恋は横暴

 階段を降りてリビングへと顔を覗かせたは、予想外の人物を認めてえっと足を止めた。
「あれ、ジロー?」
「ん」
 彼女の家のダイニングテーブルには、見慣れた幼なじみ。目だけで挨拶を済ますと、母親に出してもらったのか、湯のみを片手に煎餅を音高く齧っている。
 の違和感はますます深くなり、それが傾いだ首と、寄った眉間に如実に出た。
、あなたもお茶飲む?」
「え? う、うん」
 戸惑いながらも椅子に座ると、するすると湯のみが目の前に置かれて、気づけばそうするしかないと言うぐらい自然に、慈郎と向かい合わせでお茶をしている図になっていた。
 うん、これは実に良く見る絵。熱い湯のみの中身は煎茶で、唇を尖らせながら、少しずつそれを啜る。
 湯気の向こうに揺らぐ慈郎は一心に煎餅を噛み砕いており、特に何かを話そうとはしない。

 まさか、眠いのか。しかし、睡眠欲に勝る食欲を慈郎が見せたことなどないので、食べている以上、眠気はないはずだ。
 やっぱりちょっと、不自然だ。

 家族ぐるみのご近所付き合いだから、慈郎がこの家にいることも、物を食べたり飲んだりするのも全くもって日常ではあるけれど、それらはつまり、チャイムを押した瞬間にを玄関から呼ばわったり、もしくは勝手に部屋まで上がり込んだり、そんな感じであって。
 つまり、常ならば「」家に用があるのではなく、「」に用があって、来るのだ。彼がこの家にいるにも関わらず、ここまで無視されるのは何故だろう。

 別段喧嘩をした覚えはない。
 確かに、最近ちょっと会話が少なかったけれど、それは小テストの準備だとか、お互いの部活の都合とかで、たまたま顔を合わせなかっただけだ。
 うん、そう、これぐらい普通だよね? だって元々クラスも部活も違う上、学校がやたらに広いから、ちょっと忙しいと急にすれ違わなくなったりするんだ。
 それとも、こう思ってるのはわたしだけ?

 喉など元々乾いていないのに、無意識に啜りつづけてしまって、手のひらの湯のみはもう空だ。
 おかわりはと問われて適当に首を振ると注がれてしまって、それをまた手持ち無沙汰に啜るほかない。

 の視線をビシバシと受けているはずの慈郎は、それを無視して煎餅二枚と蜜柑一つを黙々と平らげた。

「でさ……ジローはなんで、うちでおやつ食べてんの?」
 残り少ない茶で喉を潤しているのを見ながら、はようやく問いかけたのが、
「ジローちゃんはね、うちのお洗濯物持ってきてくれたのよ〜」
 返事は前からでなく横から聞こえた。しかも、正確には質問に答えていない。
 おかーさんっ、と内心ツッコミながら補正すれば、クリーニング屋を営む芥川家の次男坊が、お得意様なご近所さんかつ幼なじみの家まで厚意の宅配を引き受けて、その労いが煎餅だと、そういうワケなんだろう。

 それはまぁ分かるけど、じゃあなんでこう、しっくりこないのか。

 そゆことそゆこと、といつの間にかこちらも二杯目をすすっている慈郎が、初めて目線を上げてを見た。
「オレ、配達に来たの」
「あ、そう」
 それはもう聞いたわよ、とつい言い返したくなる。というか、すでにぼやいたかもしれない。
「じゃあ、これなーんだ?」
「え?」

 慈郎が足元の紙袋からするっと持ち上げたのは、のコートだった。
 氷帝学園のエンブレムが左胸に押してある、濃紺のピーコート。慈郎も同デザインのダッフル型を持っている、校則指定のコートが、ぴかぴか光る薄いビニールを掛けられて、針金のハンガーに吊るされている。

