決戦はバレンタイン

「おはよう」
「おはよっ!」
 朝の学校は忙しない。遅刻しそうに駆け込んで来た人、一時間目から教室移動の人……。皆が一気に集まって、音と声が飛び交い、校舎中がそわそわしている。
 その陽気なざわめきが早朝の冷たい空気なんか簡単に吹き飛ばしてしまって、しっかり巻いたマフラーが暑すぎるぐらいだ。
 挨拶の嵐を交い潜って下駄箱に辿り着いたわたしは、火照った頬で息を吐く。

「おはよう、さん」
「わっ」
 突如、頭のてっぺんから声が落ちて来て、びくりと背筋が緊張した。
 慌てて振り返るけど……コートの黒い胸しか見えない。そのままつつつーっと視線を上に滑らせて、随分高い所に、にこにこと愛想良く微笑ったクラスメイトの顔。最近ちょっと話すようになった、テニス部の鳳くんだった。
「ああ、鳳くんかぁ。おはよう!」
 ほっとして笑顔を返す。彼はちょっと不思議そうな顔をしてたけど、だって本当に背が高いんだもの。見上げないと顔が見えないよ。
 隣を歩く彼を気にしながら、一体何センチ差があるんだろうか、とわたしはぼんやり考えた。

「今日の一時間目って何だっけ?」
「英語じゃなかった? ほら、鈴木先生の…」
「うわ、あの人か……」
 鳳くんは苦笑い。それもそのはず、鈴木先生は世界一眠たい声の持ち主なのだから。朝一番で寝ぼけた頭には、授業も子守歌にしか聞こえない。
「頑張ろうね」
「うん、耐え切ろう」
 わたしは一時的に彼と共同戦線を組み、鈴木先生の催眠攻撃に抵抗する事を誓ったのだ。神妙な顔がおかしくて、お互いすぐに吹き出してしまったのだけど。
 うーん、本当に耐えられるかな? わたしはあんまり、自信ない。


 果たして、英語の授業は大変な激戦へと発展した。鈴木先生のアルファ波で、気付けばクラスの半数以上が倒れている。中には本格的に眠り込んでいる強者までいて、戦場は燦々たる結果だ。
 かく言うわたしも、この猛攻撃に屈しそう。幾度となく首が下にずり落ちて、慌てて姿勢を正している。
 うっ、ノートがすっかり判別不能……後で書き直さなきゃ。
 時折耳を掠める先生の説明は確かに的を射ているのだけど、もごもごとくぐもる発音が何とも眠たい。聞かなくちゃ、と思えば思うほど、催眠術に掛かっていくんだ。その上、こうまで周りに幸せそうに寝られては、我慢も限界。
 ああ、もう駄目。
 朦朧とした意識の中で、ふっと最後に辺りを見渡して――

 一人、誘惑に負けずにピンと背筋を伸ばした男の子がいた。
 短く刈った銀髪の頭が黒板をきちんと向いて、ブレザーには皺一つなくて、しっかりと、授業を受けている。
 彼の凛とした清々しさに、思わず瞼がくっつくのをやめた。
 シャーペンを握る手に、力が戻って来る。

 ふと、全く偶然に、わたしたちの視線が交わる。
 彼はちょっと目を細めて、わたしに小さくシャーペンを振る――
 ――一気に、目が醒めた。

 相変わらず先生はもごもご喋っているけど、それにもはや催眠効果はない。クラスの皆が沈没する中、わたしの頭は冴え渡っている。鳳くんはもう前を向き直っているけど、わたしはよそ見のまま。
 誠実に授業を受ける人の姿を、美しいと思ったのは初めてだったから。

 寝ちゃえば良いや、とは思わないのかな。
 きっと誰もがそう思って、意識を手放していくのに。抗えずに抗わずに、流されていってしまうのに。

 でも、鳳くんはそうしない。
 わたしはその日から、彼という人を気にするようになったのだ。


* * * * *


「ねぇ、今年はどうするの??」
 ある日の昼休み、お弁当越しにそんな話題で盛り上がった。いつも一緒にお昼を食べる友達は、楽しそうにバレンタインの意気込みを語る。
 ああ、もう二月だもんなぁ……。
 肉巻き牛蒡を囓りながら、わたしは話に耳を傾けていた。
 クッキーがいいかな、ケーキがいいかな、なんて話し合う友達は、可愛くて楽しそうで、ちょっと羨ましい。女の子同士、手作りのお菓子をあげっこするのも流行っているんだけど、わたしは上手く作れなくて、食べる方が専門なんだ。

