち”にかまけていられない。
 忙しい日常の中で、彼女が“原尾さん”を思いだしたのは、この時一度きりだった。



 数日後。午後十時すぎに、は近所のコンビニにいた。
 既にテストは明日に迫っていた。それなのに、必要な英単語はちっとも頭に入っていない。
 テスト前にありがちな逃避――すなわち、部屋の片付けが確実な敗因だ。おかげさまで、部屋も頭も綺麗さっぱり!
 後悔しても、もう遅い。今日は徹夜を覚悟して、夜食のコーヒー牛乳プリンを買いにきたのだ。

 はデザートコーナーに向かう前に、ファッション雑誌のラックの前で寄り道していた。
 もうここまで来たら、雑誌を立ち読むぐらいがなんだ!
 追い詰められて逆にハイテンションの頭が、彼女を自棄っぱちにしている。
 いつも買っている雑誌の最新号をぱらぱらとめくりながら、それでも買うのは明日にしようと最後の理性を掲げながら、はふと顔を上げて店の外を見た。
 コンビニの周りの薄明るい闇の中、集団の高校生がやってくるのが見えた。

 ――ん? どっかで見た制服…裾にボーダーが入った学ラン?? なんだか違和感が…。

 一人の顔を何気なく見て、はハッと息を呑んだ。いや、悲鳴を噛み殺した。
 なんてこった、“原尾さん”だ!!


 咄嗟には雑誌のページに顔を突っ込み、熱心に立ち読みしている客Aを装った。
 何故そこまでするのか、自分でも分からない。本当に近所に住んでいるんだから、偶然出くわしたって不思議じゃない。
 ちょこっと会釈して通り過ぎるとか、それとも気付かぬふりをすればいいじゃないか――けれど、実際のは背中を極端に強ばらせて、気配を殺すように努力している。
 まるで見つかりたくないかのように。

「ふー、涼しいだにー」
「さっさと買ってこい、笠松」

 彼らはどやどやと騒がしくコンビニに入ってきた。
 最も、正確に言えば、彼以外が騒がしいのだ。
 真ん中でつんと澄ました“原尾さん”は、音も立てずに静かに歩く。雑誌の間から忍び見たから、間違いない。
「お前の用事に付き合ってやっているのだぞ。余は、こんな下賤な店に用などない」

 ――そ、そんな、店の真ん中で言わなくても…!
 自分のことじゃないのに、切って捨てるような言い方に彼女は肝を冷やした。
 つかコンビニが下賤って……言いたいことは分かるけど、この人本当に高校生!?

「…………」
 音もなく、彼らのうちの誰かがの隣に並び、雑誌を物色し始める。
「…………!!」
 は雑誌の端をぎゅっと掴み、横歩きでそれとなく場所を譲った。誰もがそうするように。
 頭を剃り上げた大男の、目の縁にはやはりアイライン。
 は、流行ってるの、あのメイク?
 はクラクラと眩暈を感じた。少なくとも、彼女の学校には化粧をする男子学生はいないのだが……。


 何だか良く分からないその時間は、しかしそう長いものでなかった。
「番場」
 声を掛けられて、彼は巨体に似合わぬ静かさで雑誌売場を離れた。
 彼らが店から出ていく気配を感じ、はホッとして肩を落とした。顔にくっつけるようにして持っていた雑誌が、ゆるゆると下りていく。
 ああ、びっくりした。本当に、びっくりした。さすが近所、まさかこんなところで原尾さんに会うなんて……。
 店名と広告が裏返しに踊るガラスの向こうに、白んだ闇が広がっている。
 その奥に向かって、風変わりな高校生たちの背中が歩み去る。岩で出来たような大男に囲まれた、不思議なご近所さん。彼だって随分長身のはずなのに、周りのボリュームに比べられて、まるで細くて小さく見える。

 ぼんやりとその後ろ姿を見送っていたら、不意に彼が、こちらを振り返るような素振りをした。
 ――わーーーっっ!!
 電光石火で、雑誌を顔の前にかざす。そっちの方が充分に怪しいことに、は未だ気付かない。



 ともかく、次に雑誌を下ろしたときには、彼らの姿はもう見えなかった。
 新発売のマスカラの記事は、の手の汗で潰れていた。しかも、目当てのコーヒー牛乳プリンはとっくに売り切れた後だった。
 ――ああ、何してんだろう、わたし……。

 歪んだ雑誌と紙パックのミルクティーと小さなクッキー、壁に頭を打ち付けたい衝動を抱えて、彼女は家に帰った。

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