 確かに週末に出したコートだ。だが、それが何だと言うのだろう。
「えと……なに?」
 怪訝というより動揺しながら聞き返すと、慈郎がキッとを見つめる。薄い色の瞳がわんこのような、赤ん坊の頃からのまるい瞳。
「あのね、オレ、ダンコにコーギするから!」
「は?」
「このコートは、それまでのヒトジチ…じゃなくて、モノジチ!!」
「え?」
がオレのヨーキューを飲むまで、このコートは返さないぞー!!! わははははー!」
 言い切るないなや、慈郎はふははははは、と胡散臭い不敵な高笑いをあげながら、左手に燦然とのコートを翻らせて、脱兎の如く外に飛び出していった。

「なっ!? え、ちょっと、ジロー!! ジローーー!!!!!」
 我に帰ったが慌てて玄関を掛け出ると、もさもさ頭がびゅんと角を曲がっていくのが見えた。どこへ逃げたのか、まさかああまで言って自宅へ戻るわけもないだろうし、皆目見当もつかない。
「あ、あの馬鹿…!!!」
 冷たい風に頬を嬲られ、冷静になると同時に腹が立つ。どういうつもりか知らないが、何故に指定コートなのだ! あれ以外を着て登校するのは校則で禁じられているから、すなわちは、慈郎がモノジチを解放するまでコートなしで登下校しなければならない。
 この、一番冷え込む2月の東京の、一番冷え込む朝夕の登校に、コートなし! ふざけんな!!

 母親も流石に困った顔で眉をハの字にしている。
「あらなに、あんたたち喧嘩してたの?」
「してないよ!! 知らないよ!!」
 知らないじゃないでしょー、じゃなきゃあんなことしないでしょー、と言われても、現に心当たりがないんだからそんな事言われたって困るんだ!

 は鼻息荒く慈郎のダイヤルを呼び出したが、案の定、圏外。次いで、走って家まで訪ねていったが、やっぱり、留守。そのまま慈郎の上着と自転車を奪取して町内を三周ほどしたが、どこにもいない。
 その後、連絡先を知りうる限りの交友範囲に片っぱしから突撃電話をかましたのに、これも成果なし。

 慈郎の母親はすまながって、「あのバカ、帰ったらただじゃおかないから!」と一緒に息巻いてくれ、代わりに慈郎のコートを着ていけと勧めたが、なんとなんと、これも用意周到に持ち出されていたのである。
「ボケボケジローのくせにぃ!!!」
 あの、いつものぬぼーっとしたナマケモノみたいな三年寝太郎は、全く予期せぬ、しかも全く歓迎出来ない場面において、妙な集中力を見せたのだ。そんな無駄なところに使う暇があったら、日常生活をなんとかしろ!と声を大にして言いたいのだが、叱り飛ばす相手がいない。

 その晩、とうとう慈郎はシッポを掴ませず、は残りの日曜を壮絶な不機嫌で締めくくったのだった。


*****


「………………おはよ」
「はよー……って! なに、その格好!?」
 なにって、なによ、これがわたしの最善策よ、とぐるぐる巻きつけたマフラーの下で不貞腐れる。
 翌日になれば、のテンションはついに最底辺に達していた。だって、実際にコート無しで登校しなければならないのだ。コートが無いと言うのは、単に一枚着ていないとか、そんな問題じゃないのだ。
 衣服による防寒とは、機能の異なる様々な素材を重ねて暖かい空気の層を周りに纏いつかせることが目的なのだから、一番外側で吹き付ける風をブロックし、中からは熱を逃がさないようにしている盾のようなコートがなければ、どう着膨れたって、満足することがなく寒いのだ。
 指定のマフラーと手袋、ブレザーの下にカーディガンとセータを重ね、120デニールの分厚い黒タイツを履いて、さらにこっそり足首ソックスを重ね履いているは、寒さに負けじと肩と眉間を強ばらせ、不機嫌で膨れ上がっていた。それでもまだスカスカ寒くて、許されるならば、スカートの下にジャージを重ね履きしたかった。
「わーなんか、雪だるま? つかミシュランマン?」
「うるっさい」
 口さがない友達をやり込める語気にも容赦が無い。自分でも不自然に刺々しいとは思っているのだけど、止まらない。
 この怒りを抑えてしまったら、寒気に縛り付けられて凍死してしまいそうだった。

