蜜柑日和

 わたしの朝は、着替えるよりもなによりも、カーテンを開けてお隣さんの玄関を覗き込むことから始まる。
「あ、やっぱり」
 ポーチの下に見慣れたマウンテンバイクを発見して、それから急いで着替えて身仕度を整える。

 隣に住んでる芥川慈郎は、小さい頃からいつも寝てる子だった。生まれた時から始まった幼なじみのよしみで、朝なんか起きてきっこない彼を、学校に引っ張っていくのが小学校までのわたしの任務。
 中学校になって、テニス部に入部してからは、さすがの彼も朝練にはキチンと行っているみたいだ――コートでたまに寝ているらしいけど。

、ご飯よ!」
「はぁい!」

 手早く髪を束ねて、スカートの裾を引っ張り、直し、傍らの鞄を掴んでダイニングに降りる。
 今日の朝ご飯はフレンチトーストで、うきうきしながらメープルシロップを垂らした。
「お母さん、ジローの自転車あったからお隣さんち寄ってくね」
「あら、そう。奥さんによろしくねー」
 今度一緒にお買物行くのよ、とニコニコしながら、母はマグカップに紅茶を注いでいる。
 ミルクで割ったそれをふんわり甘いトーストと一緒に飲み下して、歯磨きしてマフラー付けて、ついでにリップを軽く塗って、そしたらようやく出発だ。

「行ってきまーす」
「気をつけてね」
 ドアの閉まる音を背中で聞きながら、玄関のステップをピョンピョンと飛び降りる。
 何だかんだ言って、ジローと一緒に学校に行くのは久しぶりで嬉しい。

 ピンポーン、とチャイムを鳴らすと、しばし間を置いてから、おばさんがドアを開けてくれた。
ちゃん、いつも悪いわね」
「いえ、テスト一週間前だから、もしや、と思ってましたし」
 あはは、と頭を掻くと、おばさんも同じような苦笑を浮かべた。
「5分待ってね、支度させて来るから――寒いから、入って待ってなさいね」
「はーい」

 玄関の前で待つことしばし。
 慌ただしい物音と足音が交差して、今日の時間割りを思い出している頃に、ようやくジローが顔を覗かせた。
「ジロー、おはよう」
「おはよ……」
 くせっ毛をあっちこっちに跳ねさせたまま、彼は大きく欠伸をした。
 トロンとした目付きからするに、まだ半分以上夢の中にいるようだ。
「全く、この子ったら…!
 慈朗、あなたちゃんとちゃんにお礼言うのよ!」
「うん……」
「いいですよー、もう慣れましたし。
 じゃあ、行ってきまーす!」
「むにゃむにゃ……」

 このままだと 立ったまま寝そうな彼を押して、わたしは二度目の出発を告げたのだった。



「もう! ジローったら、遅刻しちゃうよ!」
「うん……」
 冷たい向かい風に負けないように、わたしはしっかり呼び掛けた。
 半歩ほど後ろを付いてくるジローは、返事こそいいものの急ごうとする意志は欠けらも感じられない。
 今すぐ遅刻するような時間でもないけど、このペースで歩かれたら確実にアウトだ。

「もっと早く!」
「うにゃー…」
「ぶりっ子しても、駄目!」
「ぐー……」
「寝るなぁ!」

 一向に早まる気配のない歩調に、ちょっとためらってから、彼のコートの裾を掴んだ。
 小学校の頃は文字通り手を引いて登校したんだけど……さすがに中三だし、なんか気恥ずかしかったから。

「ほらっ、キリキリ歩くっ」
「わわ……」
 わたわたと付いてくるジローを尻目に、サッサカ足を動かした。
 こうして二人で行くときは歩いて行くんだけど、朝練のときはジローは駅まで自転車だ。
 こんな調子でいつも自転車に乗ってるのかな、ジローは。フラフラしてたら車に撥ねられちゃうぞ!

 と、突然ピュウと北風が頬を撫でて、わたしは思わず首を縮こめた。
 あーなんなのこの寒さ!スカートからはみ出た膝小僧が、風に凍ってしまいそう。
 早く電車の中に避難しないと凍死しちゃうかもしれない。
「うー寒い! ジロー、急ごう!」
「おー」
 この寒さにさすがに寝呆けてもいられなくなったのか、先程よりもしっかりした返事が返ってきた。
 振り返ると、彼がずり落ちてきたマフラーを肩に引っ掛けている。

 淡い蜜柑色のそれは、去年のクリスマスにわたしがあげたものだ。
 迎えにいったときから気付いてたけど、うん、やっぱり嬉しいな。

 そういえばさっきから何度もマフラーを巻き直していたっけ、と思い立って、わたしはつつ、とジローの後ろに回りこんだ。

「? どしたの?」
 急ぐんでしょ、と訝るジローの背中を、いいから前向いて、と押す。
「マフラー結んであげるよ。落っこちてくるでしょ」
 お日さま色のマフラーの端っこを持って、首を絞めないように軽く結ぶ。
「はい、出来た!」
「ありがと!」
 首をしっかりと覆うマフラーの感触がくすぐったいのか、ジローは二、三度それを引っ張って気にしている。……ま、寒いよりいいでしょ。

「んじゃ、行こうか」
「あ、待った!」
 お次はジローが待ったを掛けて、え、と踏み出しかけた足を戻した。
「オレもの結んであげるね!」

「え?」

 上げた疑問を気にもしないで、ジローはわたしの首に腕を伸ばした。
「うわっ!」
「動かない、動かない」
 動揺して身じろぎすると、ジローに注意された。

 でも、動揺せずにはいられない。
 だって、ジローはわたしの前からマフラーを結ぼうとしてるのだ。そう、丁度抱きつくように……!
 しかも小柄なジローとわたしは身長の差が5cmぐらいしかないので、なんというか……顔が近くにありすぎる。

 うひゃあ!と情けない悲鳴を上げたいのを必死で堪えながら、わたしは一気に顔が熱くなるのを感じた。
 急に跳ね上がった心拍数に、彼が気付かないといいのだけど。

「よっと!」
「あ、ありがと…!」
 結び終わったらしい気配に、早く退いて欲しいと思ってるのに、

「あれー? なんかいい匂いしない?」
 ジローは不思議そうな声をあげて、なかなか離れようとしないんだ…!

「ええっ? あ、朝ご飯フレンチトーストだったから…?」
「あ、そうだ! メープルシロップの匂い!」
 いーなーオレも食べたいなー、とニコニコ笑うジローはわんこみたいで可愛かったけど、今はそれをじっくり見る余裕さえない。
 また元通り並んで歩き始めたけど、わたしは吹き出した汗が熱くてたまらなかった。



「ねー、今度のおばちゃんのフレンチトースト食わせてね!」
 うちのより美味しいんだもん、とねだるジローに、うんうん分かった言っとくね、と上の空で安請け合いして、
 何気なく見上げた商店街の時計の針に、一気に現実に引き戻された。

「げ! あと5分で電車来ちゃう!」
「おし、走ろう!」
「うわわ!」

 いつの間にかしっかり目覚めているジローが、わたしに代わって仕切り始める。
 しかもさっきためらった手を、迷いなく取られて引っ張られている。



 なんだかちょっと面白くないけど、目の前を跳ねる色素の薄い髪は相変わらず寝癖だらけで。
 電車に乗ったら櫛を貸してあげなきゃ、と思いながら、わたしもジローに負けじと走るスピードをあげたのだった。
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