月に叢雲(むらくも

「アメフトの試合?」
「そ! 暇だったら、いや絶対、応援来いよな!」

 バチリと投げられたウィンクに、はやや鼻白んだ。
 クラスメイトに手渡された二色刷りのチラシには、試合の宣伝が力強く踊っている。
 テストから早二週間が過ぎた、七月の頭。もうそこまで近づいた夏休みを感じさせるような、からりとした快晴だった。

 と言っても、には、
「へぇー、佐藤くんてアメフト部だったんだ。ずっとラグビー部だと思ってた」
「馬鹿、アメフトとラグビーは全然違うんだよ!」
 それぐらいの意識しかないのだが。

「んー、トモコは行く?」
「もち! だってたっくんが出るんだもん♥」
 “たっくん”とは、親友トモコが熱を上げている2組の男子の事だ。
「ああ、達也くんもアメフト部なんだ…」
「ねぇ、も行こうよ!」
「でも、部活は?」
「どーせ今日はバスケ部にコート取られて、筋トレしか出来ないじゃん。つか、部活より愛を取るよ、あたしは」
 いや、いっそヤマモトに部活ごと中止させるか。友人はあれこれ画策を巡らせる。
 確かに筋トレの日はつまらない。大事なことだと分かっていても、ボールを触るのとじゃ、全然楽しさが違うのだから。
 でも、そんなすっぱりとなしにしていいもんなんだろうか……。

 恋のパワーとはかくも恐ろしきものなのか、とが半ば呆れながら眺めていると、佐藤くんまでもそれに同調した。
「よく言った、吉田! じゃあは、俺の応援って事で!」
「なに、佐藤って、狙いだったの?」
「いんや。でもやっぱ、女の子の応援は欲しいじゃん」
「…………」
 失礼な佐藤の応援はともかくとして、結局は試合観戦に付き合うこととなったのである。



 試合は三時から、グラウンドで行なわれるらしい。
 床を撫でるだけで掃除を終わらせたトモコが、鞄を振り回してを急かした。
「もう、早く! 見やすいところが取られちゃうよ!」
「そんなに見にくる人、いるの?」
「いる、いないの問題じゃないの。一番良くなきゃ嫌なの!」
「……いっそ、アメフト部のマネージャーやったら?」

 それでも彼女に付き合ってパタパタと廊下を駆けるその足が、角を曲がった途端、ピタリと止まった。
?」
 先を走っていた娘が、訝しげに彼女を振り返る。
「どしたの、早く!」
 いや、早くとか言われても。は足に根が生えたかのように、その場に縛り付けられた。
 二度ある事は三度ある、とは先人の偉大な教えではあるけれど。遥か前方、廊下の先に、覚えのある長身おかっぱ集団が見えるのは、果たして気のせいだろうか?
「ったく、先行くよ!」
「あ、ま、待って」

 尖った友人の声に、ようやく金縛りが解けて。
 一歩踏み出したは、予想どおりのご近所、“原尾”さんを見つけた。

「あ」
 しかも、目が合った。

「……ん?」
 その上、見咎められた。

「お前は……」
 黄色い縞入りの派手なユニフォーム、端正な顔に場違いなおかっぱ。
 訝しげに眉を寄せる原尾に、はびっくりして口をぽかんと、間抜けに開いてしまった。まさか、あっちが自分を見覚えているなんて、思いも寄らなかったのだ。
 だって彼は気になる大邸宅の住人で、しかも大分変わった装いで、こっちの脳内にしっかり擦り込まれてしかるべきであるけれど。

「こ、こんにちわ」
 観念して、はぺこりと挨拶した。
「ああ」
 鷹揚に頷いてみせた原尾は、しかし未だ睨み付けるような鋭い視線を外さない。
 と言うか、友人からも、原尾の仲間からも注目されている事に気付いて、は大層居たたまれない思いをした。
「何だに、原尾の知り合いかにー?」
「うむ、町内会が同じでな」
 町内会。彼が発するには似合わなすぎる単語に、笑うべきなのか判断し難く、が顔を引きつらせる。
 からかい半分で問うた学生も、返答に困ったようだ。そ、そうだにか、と口籠もって、でかい図体を引っ込める。

 奇妙に空いてしまった間を繋いだのは、隣に移動してきたトモコのさり気ない肘鉄だった。
「(痛!)」
「(何、? あの人、カレシ?)」
「(ち、違うって!)」
 今、ご近所さんだと言ったばかりじゃないか。
 しかし、惚れた腫れたに敏感な友人は目を輝かせるばかりで、彼女の話なぞ聞いちゃいない。今のやり取りが聞こえなかったか、とは本気で青ざめながら原尾に目を走らせる。
 その目が再び、ぬば玉の瞳と出会ってしまって、彼女は声にならない悲鳴を上げたのだ。