 着込んだせいで思うように身体が動かせず、ノロノロと靴を履き替えるのも、煩わしい。
「よぉ。どうやら散々らしいな」
「跡部くん」
 学校一の有名人に声を掛けられても、今は笑顔を浮かべる余裕などなかった。むすっとしているに、唇と目尻に憐憫を滲ませて跡部は苦笑う。
 昨夜、慈郎を必死で探していた時分に彼にも問い合わせていたから、事情は筒抜けだった。

「あいつもほとほと、しょうがねー野郎だな。今朝もまだ、姿を見せやがらねぇ。
 だがまぁ、お前に用があるんなら、何もリアクションせずにサボるって事もないだろう」
 そうだろう?と、見下ろす表情は何故か自信に満ちていた。確かに、跡部は個人的にも慈郎と親しいが、何をそんなに確信しているというのか。
 でも、苛立ちと困惑で途方にくれている中に、一つ支えができた気がして、は何だか安堵した。
 彼の威光は大分誇張されてるようにも思うのだけれど、非常事態にリーダーシップを発揮できるならば、やっぱりカリスマは伊達じゃない。
「慈郎を見つけたら、お前に伝えるように言ってある。その間、少し頭でも冷やして、じっくり報復を練るがいいさ」
「うん、ありがとう、跡部くん。面倒かけて、ごめんね……」
 彼が、女子のみならず男子にも慕われている理由が、分かる気がする。感謝を込めて頭を下げると、彼はニヤリと笑った。
「気にするな。それより、お前もそろそろ覚悟決めた方がいいんじゃねぇの?」
 え?と聞き返す前に、彼は歩き出してしまった。
 これ以上、何の覚悟を決めろというのか。どちらかと言うと、首の根洗って待っているべきはジローの方じゃないの?

 しかし、の試練は朝方の放射冷却だけでは終わらなかったのだ。

 慈郎は一限の終了間際にようやっと姿を表したようで、は急いで渡り廊下を爆走したが、彼女が着く頃には席は既に空。
 本礼ギリギリまで彼女は粘ったのだけど、自分も授業があるから、戻らざるを得ない。いっそサボって張り込めたら良かったのに、期末前の追い込みモードではそれも叶わない。
 慈郎もそれは同じはずだから、毎時教室には戻って来るらしいのに、どうやったって捕まえられない。
 自身の、慈郎のクラスメイト、バレー部の友人、はたまたろくに口を聞いた事もない男子テニス部員まで、には次々と目撃証言が寄せられ、携帯がひっきりなしに震えている。メールボックスは初めて見るアドレスでひしめいているのに、いつも今一歩で取り逃がしてしまう。なんという往生際の悪さ!

 この周囲の盛り上がりぶりもまた、捕まえられないプレッシャーを生んで、の胃をキリキリと痛める。ギャラリーにとっては単なるお祭り、なかなか捕まらないのもまた一興なのだが、張本人は心苦しいし、もちろん楽しくなどない。
 ただ情報に振り回されて、闇雲に、校内を駆け回る外ない。

*****

 昼休みも不毛な鬼ごっこに捧げたは、購買も締め切られ、昼食にもありつけず、精魂付き果てて机にへばり付いていた。
 机の上でガーガーやかましい携帯電話が、虚しい。見兼ねた友人たちが差し入れた菓子類が、薄いティッシュの上にこんもりと積まれている。

「あの馬鹿、まだ捕まらねーのか」
 流石に焦れた様子で、跡部が舌を打つ。
 ここまで協力して共感してくれるなんて、あんまり話す機会もないのに、良い人なんだなぁ、と回らない脳の底でじんわり思った。
 休み時間の度に走り回っていたので、もう足がだるくて上がらない。
 六限を終えて放課後になったら、また学外に飛び出してしまうのだから、今のうちに捕まえておかなければいけなかったのに、もう、立ち上がる気力がない。
疲労が怒りに優ってしまって、何もかもがもはや虚しい。