 美味しそうだなー、とぼんやりしていたわたしは、急に話を振られて思わず聞き返してしまった。
「え、な、何?」
「もう、話聞いてなさいよ!」
 口振りでだけ怒って見せて、彼女はニヤニヤとわたしの顔を覗き込む。
は誰かにあげないの?」
「え……わたし?」
「あれ、 好きな人いるの?」
「きゃー、誰だれ!?」
 途端にグループ内の視線が集まる。思わぬ歓迎を受けて、わたしはご飯を喉に詰まらせそうになった。

「い、いないよ! あげたい人なんか…」
 なんとかそう言った瞬間に、ふと一人の顔が思い浮かんでしまって、慌てて首を横に振る。だが、その隙を見逃すような優しい女の子は、この中にはいないんだ。
「えー、ソレ本当ー?」
「なんかさ、最近 変わったし……」
「言っちゃいなさいよ、あたしたちの仲じゃない!」
「ほ、本当だったら!」

 はいはい、と揃いの笑顔を浮かべて、彼女たちは引き下がる。
 恋愛話は華やかだけど、あんまり得意じゃないから困る。やっぱり、人の話を感心しながら聞いている方が、気が楽だよ。
 紙パックのお茶を啜って、騒がしい心臓を落ち着ける。
 ようやくいつもの脈拍に戻って、ホッとしたとこで、また心臓がドキッ!っと跳ねた。思いもよらない単語が、耳を霞めたから。

「わたしは鳳くんかなぁ〜」
「えー、それってちょっと、競争率高くない??」
「いいのよ、義理でも。あげられるだけ幸せ!」

 楽しそうな声が、急に向こうに遠ざかる。
 ああ、やっぱり。そうだよね、鳳くんって、人気者だもの。あのテニス部のレギュラーだし。
 跳ねた心臓が、やけにゆっくり動き始める。もう止まっちゃうんじゃないかってぐらい。お弁当の中身はちっとも減っていないのに、全然食べる気がしないや。
 しかもしかも、

「そう言えば、鳳くんって誕生日14日じゃなかったっけ?」
「あー、聞いた聞いた! 偶然だよね」

 あ……そうなんだぁ。知らなかった。全然。ちっとも。
 わたし、何も彼の事知らないんだ。ただのクラスメイトで、ちょっと話した事あるってだけで――ちょっと格好良いなって思ってるだけで。

 なんか急にぐぐぐーって、頭が重たくなってきた。
 知って良かった!って前向きに、どうしても考えられなかった。

 半分以上残っているお弁当にパチンと蓋をする。
 隣の子が、不思議そうにわたしの行動を見てる。
「なぁに、 ったらダイエット?」
「ううん、違うけど……」
 曖昧に誤魔化す事しか出来ない自分を情けなく思いながら、わたしは断って席を立つ。

 こんな気分だと言うのに、トイレに向かう廊下の、丁度真下が運悪くテニスコートだった。
 熱心な部員たちがお昼休みも練習に費やしている事ぐらい、氷帝の生徒なら誰でも知っている。銀色の金網が冬の日差しをきらきらと弾いて、わたしの目を刺した。

 もしかしたらそこに、背の高い、同じクラスの男の子がいたかも知れない。
 もしかしたら、その彼はたまたま面を上げて、校舎の方を向いていたのかも知れない。

 でもわたしは良く見えないふりをして、足早にそこを立ち去った。


* * * * *


 その日は珍しく春めいて、お日様がぽかぽかと優しく街を暖めていた。
 人通りの多い繁華街の、しかも一番暖かい昼間では、着てきたコートが暑いぐらい。かさ張るそれを鞄とまとめて持ちながら、わたしはぶらぶらとお店を冷やかしていた。

 地面から天井まで打ち抜いた大きなショーウィンドウは、一足早くマネキンに春服を着せている。
 ウキウキするパステルカラーが可愛くて、どれも全部欲しくなっちゃう!
 でも悲しいかな、中学二年生のお小遣いでは手の届かない値段ばかりだ。
 今度お母さんにおねだりしよう、と勝手な予定を立てながら、次の角を曲がる。

 途端に赤とピンクの洪水が目に飛び込んだ。
 ハート型のポップ、きらきらしたモールの飾り、“Happy Valentine!!”の金色のロゴが踊っている。まさしくバレンタインフェア真っ最中。
 なによりそれを象徴する大量のチョコと人、人、人!!