「じゃ、じゃあ、急ぎますんで…!!」
「ちょ、!?」
 見知らぬ他校生に愛想笑いを振りまくトモコの肘を掴んで、今度はが先頭を切って廊下を突き進む。
 友人の文句なんか知ったことか、は気まずいあそこに居たくないのだ。

 彼女がその歩調を緩めたのは、二人がグラウンドに辿り着いてからだった。



「も、もう、何なのよ、突然…」
 無理矢理走らされた少女が、息を弾ませながらを睨む。その視線を、冷や汗を浮かべながら彼女は遠くに流しやった。
「きょ、今日は試合日和だねぇ…」
「誤魔化したって無駄よ!」
「あう…」
 全くもって無意味であったが。

 トモコが元から吊り気味の瞳を、三角にしてに詰め寄った。
「誰よ、あの美形は」
「び、美形!?」
 美醜よりもっと重大なところがあるだろう、とは口籠もる。
 例えばおかっぱとかおかっぱとか、おかっぱとかが。
「ご近所さんなんて言い訳、あたしに通用すると思ってんの? さぁ吐きなさい、今すぐ、ゲロッと! 親友同士、隠し事はなしでしょ?」
「そんな事言われても!」
 それ以上でもそれ以下でもないんだったら!
 の必死の訴えも、彼女は端から疑ってかかるのだ。
「ただの近所だったら、あんな美形、あんたなんて歯牙にも掛けないでしょうが」
「そうなんだよね…って失礼すぎよトモコ!」
「今日の試合相手、太陽高校ってとこがちょっとネックだけどね…」
 ま、たっくんが負けるわけないけどね!
 と、根拠のない確信をしている親友を、聞き咎める。

「え、あの人太陽高校なんだ?」
「え、知らなかったの?」
 もしかして本当にただのご近所さん?
 訝しげな親友の思考は、試合開始十分前を知らせるアナウンスで遮られた。

「あ、始まっちゃう! ほら、、行くよ!」
「う、うん…」
 太陽高校って、どこの学校なんだろう…宗教系の私立高かな…。
 トモコにズルズルと引きずられながら、はそんな事を考えるのだった。





 初めて観戦したアメフトの試合は、存外早く終わってしまった。
 ルールなど全く知らないも、最後の方には攻撃と守備が交互に行なわれる事を理解した。つまり、それまで何をしているかもさっぱりだったのだ。
 ただ、試合結果だけは数字で出るので、彼女にもはっきり分かる。
 18-30、太陽スフィンクスの勝ちだった。

「あーもー、たっくんが負けるなんて!!」
 さっきまで横で喚いていた親友は、達也くんを励ましにすっ飛んでいった。
 は彼女と別れて、一人家路に着いていた。

 ――そういえば、佐藤くんの応援で行ったんだよなぁ…。
 思い返してみても、もう遅い。どこで応援していいものか検討も付かず、結局彼女は何一つ声援を送れなかった。
 ごめんね、佐藤くん。今度ポッキーでもあげるから…。

 そんな事をつらつらと考えていたから、すぐ脇の車道を通ったベンツに気付くのが遅れてしまった。
 慌てて身を縮こめると、途端に車が急停止する。は些か戸惑った。
 ――え、なに…?
 その上車窓が開くから、彼女は思わず鞄を胸に抱き込み、非常事態に身構えた。

「……やはり、お前か」
「は、は、はいっ!?」
 果たして、ベンツから話し掛けてきたのは、原尾だった。
 驚きすぎて声が裏返ってしまう。は赤くなって咳払いをし、今さっき出した奇声を誤魔化そうとした。
「……帰るところか?」
「は、はぁ、そうですけど……」
「ふむ……」

 原尾は顎を擦り、何かを考えあぐねている。
 車は発進する気配がない。じゃあこれで、と立ち去れる雰囲気でもない。
 訳の分からぬ事態に焦り、は手の平に滲む汗をこっそりスカートの後ろで拭った。

「そなたに少し、用事がある。ついでだ、送ってやろう」
「はぁ……え!? な、え!?」
 乗れ、と促されて、彼女は再び変な声を出してしまった。
 乗れだって? この黒塗りベンツに? つか用事って何!?
 あたふたしている娘に、原尾が柳の眉を寄せた。
「早く乗れ」
「え、で、でも…!」
「それとも何か用事が?」
「い、いや、帰るだけですが…!」

 だからって、そんな簡単にほいほいと乗れるわけがなかろうに!
 は顔を引きつらせた。
 しかし、既に申し出を断れるタイミングではない。ウィンドウから覗く原尾の顔に、不機嫌のきざしが見え始める。
 彼女に残された道は、元から“腹をくくる”しか残されていないのだ――は覚悟を決めて、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
 自動で開かれたベンツの扉が、断崖絶壁の滝壺に見えた。


