Summer, Summer, Summer!!

 ぽたん。
 シャワーを浴びたばかりの髪から雫が一粒、小さな音を立ててTシャツに落ちた。
 スポーツ会社のロゴがゴムっぽい黄色い塗料で染め抜かれている紺色のTシャツは厚手で、濡れても色があまり変わらない。雫の後はすぐに何処だか判別付き難くなった。
 大体、寝巻代わりのTシャツだし、これから誰かに会う予定でもないから構わない。
 伊武はがしがしとぞんざいに頭を拭いた。それを首に掛けたまま、冷蔵庫の扉から麦茶のボトルを出してらっぱ飲みする。
 自家製のこれもひんやりと、表面に汗を掻いていた。

「あ、お兄ちゃん! やめてよ、口付けて飲むの。皆で飲んでるんだから、傷んじゃうでしょ」
「…………」
 隣の部屋から顔を出したのは上の妹だ。伊武とそっくりの艶やかな黒髪と切れ長の瞳を持ちながら、兄より明るい顔立ちをしている。
 うるさいのが来た、と密かに眉をしかめている兄に背を向けて、食器棚からコップを出している。
 彼女も麦茶を飲みにきたのだろうか。真夏日らしく、ぐんと気温の上がった今日は、伊武家の麦茶もよく売れた。
「ほら、貸して」
 兄の手からボトルを取り上げ、ガラスのコップに注ぐ。
 暖黄色の照明が、食卓に淡く茶色に染まった涼しげな影を落とす。
「はい、これ」
 引ったくられた形のままで開いた伊武の手に、麦茶のコップを押しつける。彼の分も注いでくれたらしい。
「……どーも」
 何かの景品か、誰かのお土産か、色鮮やかな熱帯魚が踊るコップを握り、伊武が冷蔵庫を開ける。その隙間に、妹が麦茶を返した。
 兄妹ならでは、のチームプレイだ。
 ばたん、と白い扉が閉まる一瞬、冷気がひやりと腕を撫ぜて心地よかった。しばらく扉を全開にして涼んでいたいぐらいに。

「お兄ちゃん、TV観る?」
「……別に?」
 彼女は首を振り振り、肩越しに兄を見た。
「あたし、九時から始まるドラマ観るんだからね!」
 声だけを残して、ドアが閉まる。
 壁の時計を仰ぐと、八時を少し回ったところだ。つまり、チャンネル権を譲り渡せ、という事か。
「生意気なんだよね……最近」
 遠慮のない態度に眉をしかめながら、伊武もまた自室に引っ込む。彼がぼやきっぽくなったのは、絶対三人の妹たちのせいだ、とこっそり責任転嫁しながら。



 たんたんたん、と木の階段を裸足の床が踏み締める。猛暑に温まったフローリングがぺたぺたと土踏まずに張りついて、ああ、これだから夏って嫌なんだよね、と伊武は思うのだ。
 夏休みなんて名ばかりで、宿題は山と出るし、部活のために毎日学校に行くし、休んでる暇なんかありゃしない。存分にテニスが出来るのは楽しいけれど、炎天下のぎらぎらしたコートに立つのは、さすがの伊武だってうんざりした。
 今日だって、“リズムを上げすぎた”神尾が、熱中症で倒れていたっけ。まあ、あれは馬鹿が最大の原因なのだけど。

 首に掛けていたタオルが、むしむしと暑苦しいのに気付いて、伊武はそれをむしり取った。
 クーラーを付けるかしばし迷って、結局窓を開ける。クーラーは冷えすぎるから苦手だ。
 だからって、学校の教室にないのは困る。
 鉄筋コンクリートと漆喰で固められた壁は風通しが悪く、そもそも人数が多すぎる。それこそ、休みにでもしないと死人が出る。卒業式に時代遅れのテレフォンカードなんか配ってる場合じゃない。“青少年の健全な育成”とやらにもっと配慮すべきだ。

 なんて、下らない事を考えてしまうのは、暑さで頭がぼうっとしているせいだろうか。
 リモコンのボタンを適当に叩いて、入りっぱなしのCDを流す。ベースの音が耳に残るメロディを刻んで、ジャズがくるくると部屋に流れる。
 見えない音符を追うように、伊武の視線が空を泳いだ。
 机の前に掛けたカレンダーの、明日の日付に丸印が付いている。
 ああ、そうだ、明日は部活がないんだっけ。
 顔に落ちてきた生乾きの髪を額の後ろに掻きやりながら、どうしようか、と考える。急に降ってきた空き時間だけど、使い道に困ってしまう。
 今月の小遣いはまだ半分も使ってない。CDでも買いにいこうか、それとも映画か……。
 考えに耽る体が、無意識にジャズのリズムに揺れている。
 ジャージのポケットに何か堅いものがあって、それが携帯だと意識した瞬間、誘う相手の顔が思い浮かんでしまった。

