CG児童ポルノ事件第一回公判を傍聴して


 例の裁判を傍聴した際の記録を、細切れのtweetsではない形で、字数制限を無視して再構成した上で以下に記す。部分の初出は、遅報一式細かい話あたりから辿れるtweetsと、アレとかアレらへんである。深い考察とかそういうアレではなく、単に1ファイルにまとめておこうとかその程度のアレなので、たいしたものではございません。以下では、そこで語られた内容を詳細に記すことよりも、その先にどんな話があるのかに注意を向けている。法廷で語られたことも、これから語られることも、この事件に特有の話である。以下では、それらを前提として何が起きることになるかを考え始めてみたい。
 このファイルは、2013年12月28日にとりあえずのものとして作られ、同年12月29日に全体を一個のものとして読めるよう留意して補訂され、2014年3月21日までに補足された。


ざっくりしたお話

 全体の雰囲気とか様子とかについて、始めにまとめる。
 一部訴因変更があったというが、変更前について語られていないのでなんともわからない。こういうところこそが検察の逡巡が隠れているかも知れない点だけに気になる。でも、部外者にはわからない。
 形として自信があるふりをする検察官役の演技は、わりとよく見られるものだった。弁護人、特にD先生の遠慮会釈のない戦人っぷりも相変わらずだった。裁判官の言い分をきっちり聞こうとする態度とか雰囲気は見慣れたものとちょっと違ったかも知れない気がする。
 特筆されるべきは、堂々とした被告人のご姿勢である。そういうことはやった、だがそれは児童ポルノではない、無罪だ、と。初めての法廷で裁判官の目を見て言える人がどれほどいるだろうと考えさせられる。

問題の所在

 困った言説が色々出回っているので、この公判で問われるものについて独立して触れておく。

 本件で児ポ法に関連して最初に問題となるのは、その映像が法律上の児童ポルノ(注釈略)に該当するか否かである。

 元になったとされる写真集は、裁判例に照らして考えるならば、児童ポルノである。それが芸術性を備えていることは、この評価に影響を及ぼさない。この評価は、芸術として発表された写真集を裁判所が児童ポルノとしてきた歴史に鑑みれば、疑いを容れない。つまり、それが芸術であることは、それを児童ポルノとして禁圧させない理由とはなっていない。このことは、児童を虐待から守る法の趣旨からしても当然の理である。なお、芸術なら何をやっても構わないと言わんばかりの主張を裁判所が容れたことはない。被害者が存在しないわいせつ関連の事例についてですら、そうである。被害者が存在する児ポ法において、この種の主張が容れられるべき根拠は、存在しないか、少なくともわいせつより薄弱である。
 ところが、被告人は、それらの写真集と異なる構図の映像を作成したらしい。その程度が明らかでない状態で確定的な表現はできないとはいえ、少なくとも明度や彩度を加工したとか効果を足したとかそういう程度ではないらしい。この部分の詳細は、明らかでない。
 部分的原典が児童ポルノであるからといって、何らかの程度でそれを借用した架空の映像を児童ポルノと呼ぶことが現行法上許されるのか。最初に問われているのは、この点である。

 困ったことに、そのへんには、「創作の児童ポルノ性」「写実的な描画の児童ポルノ性」といった論点を設定する説が散見される。それらは、本件特有の事情のみならず、現行法の解釈論をも無視した独自のご意見に過ぎない。現行法と裁判例に沿って考える限り、創作であるか否かとか写実的な描画であるか否かは、その映像が児童ポルノであるか否かを決するものではないからである。

公判で示された論点

 この公判では、法的な論点が幾つか示されている。

「3号ポルノ」

 該当する映像は、検察官によれば、「3号ポルノ」だということだった。1・2号でないということが、法廷ではっきりした。報道されたようなものが該当するならば、3号ということにはなろう。しかし、いくら検察官の弁を聞いても、起訴されたできごとの中心にあるものの中身が3号ポルノであるという以上のことが何ら主張されていないようである。弁護人の求釈明も、ここいらへんを突きたいのかな的な含みを匂わせていた。
 ここで問題となるのは、有体物たる児童ポルノと、これと同様の内容だが有体物ではない何かとの区別である。この何かは、法律上、単純に「児童ポルノ」とは呼ばれない。弁護人からの求釈明は、この辺りにも及んでいた。もっとも、法務省がそのあたりを意識していたら、あの刑法175条を作れるはずもないので、恐らくこのあたりは誤魔化されることになるだろう。なお、好意的なフォローをしていた「研究者」の論文があったような記憶があるが、面倒なので探していない。

構成と他の登場人物

 児ポ法の外にある刑法総論のお話が、論点として示された。
 弁護人は、検察官は被告人による「間接正犯」という主張をしているのかとも、釈明を求めた。検察官は即時には回答できないとした。この点については、ちょっと細かく考えておきたい。なお、以下の検討は、罪責を問うならばどういう構成が可能なのだろうかというお話である。これを書いた者には、メ社とかP社が有罪判決を受けるべきだなどとことさらに言い立てるつもりなどない。

 被告人は、メ社に販売を委託した。この委託販売を実現するために、データをP社の鯖に置いた。その「販売」が犯罪だとしよう。この場合、P社もメ社も、正犯にも広い意味の共犯各種にも構成できなくはない。これは、妥当性ではなく可能性の話をする限りでのことである。