 ていうか、ホント何考えているのか、あのバカジロー。クラスメイトに問い質されても、のらりくらりと誤魔化して逃れるばかり。携帯の電源は昨夜から切ったままで、何度かけても機械のお姉さんの声しか聞こえない。
 コーギだのヨーキューだの言っていたけど、犯行声明さえ出さないなんて、そんなボンクラ怪盗聞いたことがない。交渉を放棄してどうするんだ、あのバカ!
 それとも、わたしがヒントを見落としているのだろうか。今までに気付かないシグナルを、彼は発していたとか?
 それにしたって、もうまる一日伝わっていないんだから、さっさと作戦変更すべきだ。
 それともアレなの、そんな事も言えない仲なの、わたしたち。赤ん坊の頃から、一緒のたらいでお風呂に入っていたというのに。
 どうせ、ジローの要求なんか、お菓子か遊びかサボりのおねだりしかないくせに。こんなに引きずって皆に迷惑かけてまで、もったいぶる内容なんかじゃないくせに。


 なんで、なにもいってくれないの。


 六限は社会で、早口で有名な教師が要点と雑談と出題範囲をいっぺんに出してくるような、最も身を入れて聞かなければいけない授業だった。
 いつもなら皆と一緒に必死で板書を書き写すのだが、どうにも手が動かない。ノートに書き出した短文はどれも尻が切れてぐずぐずとして、精彩に欠けた。
 手元でさえそんな調子だから、内容はそれ以上に、耳に入ってこない。
 終わったら誰かにノートを写させてもらわないとなぁ、と嘆息したは、不意に跡部が声を上げたので、驚いて後ろを振り仰いだ。

「先生、先程からの具合が悪そうなんだが、保健室にでも行かせた方がいいんじゃないのか」
「えっっ!!!」
 思いもよらぬ名指しに、ビッと背筋が伸びた。
「あ? 、お前気分悪いのか?」
 やや腹の出た教師が、不審そうにを見る。一気に教室の視線が集まって、本当にダラダラと冷や汗が出た。
 跡部くん、いくらなんでもそんな、ムチャぶりだよ!
「ええー……ええっと、そのぉ?……」
「あと10分で授業終わりだしな。我慢出来るな? それぐらい」
 確かに、黒板の上の時計はもうすぐ3時を指さんとしている。体調不良を理由に抜け出すには、ちょっと間が悪い。
 けれど、終礼を待って駆け出すのでは遅すぎることを、今日一日を通して痛感している。慈郎の教室までは、走っても3分は掛かる。その3分の間に逃げられてしまうのだ。早く捕まえておかないと、帰りも凍えて惨めな思いをする事は請け合い。

 斜め後ろから、あのアイスブルーの瞳が、ひたりと視線を注いでいるのが分かる。ああどうして、意外にお節介な彼。

 はごくりと唾を飲み、しかし腹をくくって立ち上がった。
「い、いや、やっぱ待てませんやっぱ無理です! なんかちょっと今緊急に吐き気がするっていうかムカムカするっていうか悪寒もするしお腹痛いし熱もあるかもとにかく超ピンチな気がしますので保健室行ってきます!!!」
「ちょ、おい、…「あ、一人で行けますだいじょぶです!」

 それ以上何か指摘される前に、慌てて教室を飛び出した。
 仮病を振る舞えた自信は全くないし、今後社会の先生に何をいわれるのやら、教室の微妙な空気加減なんて想像したくもない。ただ分かっていることは、もう、引き返すことは出来ない。

 体調不良で抜け出した上、他は授業中だから、廊下を走る事は出来ない。そもそも、廊下は走っちゃいけないんだけど。
 教室内は冷暖房完備だが、ここは外気に冷えている。静かな中で、教室の前を通ると、人の声が遠くくぐもって聞こえる。
 足音と、何故か息をも潜めて、ひたひたとは歩いた。
 大胆な事をしているにもかかわらず、心は浮かない。
 慈郎に会ったら、なんて言おう。
 叱り飛ばしてお説教して、わたしと皆に迷惑かけた事をしっかり謝ってもらおうと、その一心で駆け回っていたのに。そのはずだったのにーー



