Soigne Ta Droite

 夏はようやくそのなりを潜め、季節は秋へと着実に歩みを進めていた。
 午後二時を回った空は夏休みのそれよりも遥かに高い。薄くたなびく絹のような雲はソフトクリームのような入道雲とは似ても似つかなかった。日に日に夕暮れの時間も早くなっていくから、きっとあと三時間もすれば、空は頬を染めるように朱色を滲ませるのであろう。
 だが、高度3000メートルの上空ならともかく、地上はまだまだ太陽の熱としぶとく残る湿気に蒸していた。昨日の雨はとうに乾いたはずなのに、秋風と呼べるような涼風は吹かない。
 運悪く、の家のクーラーは不調を訴えている。夏中のオーバーワークに機嫌を損ねたらしい。いくらリモコンを叩いてみても期待した風は流れてこないので、諦めるしかなかった。

 残暑を凌ぐ涼しさは、外部から――例えば、冷凍庫で彼女を待っているアイス、などから得るしかないようである。
 そんな訳で、今、彼女は近所のコンビニで涼んでいるのであった。



「あーやっぱり涼しい……家に帰るのが嫌になっちゃう」
 幸せそうに呟きながら、はコンビニの品物を物色する。
 大概の“イマドキ”の女性の例に漏れず、彼女はコンビニで時間を潰すのが好きだった。どうせ大したものなど売っていない、どこでも手に入るチープな品揃えだ、とは分かっていても、何故か心はワクワクと踊るのである。
 ドラッグストアに行けばもっと安値で入手できるのに、思わずどのマニキュアが自分に合うだろうか、なんて試してしまったり。季節の節目に敏感な「限定」商品のスナック菓子に、あっさり引っ掛かってみたり。小さな卓上用のマヨネーズが、家に帰ればあると分かっていても、無性に欲しくなっていたり。
 きっと、コンビニは彼女のようなふらりと入ってきた人間に、「ついでだから」とムダなものを買わせる機能に富んでいるのだ。レイアウトやポップな見出し、どれをとっても人間の心理を研究し、いらぬ金を出させる罠を張り巡らせて。世知辛い資本主義社会の、ある意味健全などん欲さ。

 現に、ただアイスを買いに来ただけのは、やっぱり漫画なんか立ち読みしている訳で。
 それがまた妙に楽しい気がするから、余計に性質が悪いのだ。

 好みの絵柄はないだろうか、とぱらぱらページを手繰っていると、ふと横に人影が差した事に気付く。彼女と同じ、立ち読み愛好家の一人だろう。よく見もしないでそっと身を脇に寄せ、娘は新参者のスペースを無言で差し出した。
 だが、彼――多分、きっと。だって背が自分より随分高い――は、そこへ行儀良く収まろうともせずに、首を伸ばしてこちらを見ている。居心地の悪さに、は雑誌の影でたじろいだ。
 ん? なにこの人? なんでわたしの方見てるの…??
 用事…があるのだろうか。例えば、彼女の目の前のラックなどに。女性向けのファッション雑誌に?
 いやいや、世の中色んな人がいるものだ。例えば、近所の奇妙なお金持ちとか。は更に一歩脇へ退いて、“彼”が雑誌を手に取れるようにしてやった。

 だが、“彼”は雑誌など眺めもせず、未だ娘を見ているようだ。そんな気配が、横からする。
 えっ、なに?? も、もしかして、怖い人……??
 ぞわりと、背中に軽く風が走る。年若い娘特有の被害妄想かも知れないが、彼女たちは知らない異性から注視される――もしくは、されている“かもしれない”事を極端に意識する。それは己への過剰意識か、はたまた恋に夢見る年頃故か。

 だが哀しいかな、現代社会に陰惨な犯罪が多すぎる事も、また一因である。段々恐ろしくなってきた娘は、雑誌を置いて足早にそこから立ち去ろうとした。
 その白い腕を、固い男の手が掴む。
 ぞっとして、は力の限りそれを振り切ろうとした。

「な、何を……って、ええええ!?!?」
「随分な挨拶だな」

 皮肉な形にゆがめられた、薄い唇。整いすぎて鋭く見える、チョコレート色の美貌。頬を擦りそうなほど長い睫毛と、瞳を縁取るアイシャドウ。重たく揺れる黒髪が、肩の辺りにわだかまっている。
 眉間の辺りに苛立ちの影を潜ませて、の斜向かいの変わった金持ち、“原尾さん”はぶっきらぼうにそう言った。