 可愛くラッピングされた箱がずらりと並んで、どうして買わないの?ってわたしに迫る。
 典型的な流されやすい日本人の血を持つわたしは、思わず一つを手に取ってしまった。
 買うつもりなんか、それまでちっとも考えてなかったくせに、だ。

「こちら人気のトリュフチョコになります。甘さ控え目で男性にも食べやすいと好評を頂いておりますが、いかがでしょうか?」
 持ったまま悩んでいるわたしに目をつけたのか、満面笑みの店員さんがすり寄って来る。
 よろしければご試食出来ますよ、なんて勧められて、非常に困ってしまった。

 だって、わたしなんかまだあげる相手も決まってない。他のお客さんのように、誰かに恋してドキドキしながらチョコを選んでいる訳じゃない。
 ただ何となく、雰囲気に飲まれただけの、全く不純な動機なんだ。

 そんな自分がすごく情けなくて、わたしはチョコを放り出して逃げ出してしまったんだ。


 冷静に考えてみれば、たかがチョコ。気負う必要なんかなくて、普通に買っちゃえば良かったんだ。
 お父さんにあげる分もまだ買ってないし、自分で食べちゃったっていい。
 別に誰にあげなくたって。

 ああ、わたしってどうしてこう……。

 楽しかった買い物気分も、どこかに吹っ飛んでしまって、わたしは無益な自己嫌悪に苛まれた。
 提げた荷物が急に重くなる。せっかくの陽気ももはやどうでも良くて、なんだかひどく疲れていた。

 もう帰ろう。
 溜め息を付きながらのろのろときびすを返すと、目の前に紺色のジャケットが立ちはだかっていた。

「あれ、さん?」
「えっ?」
 なんだろう、この感じ。前にもどこかで見た事がある……。
 わたしはゆっくりと視線を上げる。胸が肩に、肩が首に、首が顎に――
 天を仰ぐばかりに見上げた先は、果たして、にっこり微笑む鳳くんの顔だったんだ。


「お、お、鳳くん…??」
「ああ、やっぱり! 偶然だね」
 心臓がやけにうるさいのは、あまりに突然で驚いたから。
 本当に、ただそれだけなんだから!!
 間違えてたら恥ずかしかったな、と彼は照れたように笑っているのに、わたしは微笑み一つ返せない。ぎこちなく固まって、油の切れたロボットみたいだ。

さんは、買い物?」
「う、うん……」
 ああ、そんなに愛想良く笑わないで。
 その屈託のなさが太陽みたいに眩しくて、わたしは自分の爪先に向かって返事をした。挙動不審なのは分かってる、鳳くんが怪訝そうな顔をしているであろう事も。
 でも、それ以上にいたたまれないわたしには、これが精一杯。とにかくこの何十秒かの邂逅を、乗り切ればいい、と必死だった。

 それなのに、彼は一向に「じゃあ!」と立ち去る素振りを見せなかったんだ。

 鳳くんははたと何かを思い付くと、背中を屈めて提案する。
「あの、アイス食べない?」
「へ??」
 急に近くなった視線に戸惑っていたわたしは、何を言われたのか分からなくて、ひどく間抜けな声をあげてしまった。彼はわたしの裏返った声を笑いもせず、もう一度ゆっくりと言い直してくれる。
「何か冷たい物でも、と思ったんだけど、男が一人で買うのは気まずくてさ。良かったら、付き合ってくれないかな?」
「ええっ? う、うん、いいけど……」
「ありがとう!」
 彼はパッと眉間を緩めて、子供のように笑った。
 そして、呆気に取られたわたしを置いて、ソフトクリームの売店に駆け寄るのだった。


 気が付けば、わたしたちは並んでベンチに腰掛けながら、ソフトクリームを舐めていた。
 食べたい、と言っていただけあって、鳳くんはすごく嬉しそうだ。
 その笑顔を横に見ながら、わたしも白い山を一口頬張る。甘くて冷たいクリームが火照った身体にスッと溶けて、混乱を冷ましてくれるようだった。

「鳳くんも買い物に来たの?」
 少し元気になったわたしは、勇気を出して話し掛ける。と言っても、ただの世間話なんだけど。
「ううん、俺はこれを取りに来てたんだ」
 ソフトクリームから視線を剥がしてこちらを向いた鳳くんは、何やら細長い箱を取り出してくれた。中から出て来たのは、飴色の木に、白い糸が帯のように張られた物。
 これは、もしかして……
「バイオリンの弓…?」
「そう。良く分かったね!」
 茶目っ気たっぷりに笑う彼より、もっと驚く事実がある。
「じゃあ、鳳くんはバイオリン弾けるの!?」
「うん、小さい頃から習っていたから」
「す、凄いね!!」
 優雅な特技に驚くわたしに、彼はそうかな?と不思議そうに首を傾げた。