 その時、終礼のチャイムが高らかに鳴り、急に空気がざわめき始める。じゃあ、今日はここまで、と教師が室内で宣言し、ガタガタと机と椅子が揺れる音。
 は意を決し、がちゃりと教室内に踏み入、

「ひえっっ!」「おわっ!?」

 教師とばったり鉢合わせてしまい、慌てて後ろに仰け反る。
「お、…? 何だいきなり、何してんだお前」
「い、いやーちょっと、そのー……」
 しどろもどろに言い訳を考えていると、直ぐ側でガラリとドアが開く音。反射的に首を巡らせると、後方にある扉から、正に今、いでんとする人影がある。
 色素の薄い天然パーマ、小柄で猫背気味な体躯、だらだらと裾が長いカーディガン……

「ジロー!!」

 気付いたら、声に出ていた。
 そしたら、彼はこちらを向いて確かにをしかと認めて、それでいてもうあからさまに、効果音で言うなら「げっっ」としか言い表せないような、驚きと焦りと嫌気を交えた、そんな顔をしたのだった。

 後ろ向きな気持ちが一瞬で吹き飛んで、の胸中は苛烈な怒りに満ちた。

「くぉの、バカったれ!!!! あんた今まで何してたのよぉぉぉぉ!!!」
「おーい、授業だ、授業」
 もちろんそんなツッコミなど耳に全く入らない。猛然とダッシュするにくるりと背を向け、慈郎は一目散に駆け出した。
「おい! お前ら廊下は走るな!!!」
「な・ん・で・逃げんのよ馬鹿ジロー!!!!」
「うひゃああぁぁぁ〜〜!!」

 わたしの形相はそんなに鬼か、ええそうなんか!?
 すごい勢いで駆け抜ける二人を呆然と見送る生徒たちも、後ろで怒鳴っている教師の事も、遠く小さく感じた。
 足がもつれ、喉が引きつり、髪が乱れてボロボロになりながら走り続けているのに、憎たらしい背中に追いつけない。
 てゆか、なんであんたが逃げんのよあんたのせいでこうなってんでしょさっさと観念しなさいよ!!
 追いかけてる、わたしが悪いって言うわけ?? いや絶対馬鹿ジローのせいじゃん!!

 そのまま構内を走り続けて、はとうとう、北風吹きすさぶ屋上まで慈郎を追い詰めた。


*****


「じ、じ、じ、ジロー、もう、いい加減に、してよ!!」
 ガクガクと震える膝を叱咤激励し、荒い息の下から辛うじて言った。このままばったり倒れ込んでしまいそうだった。もちろん、吹き付ける風とむき出しの地面の冷たさを思うと、そんな事はとっても出来ないけれど。
 一日中めちゃくちゃに振り回されたおかげで、頭も、身体も、全てが悲鳴を上げている。

 力を振り絞り、お腹の底に気合を入れて、慈郎を睨むと、なんとも困った顔をしている。困っているのは、わたしだってば!!
さぁ……やっぱ、怒ってる?」
「はぁぁぁぁ!?」
 この状況で今、言うに事欠いて、それ? こめかみの辺りで神経の切れる音が聞こえた、気がした。
「怒ってるよ! 怒ってますよ!! 怒らないワケ、ないじゃん!!
 一方的にケンカ売られて、周りの人もいっぱい巻き込んで、寒いのにコートなしだよ!? 自分でやっといて、怒ってないとでも思ってんの??」
「えー、オレ別に、にケンカ売ってないもん」
 じゃあ、この仕打ちは一体なによ!!! ギッとありったけの力を込めて睨むと、彼はつと視線を逸らす。

 ……ふぅぅぅぅん、あっそー。そーですか。
 これだけしても、弁解の一つ、謝罪の一つもないってコト? アナタにとってのわたしって何? 気まぐれに振り回す楽しいオモチャ?
 二人の気持ちがこんなにすれ違ったことが、未だかつてあるだろうか。たまに厄介なことはあれど、同じ産湯に浸かったような仲なのだ。彼が何を考えてるかぐらい、大体分かっていたのに。
 それとも、それらは全て思い違いで、は慈郎のことを、なんにも分かっていなかったのか。もしくは、お互いに自立した結果?



