スロー・ステップ


 ジャージから着替えて外に出たら、伊武さんは既に門の前で待っていた。うーん、今日も勝てなかった……残念。
 心密かにどっちが早く着替えられるか競っているのだけど、今のところわたしは勝負に負けっ放しだ。
 そりゃ女の子の方が支度が遅いって言うのが通説だけど、別に大した事してないのにな……次は頑張ろうっと!

 慌てて飛び出たせいで好き勝手に跳ねてしまった髪を片手でざっとまとめながら、わたしは伊武さんの元に駆け寄る。
 あんまり待たせちゃ悪いもんね。一応その事を断ると、伊武さんはちらりとわたしを見た。
「別に……いいよ。そんなに待たなかったから」
 そうボソッと言って、わたしの目が確かなら、彼の頬の辺りの筋肉が微かに緩んだ気がする。
 最近の伊武さんは、機嫌が良いみたい。相変わらずぼやくけど、こうしてたまに笑顔も見せてくれるんだ。
 うんうん、やっぱり人間笑顔が一番だよね! つまんないより楽しい方が、何十倍も素敵だもん。
 嬉しくなって、わたしもにこっと笑い返す。
 そしたら、伊武さんは急にそっぽを向いちゃったんだけどね……。

 お、おかしいな、普通に笑っただけなんだけど、もしかしてすごく不気味な顔だったとか??
 そうだったらショックだ!
 ほっぺたを押さえて悩んでいたら、きゅるる……と情けない音がした。恥ずかしながら、わたしのお腹の音だった……。
「ううっ!」
 慌ててお腹を押さえるけど、時既に遅し。
 伊武さんには聞かれてしまった後だったらしい。恐る恐る顔を上げると、呆れたような視線に出迎えられた。
 ああー、穴があったら埋まりたいっ!
「全く……キミって結局いつもソレなんだよね……」
 何だかよく分からない事をブツブツ呟いて、極め付けの溜め息。
 ヒトの気も知らないで……ってどういう意味だろう? どっちかって言うと、他人(ヒト)の気を知らないのは伊武さんの方だぞ!
 って、あれれ? いつの間にか伊武さんの姿が遠く離れていって……。
「もう、伊武さん! 置いて行かないで下さいよ」
「……キミが気付いてなかっただけなのにさぁ。オレのせいにするの? ……ああ、そうだよね、どうせオレが悪いんだろ……」
 もー、だからそんな事言ってないのに。
 口を尖らせた矢先、不機嫌そうに眉をしかめた顔がこっちを振り返って、一言。

「……お腹空いたんでしょ? 昼、食べに行くんじゃないの?」

 ぱちくり、と思いがけない言葉に瞬き。
 なぁんだ、呆れて帰ろうとしたんじゃなかったんだ。お昼に誘ってくれたんだ。そうかそうかー……えへへ。
 何だかホッとしてしまう。思わず一人でニマニマしていたら、地を這うような冷たーい声が降り注いだ。
「……で、行くの? 行かないの?」
 げ、伊武さんが怒ってる…! わたしは慌てて手を上げた。
「い、行きます行きます! もちろんお供いたします!」
「全く……調子だけはいいんだからなぁ……」
 そうぼやく割には、伊武さんの声色は悪くない。よ、良かった、今度こそ帰られちゃうところだったよ……。
 こっそり胸を撫で下ろし、よいしょ、とラケットケースを担ぎ直す。
 決まったからにら前進あるのみ! だってこれ以上待たせたら、わたしのお腹が可哀相だもん。

「じゃあ、早速行きましょう、伊武さん! 今日もたくさん練習したし、もーお腹と背中がくっついちゃいます。今なら苦手なほうれん草も、モリモリ食べれちゃいそうですっ! あ、何か食べたいものとかありますかー?」
「……言っておくけど、奢らないからね……」
 つれない伊武さんのジャケットの腕を引っ張って、わたしはうきうきと繁華街に繰り出したのだった。



 と言っても、アルバイトも出来ない中学生の財布の中身に選り好み出来る余裕なんてないワケで……。わたしたちは結局、定番のファーストフード店でお昼を食べる事にしたのです。
 列に並びながら、壁のメニュー表を見上げてオーダーを考える。
「いっぱい運動したし、ちょっとぐらい食べてもカロリー還元されるよね……何にしようかなー?」
「その油断が太る原因なんじゃないの?」
「ううっ…!」
 ぐさっ!っと音がするぐらい、鋭いお言葉。そりゃ正論なんだけど……ちょっと恨んじゃう。独り言ぐらい、聞き流してくれれば良かったのにー!
 当の伊武さんは、さっさとハンバーガー二つ頼んでるし……。いいなー、男の子は。
 ううー、やっぱりポテトのLサイズはやめた方がいいかな?

 なんて未練がましく考えていると、とんとん、と後ろから肩を叩かれた。
「は、はい?」
「前、進んでますよ!」
 慌てて前に向き直ると、誰もいない。いつの間にか列の先頭に来ていたんだ。
 あっちゃー、まだメニュー決まってないよ……。
「すみません、わたしまだ決まってないので、先にどうぞ」
「ありがとう!」
 後ろに並んでいた女の子は、にこっと笑ってくれた。
 わたしより年下みたい……って事は、小学生だよね? だけど、しっかりしてる子だなぁ。長い黒髪と、理知的な切れ長の瞳が印象的。
 それにしても、なんか見覚えがあるような…? 初対面、だと思うんだけど。うーん。
「何してるの? ……あれ」
 トレイを抱えた伊武さんが、こっちを見て眉をしかめる。わたしは思わず肩身を狭くして――

「あ、お兄ちゃん!」
「えっ!?」
 驚いたように声を上げたのは、女の子だった。あー良かった、また怒られずに済んだよ……
 って、違う違う! お兄ちゃん? て事は、この子は伊武さんの妹なのーー!?