「バイオリンの弓は、たまに張り替えないと駄目なんだ。使っているうちに傷んでくるからね」
「へぇーー!!」
 音楽、と言ってもJ-POPしか知らないわたしには、バイオリンなんかますます全く未知なる楽器。
 目を丸くして感心していたら、鳳くんにクスクスとおかしそうに笑われてしまった。
「あ、ごめん。反応が可愛かったから、つい……」
 ぎゃー! 何言ってるの、この人!??
「いいいいえ、こちらこそ……!」
 どわーっと吹き出してきた汗を冷まそうと、わたしは慌ててソフトクリームにかぶりついた。
 いや、落ち着け、落ち着くのよ ! あれは単なる社交辞令…!
 人の気も知らず、鳳くんはまだ肩を震わせているし、もうどうしたらいいのか分からないよ!!
 とにかくこの場を何とかしなきゃ、と焦ったわたしは、混乱した頭のまま思い浮かんだ事を咄嗟に口に出した。

「そっ、そういえば、誕生日だよね!? 14日! 今週の…」
「うん、そうだけど……」
 急な話題に鳳くんはきょとんとしている。
 だけど、今更引き下がる訳にはいかない。わたしは気まずさを取り繕うために、言葉を探した。
「あの、バレンタインと同じ日なんだね」
「覚えやすいって事ぐらいしか、良い事ないけどね」
 そう肩を竦めた彼は、何かを思い出してにっこりと笑った。
「いつもプレゼントとチョコを一緒にもらうから、誕生日はチョコをあげるものなんだと思ってた」
 つられてわたしも笑ってしまう。
 鳳くんの小さい頃かぁ……きっと、背の高さ以外は、今とあんまり変わらないんだろうな。
 何となくほのぼのとしたところで、わたしは手に持っている物を思い出した。

「あ、誕生日なんだからわたしが奢れば良かったね」
 と言うか、お金すら出してなかった。こりゃちょっと、図々しすぎたかも??
 慌てて財布を探していると、彼は困った顔でそれを押しとどめる。
「いいよ、今日は。俺が誘ったんだしさ」
「でも……」

 言い淀んだわたしを見て、彼は急に顔を引き締める。
 その真面目な表情に驚いて、わたしはつい、及び腰になった。

「あの、じゃあ、代わりと言ったらおかしいんだけど……」
「う、うん。なぁに?」
 どうしたんだろう、妙に歯切れが悪い。宿題見せて、とかそんな事かと思ってたんだけど……うう、何だか緊張しちゃうよ。
「俺に誕生日プレゼント、くれないかな?」
「えっ? あ、うん、いいよ」
 なぁんだ、そっちか。思わず肩の力を抜いてしまう。
 でも、まだ彼の話は終わっていなかったんだ。

「何か欲しい物あるの? あ、あんまり高い物は買えないけど……」
「いや、無理しなくて良いんだけど――ええと、その」
 あれ、何で鳳くんの顔が赤いんだろう。わたしはこっそり首を傾げ――

「あの、チョコが欲しいんだ」
「え?」
「誕生日に、君のバレンタインチョコが……」


 たっぷり五秒、わたしの頭は機能を停止した。
 それからゆっくり今の会話を反復して――え、ええっ、えええええ!?!?
 もう、どうなってるの、これ?? チョコって、しかもバレンタインチョコって、だって鳳くんいっぱいもらう人いるし……!??

 いや違う、違うんだ、きっと。
 多分そんな意味じゃなくて、何か別の理由が――。

 頬を火照らせたまま、わたしはおそるおそる彼の顔色を伺う。
 そしたら、それは予想外に真っ赤だったので、わたしはますます勘違いして、トマトのようになってしまった。

「別に、嫌だったら良いんだけど……くれたら、すごく、俺は嬉しいんだけど……。
 ……ああ、何を言ってるんだろう」
 彼は額を抱えて唸り、居心地悪そうにパッと立ち上がった。

「あの、変な事言ってごめん! 忘れてくれて良いから――
 じゃあ俺、先に行くね!」


 また明日、と別れの挨拶もそこそこに、彼は雑踏に混じっていった。
 わたしは「バイバイ」も言いそびれたまま、ソフトクリームのコーンを握り締めて、ベンチに凍り付いている。

 ええと、もしかして、今のは――?
 いやいや、他にも考えるべき事はある。彼は忘れて、と言ったけれど、わたしは一体どうすればいいの?

 ちらり、と脳裏をさっきのチョコレート売り場が掠める。
 バレンタインのピンクのハートと、金色のモールの飾り付けも。



 人騒がせなバレンタインまで、残すところあと二日。
 街をピンクと赤に染めて、冬の日差しは、ゆっくり西に傾きつつあった。
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