 どっちにしても、最悪な気分には変わりない。
 容赦なく殴りつける北風に、身も心も硬く冷えていく。いっそ、このまま吹き飛ばされて、どこかに消えてしまいたい。
 目頭が熱くなる感覚を必死に抑えつけて、は努めて事務的に口を開いた。

「……ところで、わたしのコートは?」
「………………それは、ねー、持ってきてない」
 やっぱり、か。なんとなく想像は付いていたけれど、それでも徒労感は拭えない。じゃあジローの貸してよ、と言ったら、彼は心外だと言わんばかりに、どんぐり眼を更に見張った。
がコートないのに、オレだけ着てくるワケないじゃん!」
 オレそんなに極悪人じゃないよ! そして、そんな風に疑うなんて、ってヒトデナシ!みたいな目でこちらを責めるのだ。
「どっちがヒトデナシなのよ、どっちが!! あんたのその気の使い方が、間違ってんのよ!!」

 バカっ!!!と息を吐きながら叫んだら、うっかり、ぽろりと目の端から何かが転げた。
 ああ、今まで我慢をしていたのに。
 ここで泣いてしまったら、もう立ち上がれない気がして、は慌てて踵を返す。

「も、もういい! 帰る!」
「あ、ちょっと待って」
 今更、焦った声を出されたって遅い。静止を振り切り、すぐ後ろの分厚い鉄の扉を引っ張った。
 しかし、開かない。耳の脇からカーディガンに包まれた腕がにゅっと伸びて、扉を押しているからだ。
「ちょっと、なにすんのよ!」
「だから、待ってってば、!」
 抗議しようと振り向けば、上腕を固く掴まれる。そんなに大きくない手の癖に、がっちりと握るので痛い。わたしの腕はテニスラケットじゃないったら!

 そのまま、しばし揉み合いが続いた。は苛立って慈郎を振り払おうとするのだが、彼は食い下がったのだ。体格に差がないのと、頭に血が上っているせいで、なかなか決着が付かない。
 さして長くもない慈郎の腕に、両手首をそれぞれ抑えられた時には、二人ともすっかり息を切らしていた。



「いやっ! 離してよ、バカ!」
……」

 涙が出るのがすごく悔しい。泣いたら、負けなのに。拭うとか、隠すとかしたいのに、両腕を拘束されていたら何も出来ない。
 大体、一々馬鹿馬鹿しいのだ。
 コートを隠されたとか、そんな程度の低い小競り合いに、何で必死にならなきゃなんないのか。全然泣く価値もない、下らなさだ。
 が慈郎を殴って泣かせたのは幼稚園のときの話で、小学校も中学年に差し掛かった頃には、慈郎も反撃に叩き返さなくなった。二人の諍いは口喧嘩になって久しく、はすっかり暴力的な喧嘩を忘れている。
 もちろん、そんな事は忘れた方が良くて、殴り合いなんて野蛮だしアホ臭いし都会的じゃない。
 はもっとクールに生きたい。こんな、下らない事で無様に泣きっ面晒してるなんて、全く論外である。

 しかし、の頭の中は、冷たい部分とカッとなった怒りと痛みと寒さがごちゃごちゃになっているので、結局、それらを排斥するためには泣くしかないのだった。
 慈郎はその間べそべそ泣いているをただ見ている……だけではなく、ふと頬を寄せて、その眦から流れる塩水を舌で掬って舐めた。犬のように。