「何でこんなところにいるかなぁ……。せっかく家から出て来たのに、外でも会わなきゃならないなんて」
「お兄ちゃん、ひどーい! こんなに可愛い妹と、外でも会えるなんて幸せでしょ!」
 女の子はムッと頬を膨らませる。伊武さんと同じ、夜空のような深い色の瞳が猫のように吊り上がる。あ、怒ってる時の顔はそっくり……あはは。
 でも、性格はちょっと違うみたい。こんな事考えてるってバレたらまたぼやかれちゃうけど、伊武さんより明るそう……。
 なんて不届きな事を考えていたら不意に伊武さんがこっちを見たから、思わず慌ててしまった。
「え、あ、えと…良く似てますねー、伊武さんと!」
「そう? ……でも、性格は違うって思っただろ。絶対」
「えっ、どうして分かっ……あわわ」
 あっと考えなしに動いたお馬鹿な口を押さえたけど、もう遅かった。伊武さんはばっちり聞いちゃった後だったみたい!
 だと思ったよ、と言いながら眉が不機嫌に引きつっている。

「顔に出易いんだよね、キミは……単純だから。それにしても、普通面と向かって言い切るかなぁ? 言わないよね。いくらオレが暗いからって、傷つかないとでも思ってるワケ……?」
「誤解ですよぅ、伊武さん! 機嫌直してください〜!」
「自分で損ねておいて、利己主義だよね……腹立つなぁ、そういうの。……あーあ、でもどうせこんな事言ってるオレが悪いんだよね……」
「うわーん、伊武さんってばー!!」
 ああ、どうしよう! 笑顔が一番、なんて言っておきながら、絶対わたしが一番伊武さんを怒らせてるよー!
 そんなつもりじゃないんだけどな…自分の至らなさに、がっかりしちゃうよ。

 思わず落ち込んでしまったわたしに、横から救いの声が掛かる。いつの間に買ったんだろう、シェイクのカップを握った妹さんが、伊武さんに詰め寄ったんだ。
「もう、お兄ちゃんって本当素直じゃないんだから! デートの邪魔されたからって、彼女に意地悪しちゃダメでしょ?」
「なっ……」
「で、デート??」
 あれっ、もしかして何か勘違いされてるかも? でも、これはどうやって訂正すれば良いんだろう……。何よりあまりの勢いで、口を挟むのが難しい。
 目を白黒させているわたしたちには構わず、彼女はぴょこんと頭を下げる。艶やかな黒髪が背中から零れ、顔の回りを縁取った。
「ごめんなさい、こんな兄で……。でも口ばっかりですし、そこまで悪気は無いんで、どうかよろしくお願いします」
「えっ? は、はぁ、こちらこそ……」
「ちょっと、何言ってるの?」
 伊武さんが珍しく声を荒げる。
 わたしは驚いてしまったけれど、さすが身内、彼女はあまり動じた様子は無い。それどころか、べーっと舌を突き出している!
「ふーん、怒りんぼ! フラれちゃっても、慰めてあげないからね!」
「…………!!」
 あからさまな挑発に、伊武さんの目がスッと据わる。こっ、怖いよう! いくらわたしでも、こんなに怒らせた事はないのに……やっぱり兄妹ってすごいなぁ。って、わたしも田舎の兄弟とは、これぐらいしてるかな?
 伊武さんの腕が妹さんの方へ伸びるけど、見切っていたのか、彼女はさっと身を引いて手の届かないところへ行ってしまう。
 それからくるっと表情を変えて、わたしに愛想良く微笑んだ。
「じゃあお姉さん、またね!」

 もう、挨拶する暇もなかった。妹さんは小さく手を振って、パッと店から駆け出していったのだ。
 その素早さにわたしはすっかり呆気に取られてしまった。
 弾む後ろ姿を残して両開きの自動ドアは音を立てて閉まり、外と中との空気を完全に遮断して、レジのお姉さんが「ありがとうございました」とのんびり声を掛ける。
 それらを全部見届けてから、ようやくわたしの脳みそは回り始めたんだ。



「えーっと……?」
 結局、デートじゃないよって訂正出来なかったな。どうしよう? でも兄妹なんだし、後で伊武さんが訂正してくれるかも。
「……帰ったら、ただじゃすまさない……」
 ぼそっと物騒な事を伊武さんが呟いて、わたしは思わず髪に隠れた横顔に注目してしまう。まだ怒っているからかな、色白の頬が上気して健康的なぐらいだ。しばらく文句を連ねていた薄い唇が、やがて諦めた様に溜め息を吐く。
「……で、決まったの?」
「へ? 何がですか?」
 答えが見つけられなくて首を傾げると、伊武さんはちらりと横目でわたしを見た。
「……メニュー。まだ決めてないんでしょう?」
「あっ、そうだった!」
 妹さんの登場にびっくりしすぎて、お腹が空いていた事も忘れちゃってたよ。道理で変な顔されたわけだ。あはは……。
 で、結局何にしたんだっけ……?

 レジ前の列はとっくに無くなっている。わたしは急いで、お姉さんに注文を叫ぶ。
「すみませーん、チーズバーガーセット1つ!」
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