ツキノカゲ
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ツキノカゲ

 ついさっきまでせわしなく人の影が揺れていた油屋は、嘘のようにシンと静まりかえっていた。
 橋の脇に等間隔で立った提灯の火も、さきほど最後の明かりが消されたところだ。
 薄い雲が広がった空は、月の光も弱々しく地を照らす。
 辺りは闇に包まれ、湯屋は穏やかな眠りについていた。

 と、唐突に大きな白い影が橋のたもとに現れた。
 おぼろな月光の中にぼんやりと浮かび上がるそれは、一匹の若い龍。
 半透明の鱗を、時折鈍く光らせて佇む姿は、さながら絵巻物から抜け出たようだ。
 龍はお辞儀のようなしぐさで長い首をかがめ――
 地を蹴り、一気に天に駆けた。

「うわわっ」
 突然ハクが動いたので、千尋は慌てて彼の角をしっかりと握り直した。
 激しい風がゴウゴウと吹きつけるので、目もほとんど開けられない。
 かじかむ指で、飛ばされないように必死で掴まっているのがやっとの状態である。
 しかし、千尋は決して怖がってはいなかった。
 風は相変わらず軽い彼女を吹き飛ばそうとたくらむが、彼女は面白がって笑う。
 ハクが、自分を落とさせはしないことを知っているからだ。
 今度はゆっくりとまぶたをこじ開ける。これはなかなか大変な作業だったが、回りの景色を見て、やっただけの価値はあったと実感した。
「わあ、凄い…」
 自分たちが出発した油屋は、空に貼り付いた星のように光を放ちはしないものの、きらびやかに、どっしりと構えている。
 前を流れる川は、魚でも居るのだろうか、たまにチラチラと光を反射する。遥か先を見やれば、こんな時間にも運行している列車を見つけることが出来た。
 千尋は、銭婆の家に行ったことを思いだして、にっこり笑った。みんな元気かな、カオナシもいい子でいるのかな。今度の休みには遊びに行ってもいいかも知れない。
 そんなことを考えながら、銭婆の家が見えるかどうか、身を乗り出して探してみる。
 遠くの方で街の明かりが見えた。色とりどりのネオンで飾られる街には、どんな人が住んでいるんだろうか?

 そんなことを尽きなく考えて、気がつけば、龍は速度を落とし、さらに上を目指して飛んでいた。
 眼下に広がる景色はどんどん小さくなっていって、千尋はハクがどこまで昇る気なのか、ちょっと不安になった。
「ねえハク、どこまで行く……っっ!!」
 突然視界が白に覆われて、千尋はビックリして口をつぐんだ。ハクが雲の中に入ったのだ。
 といっても、薄い雲なのですぐに視界が晴れて、二人は雲上に滑り出る。

 そこは全くの別世界だった。

「…………」
 あまりの景色の素晴らしさに、思わず息を飲む。
 雲の上は、どこまでもどこまでも果てしなく繋がる夜空だった。
 黒い空の真ん中には、ぽっかりと月が浮かんで、冴え冴えと龍を照らす。
 その周りを見たこともないほど多くの星々が、まばゆく瞬きを繰り返す。
 そして足元にはふんわりと柔らかそうな、薄い雲の絨毯。
 夢のような光景である。
「綺麗……」
 しばらくぼんやりと景色に見とれ、千尋はようやくこわごわと言葉を発した。
 まるで大声を出したら、この世界が壊れてしまうかのように。
「ありがとう、ハク」
 こんな綺麗な場所に連れてきてくれて、と、千尋は顔を龍の見事なたてがみにうずめて、そっと囁いた。
 ハクは嬉しそうに目を細める。
 それから、ゆっくりと滑らかに身体をくねらせて、この雲の上の世界に、千尋を案内した。


 少女は笑った。
 束ねた髪を風に揺らして、鈴のように笑った。
 初めて見る空の表情が、とても綺麗で嬉しかった。
 星があんまり眩しいので、驚いて、さらに笑った。
 何よりこの美しい世界を、自分に見せてくれた龍の気持ちが、嬉しかった。
 出会ったときはちょっと怖かったけど、それは全部自分のためにしてくれた事だった。
 それに気付いて謝ったら、大丈夫だよ、と微笑まれた。
 その笑顔にホッとして、自分も笑った。
 いつでも少女を守り、励まして、優しく微笑んでくれる彼の笑顔は、この世界で何よりも暖かい物だと感じる。
 そんなふうに優しく笑える彼が、羨ましくて、誇らしかった。


 龍は笑った。
 のどの奥をふるわせて、猫のように笑った。
 彼にとってはいつもとなんら変わらない空だったが、今日は全然違う空に見えた。
 見知った星のきらめきが、口々に彼に笑いかけているように思えた。
 それは背に乗せた、小さな少女の影響だと、若い龍は知っていた。
 彼女が笑うだけで、おかしなことに自分も笑いだしたくなるのだ。
 彼女が来るまでの冷えきった自分、苦しい生活の中で自分をあざむくために作り上げた石の仮面を、いとも簡単に溶かして見せる。
 そして、笑うのだ。
 氷を溶かす、穏やかな春の陽射しで。
 そんな彼女が羨ましくて、とても愛しかった。


 上空の風は冷たかったけれど、それ以上にこの景色は素晴らしい。
 ここまでおいでよ、と誘いかける月の光に、二人は面白そうに笑いあって、充分に雲の上を遊び回るのだった。



    *


「覚えてる? 昔、夜中にこっそり飛んだときの事」
「うん、そなたを私の背に乗せて、月を見に行ったっけ」
「綺麗だったよね、あのときの夜空」
「では、また行ってみる?」
「ホントに?」
「本当に」

 そしてまた。
 白い龍が夜空に舞う。