「!!!!!!!」


……ごめん。泣かないで」
 泣かないで、って、泣かせたのは誰だ。
 一瞬で痙攣を止めた横隔膜の裏では確かにそう思ったのだが、声には出ない。出せなかった。
 充血した瞳を見開き、言葉の代わりに、ただただ慈郎を見返している。
 なにした、今なにしたこいつ。

「あのさ……ホントね、こんなつもりじゃなかったんだけど」
 疲れてしょぼくれた、実に悲しそうな声。は、怒りも悲しみもひどい動揺に吹き飛ばされて、頭も心も空っぽだ。
「別に、に意地悪したかったわけじゃなくて……」
 慈郎は、心底申し訳なさそうな顔をしている。この顔、この雨の日にうち捨てられた子犬のような悲哀を全身に滲ませ憔悴して顎を引き前髪の下からの顔を伺い見る顔には、過去にも見覚えがある。
 二人が歴史に残る大喧嘩をしてが泣き伏せた後に、おずおずと見せる顔である。

「………………じゃあ、なに。なんだったの」
 低くぶっきらぼうになる口調は、未だ許しがたいような名残と、喉が引き攣れるのを隠すため。
 慈郎はなおも視線を外さないので、落ち着かなくなってそっぽを向いた。
 吹きさらす風に、流れた涙が乾いて冷たい。はべそべそになった顔を、そうしてはいけないとは知りながら、セーターの袖口で乱暴に拭く。
「……ちょっとさ、にワガママ言いたくて」
「……そんなの、いつもじゃん。それに、それなら、早く言えばいのに、なんで逃げたの」
「うーん、だってさぁ、みんな追いかけてくるからさぁ」

 なんか、おかしい。なんでこう、わたしが拗ねてて、慈郎が宥めるみたいになってるの。
 叱り飛ばす権利はにあって、ジローは正座して背中丸めてしょんぼりして反省するみたいな、そんな未来じゃなかったの。

 と、なんだか非常に理不尽なものを感じるのだが、慈郎はずっとを見ているし、はこれ以上泣いた顔を見せたくないから脇を向いていて、会話の主導権を握れない。

「………………それで?」
「え?」
「……なによ、ワガママって!」
 ああ、それねぇとなんだか気の抜けた答えが返ってきて、また、むっとする。そむけた頬の近くで、そっと言われる。
「んーじゃぁ、、こっち向いてよ」

「………………やだ」
 胸の奥から湧いてくるこの底知れない不穏さは、なんだ。は意地を張り、口をきつく引き結ぶ。
 え〜〜と抗議の声が上がるけど、なんでそんなに批難されなきゃいけないの。慈郎には、明らかに事実釈明の責任がある!
 彼は、しょうがないなぁとこれ見よがしに切り出して、

「だってさぁ、欲しかったんだもん。のチョコ」
「………………はぁ!?」
 思わず首を戻す。と、やっぱりを見ていた慈郎と、がっちり視線が交わってしまう。
 その視線に図らずも怯みながら、しかし声を荒げずにはいられない。
「なにそれ! バカじゃない!? 毎年あげてるのに!! なに言って…」
「だって〜〜、それ皆と一緒のヤツじゃん〜。兄ちゃんにも妹にもあげるし」
「あ、あげないワケないじゃない、どっちも幼なじみだもの……」

 だからさ、とため息混じりに言われる。なに、そのいかにも呆れてます、的な雰囲気。なに、悪いのわたしなの?
 それより、なんで、いつの間に、手を握られてるの??


「皆と一緒じゃなくて、オレだけ、別なヤツ。ちょーだい?」


 思わず固まったの両手を握ったまま、ね?と慈郎は最後の押しで小首を傾けておねだりポーズを完成させた。
 しかし、全く思考が付いていかないは反応が薄い。ついでにちゅーさせて、と更なる不平等条約を結ばされそうになってようやく、必死の頭突きをくらわして、この調子に乗った男を撃退したのだった。



 その後、二人が2月14日を忌むべき日と認定したか否かは、当人だけの秘密である。

(10.03.04)

2style.net