「余を無視するとは、お前はそんなに傲慢な女だったのか?」
「えええええ!? ち、違います違います!!!」
 何故か腹を立てているらしい彼を取りなそうと、彼女は驚きながら高速でぱたぱたと手を振った。
「そ、その! 純粋に気付かなかっただけで! ま、まさか原尾さんがコンビニに来ようなんて……」
「ほう、余が来ては都合が悪い、とでも言いたいのか」
「違いますっ! あああああの、ほら、この雰囲気って全然原尾さんと違うというか、高貴じゃないし、下世話だし、前に嫌いだって言ってた……ような気がしたし、その……」
 すっ、と美しい瞳を尖らせるのを見るのが怖くて、一生懸命言葉を連ねる。この際、彼の言いがかりが全くの濡れ衣で、挨拶も無しにじっと横で見られてても分かるはずがなく、よもや傲慢なんてそっくりそのまま彼のためにあるような言葉であって、気付かなかったと八つ当たりされる根拠が何一つない事など、問題ではないのだ。

 あまりに必死で言い訳をしていたので、は自分が何か固いものを握りしめている事に、思いが至らなかった。それはごつごつと節っぽく、濃い色をして、彼女の手には随分と余った。
 ぎゅうと縋るようにそれを握って、彼女はふと、彼の視線が手元に移ったのを見た。

「ん? って、あああ!! ご、ごめんなさい!」
 ばっ、と万歳をするように、顔の辺りまで両手を上げる。もしくは、「ハンズアップ!」の降参のサイン。頬の辺りが熱いから、きっと顔が赤くなっているのだろう。がハンカチ代わりに握りしめていたのは、原尾の手だったのだ。
 原尾はふむ、と呆れたのか、納得したのか、良く分からない鼻息を付いて、その手を己の方へ引き戻した。なんとなく、それが嬉しそうに見えるのは、十中八九彼女の目が混乱しすぎておかしくなっているからだと思う。

 冷房の効いたコンビニで何故か一人体温を上げてしまって、はぱたぱたと上気した顔に手で風を送った。
 ああ、何故だろう。彼に会うたびに、いつも自分は上にも下にも置けぬぐらい、てんやわんやになっている。緊張せずに会話した事なんか、きっと合わせても10分ぐらいしかないだろう。彼の自信たっぷりな振るまいがそうさせるのか、夢のような美しい顔のせいなのかは分からないけれど。

 もっともそこまで考えて、彼女は自分が彼の最大の外見を見落としていた事に気付く。
 まるでエジプトの壁画から抜け出たような、ちぐはぐな身なり。切り揃えたおかっぱと目元に差した青いラインの異様さに、自分が既に慣れてしまった事を知って、彼女はひどく驚いた。

「あ……そういえば、髪が伸びましたね」
 出会った頃は顎のラインまでしかなかった黒髪が、今や背に届くまでになっている。きっともう自分の髪の長さを越しただろう、と思いながら、彼の強引な美しさには良く似合っているとは思った。
 改めて眺めてみれば、夏の前には華奢と言えた体の線が、少し逞しくなっている気がする。しなやかな筋肉がボーダー柄のVネックに潜んでいる事に気付き、何だか少し気恥ずかしくなる。
「ああ、忙しくて切るのを忘れていた」
 本人は特に頓着はないようで、無造作に髪を摘んでいる。だが、見る限り最高の手入れを尽くされたそれは一片の非もなく、女である自分のそれよりも艶やかだ。好奇心や嫉妬心、と言うよりも美を愛でる一個の人間として、それに触れてみたい、とはこっそり考えた。

 ああそうか、夏中会っていなかったんだな、と思い出す。
 そう思うと、何故か少し残念だった気がして、今ここで会えて良かったな、と思う。
 それが彼とは全く場違いな、現代的で安っぽいコンビニエンスストアであったとしても。



 結局、その日も原尾の家に上がり込む事になって――この件に関して、彼女には全く拒否権がないのだ――30歩離れた蒸し暑いわが家へ帰り。ようやく彼女は思い出す。

「あ……アイス買うの、忘れてた」
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