 初めて乗る高級車の道程は、あまり快適とは言えなかった。車内は沈黙に支配され、は緊張しっぱなしだったのである。
 彼女を呼び寄せたはずの原尾は自分の考えに耽り、一言も発そうとしない。
 ならばこちらも寛いでやろう、と開き直ることが出来れば良かったのだが、生憎彼女にはそこまでの度胸はなかった。それどころか、バックシートに背中を預ける勇気もなかった。浅く腰掛けたシートは安定が悪く、は何度も身じろぎした。
 沈黙が気まずくて口を開こうにも、そもそも数える程しか口を聞いた事がない相手だ。何を話せばいいのかも分からない。
 従って、四苦八苦してひねり出した話題はなんともぎこちなかった。

「も、もう夏ですねー…」
「そうだな」
 作戦その一:時候の挨拶→二秒で終了。

「よ、用事ってなんですか?」
「大した事ではない。だが、家に寄ってもらわねばならんのでな」
「そうですか……」
 作戦その二:目標確認→不安が倍増。

「あ、アメフト部だったんですねー…。試合、観ましたよ」
「そうか」
「えっと、おめでとうございます」
「お前は母校を応援していたのではないのか? 余を称えてどうする」
 賞賛を受けるには値しない、と彼は口の端を曲げて苦笑した。
 おかしな奴だ、と思われているのを気配で察して、はしどろもどろになる。
「そ、そうですよねー、あははは…は」
 作戦その三:共通の話題→空回り。

 誤魔化し笑いは空しく車内にこだまし、原尾は話はそれまで、と思ったのか、再び(だんまりを決め込んだ。取りつく島もない態度に、どうしろっちゅーんじゃ、とは内心頭を抱える。
 なんかもう、罰ゲームを受けている気分だ。一体自分が何をしたって言うんだ。そもそも、なんで原尾さんの車に乗っているんだ。ああ、全く、国語は苦手なのよ。誰かこの状況、説明してちょうだい…!!
 まだ30分も経たないのに、どっと疲労が押し寄せてくる。

 だから、車外の風景に見なれた垣根を発見した時、は心底ほっとしたのだった。



「少し待っていろ」
 電気仕掛けの鉄門とドーベルマン、豪華なエントランスを通り抜けて、彼女が通されたのは客間らしき部屋だった。高級そうな布張りのソファに腰掛けるように促して、原尾はどこかへ行ってしまう。
 一人、どうしていいのか分からずに、は素早く出された紅茶を啜った。
 あーこのカップも高いんだろうな…なんか、マイセンとか、ウェッジウッドとか、聞いた事のある銘柄の――これがどっちかは分からないけど。

 そんな事を5分ほど考えていただろうか、ストライプの布を手に、原尾が戻って来た。
「これだ…お前のではないか?」
「あ、そ、そうです!」
 差し出されたのは彼女のネクタイ。無くしたと思っていた、紺地に金の線が入ったものだ。簡単に畳まれたそれをの手の平に落とし込みながら、原尾が微笑みに近いものを浮かべた。
「やはりな。いつか、回覧板を持って来た日に落ちていたのだが、お前のだという確信がなかったのだ。名前ぐらい書いておけ」
「はぁ…わざわざありがとうございました」
「うむ、捨てようかと思っていたところだが…運が良かったな」
「あ、あはははー…」
 乾いた笑いを上げてから、はふと気が付く。

「あ、あのー、名前、書いてあったら分かったんですか?」
 つまり、わたしの名前を知っている…?
 薄いブルーで縁取られた切れ長の瞳が、呆れたように娘を見遣る。
「当たり前だろう、
「え、な、なんで」
「名字は調べればすぐに、名前は今日、そう呼ばれていただろう」
 そんなことも分からんのか、と黒曜石の瞳に軽く見下されれば、彼女にはもう弁解のしようもない。
「はぁ、確かに…」
「ともかく、用事は以上だ」
 長い睫毛(まつげを伏せて、彼はティーカップの中身を嚥下した。
 その彫りの深い、日本人離れした顔立ちに見蕩(みとれながら、でもおかっぱはないだろう、と彼女はしつこく思うのだった。





 結局お茶の時間まで堪能して、は原尾家を辞去した。
 今日はなんだか、すごく大変な日だった気がする。明日トモコに問いつめられても、何を話せばいいのか見当も付かない。そりゃあまぁ、ご近所さんから変わらないには変わらないのだけど…。
 大豪邸の玄関から敷地の外まで三十歩、公道から自宅まで三十歩。
 は疲れた頭でぼんやり歩きながら、親友への言い訳を考えあぐねる。
 ついでに重要な事を思い出す。

 ――あ、そういえば、名前聞き忘れた…。



 それから一ヶ月。
 挨拶ぐらいはする仲になった原尾の名前を、は未だ、聞き出すチャンスを掴めないでいるのだった。

  ←back
2style.net