「……でも、急だし」
 なんとかそれを神尾の間抜け面にすり替えようとしたが、なんとしても替わってくれない。
 本人の性格そのままに、図々しく、伊武の頭に住み着いてしまった。
「出しゃばりなんだよね……」

 冷たい言葉とは裏腹に、浮かぶのは屈託のない悩みのなさそうな馬鹿みたいに能天気な笑顔だけで。
 そう言えば期末テストがあったから七夕以来会ってないな、なんて思い出してしまって。

 そしたらもう、顔が見たくてたまらなくなってしまった。

 なんなんだよ、恥ずかしいんだよね、そういう根拠のない思い付きって!
 悪態を吐いても、そう考えてしまうのは自分自身なのだ。
 せめて、思い切り眉をしかめた顔が熱いのは、風呂上がりのせいであってほしかった。
 やけに喉が張りつく感じがして、麦茶を大きくがぶりと飲んだ。



 なんだかんだとしばらく迷って、携帯に手を伸ばしたのは20時53分。
 掛けたら、出るだろうか。そろそろ家にいる時間だと思うのだけど、それは同時に、夕飯や風呂やTVやらの時間にも当たるのだ。
 掛けたなら、一発で出て欲しい。二度も三度も掛け直すのはしつこい気がして、きっと誘えなくなる。メールで誘わないのは、やきもきしながら待つのが嫌だからだ。いいならいい、駄目なら駄目、とはっきり白黒付けてもらうまで、何も手に付かなくなるに決まっている。
 そんな風に自分がごちゃごちゃ考えているなんて、きっと彼女はこれっぽっちも気付いていないに違いないけど。

「……ほっんとう、生意気なんだよね…!」
 彼女はいつでも自分の葛藤をさらりと飛び越えて、呑気に電話を掛けるに違いない。休日練の誘いは、いつでも彼女が掛けてくるんだから。きっと、自分の都合だけで人の事なんか考えずに、馬鹿みたいに純粋な気持ちでいけしゃあしゃあとやっているんだ。
 そんなところに、すごく腹が立つ。自分ばかりが緊張していて、相手はなんとも感じてない、だなんて。腹立たしいし、ちょっぴり傷付く。
 七夕だの花火だのに誘うんだから、それなりに気があるんじゃないかと期待してしまうのが普通なのだが、何せ相手があの彼女だ。猪みたいにまっすぐで、いつでも他意なんか無くて、ただひたすら突っ走ってしまう、ちょっと不器用な彼女。興味は色気より食欲、となまじ知ってしまっているから、単純な想像をするんでも躊躇われて仕方がない。
 二つ折りの携帯を、高速でパカパカ開け閉めしてしまう。
 ただの馬鹿なら無視すればいいんだけど、図々しくて放っておけない馬鹿だから困ってしまう。無視したくても、飛び込んでくる。追い払っても、ついてくる。そのくせ、馬鹿だから自分のしでかした事にも気付いてないに違いないんだ。どうしろっていうんだよ、全く……。ああ、何だか本当にムカついてきた。会ったら問答無用で頬を抓ってやりたい。というか、抓る。絶対抓ってやる!!
 いつのまにか、目的まですり変わってしまう伊武であった。

 電話帳から番号を呼び出して、なるたけ何気なく通話ボタンを押す。
 ルルル…と呼び出し音の回数を意味もなく数えながら、見上げた部屋の時計は20時57分。さっきまで心地よく漂っていたジャズの音が、ちっとも耳に入らない。
 もう切ろうか、と逸る心をなんとかなだめて、永遠にも思える時間を待って、唐突にブツリと呼び出し音が途切れた。
 代わりに耳に飛び込んで来たのは、うるさいぐらいの懐かしい声。

「もっ、もしもしっ! 伊武さん? あれ、切れちゃった!?」
「…………俺の鼓膜、そんなに破りたいの? 叫ばなくても、聞こえるよ」
「あ、ごめんなさい。取るの遅くなっちゃったから、間に合わなかったのかと思って……。で、何か御用ですか?」
 久しぶりですねーえへへ、とか笑う声に、動揺したら負けである。伊武は努めて無表情を保った。
「用がなきゃ、掛けちゃいけない訳?」

 憎まれ口を叩きながら、その実、どうやって話を切り出そうか考えていたりなんかして。
 つるり、と麦茶のコップの表面を凝結した水滴が滑る。
 ああ、これだから夏って嫌なんだよね、と気難しい伊武は思うのだった。
2style.net