 出来事の流れからすれば作為を見出されざるを得ないであろうメ社がまとめて起訴されていないのはどういうことなのだろう。小売店が販売罪になるのは、珍しい話ではない。いつもの検察なら、故意なしの類の言い訳を許すこともないだろう。だから、よくある筋書きなら、実際の販売を担ったメ社が販売罪で起訴されるべきことになるはずだ。しかし、そうなっていない。
 この状況は、よくある説明によって、理解可能なものとなる。悪質性がどうのという説明が繰り出され、現被告人一人だけの起訴が正当化されることになるならば、である。そうだとすると、なんともすっきりしないお話が出来上がる。検察官は、それが悪いことだと認識するならば、関与した者を罰するべく堂々と主張すればよいはずだ。ある見方からは、メ社を放置する警察と検察がそれを怠っているという理解すら成り立つだろう。児童ポルノの類を徹底的に禁圧しようとする立場の方々は、この恣意的で不明朗な不起訴を攻撃すべきだということになるのではないか。そのようなご主張を目にしたことはないが、もしあったら教えていただきたいものだ。

 ところで、このメ社がなしたことを犯罪とするに際しては、構成が大きな問題になる。この構成が、被告人の防御にも関わるからである。
 例えばメ社を単独正犯とするなら、この点は論理的にはさほど重大でない。お互い勝手に防御する訳に行くからだ。メ社がアレな弁護人を連れて来たら実際的な悪影響が…とかそういう危険性がないわけでもなかろうが、基本的には別々に話が進むのだから、他の構成と比べれば、影響は最小限となる。
 あるいは、仮にメ社を共同正犯とするなら、大変だ。これまでに明らかにされた検察側の筋書きさえ、変わってしまう可能性がある。これでは、検察側にとっても厄介だろう。もっとも、中心に現被告人を置き続けて何とかすることも不可能ではない。世間によくあるものに喩えるなら、ごり押し芸能人を押し込んだ映画やドラマのような強引な雰囲気が生まれるかも知れないといった感じだろうか。そのあたりの仔細はともかく、被告人の防御には様々な影響が生じる。もっとも、この構成が採られるためには、何をもって「共同」と捉えるかが問題になる。この点から、これは考えにくい筋だということになる。
 以上とは異なり、メ社を用いた現被告人の間接正犯とする考え方も成り立ちそうだ。しかし、これには、メ社が売ったものの中身を知らずに機械的に商売していたというような類の、メ社がシステムを準備して運用しているだけで、本件で問題とされているものに関して直接的には何もしていないというような感じの前提が必要だ。それはそれで無理があるような気がしないでもない。販売のための様々な作業の中で、売られるものの内容が何ら確認されないというだけでも不自然だからである。
 そして、メ社の行為のうち犯罪として把握されるのは作為か不作為か。いずれであれ、どこをどう認定するがややこしいお話になる。これは事実それ自体のお話ではなく、法的な評価のための構成のお話である。いかなる5W1Hをもって販売に関わる行為として扱うのかを、検察官は明示しなくてはならない。
 この辺りの難しさを考えると、正犯よりも販売の幇助で構成するのが順当かな…とかそんな気もしてくる。あくまで気がするレヴェルではあるが。これは、検察側にとって無理がない構成はそのあたりだと憶測されるという意味である。なお、教唆等の他の共犯としての扱いには、あまりにも無理があるので考えないことにする。

 P社の罪責はどうか。これを問うならば、常識的に考えれば不作為しかなかったことが問題になる。相場というか実績というかを見れば、この手の事案の正犯については、不作為犯構成が珍しい。不作為犯として扱われやすいのがどのような犯罪かをご理解いただくには、刑法の教科書でもお読みいただければよいだろう。このような事情で、不作為の正犯という構成は考えにくい。このため、正犯として扱うならば、警察検察裁判所が作為を認定するという、一部ではおなじみの強引な構成を見ることになりかねない。この展開は、その作為と同質の作為がそこいら中にあるのであっちも犯罪扱いされる…的なお話に繋がる。他方で、システムの準備を作為による幇助として捉えたり、データの不削除を不作為による幇助として扱うこともできなくはない。できなくはないが、例えばwinny事件の判決が示す法理に拠れば、無闇に立件できるような筋でもないだろう。このあたりは傍論の傍論の傍論くらいになるので、説明を省く。
 そもそも、実際にP社が果たした役割の仔細が明らかにならないことには、検討もやりづらい。やりづらいけれど、類似した面のある様々な手段…そう、手段とでもいわなければまとめられないような、まとまったサーヴィスであったり一つのソフトウェアであったりするような様々なものへの波及的影響を考えるならば、この点を無視することもできない。

 だいたい以上に書いたようなことを考えつつ、検察の筋書きを好意的に深読みして差し上げると、間接正犯構成を考えていたというあたりに落ち着きそうである。そうでもなければ色々と説明がつきづらいような気がする。あくまで、気がする。そして、そんな強引な憶測を捨てて考えれば、検察は、現被告人が単独でブツを売った的な構成を能天気にお考えだったりしたんじゃないだろうか…とかそんな気がしないでもない。
 こんなことを細々と考えるのにもそれなりの理由があるのだが、何らかの事情で検察屋さんの目に入ったりするとアレなので、この理由にはあえて触れないことにしておきたい。

関連記事について

 その後、この第一回公判についての幾つかの記事を目にした。それらについて、可能な限りの注意を促しておきたい。
 「pixivやメロンブックスへ飛び火する恐れも…CG児童ポルノ裁判の初公判「私は無実です」」という各方面からの信頼がある記者さんの記事は、細かい。細かいだけに、かなり独自取材の痕跡がある。それだけに、法廷で明かされた事実との境目を気にしない都市伝説の種になりかねない。また、基本的な語句に誤りが散見される。合議体の長でない者を裁判長と呼んだり、児童ポルノは「実写に限る」と言い切ってみたりと、基本的な知識の欠如があからさまである。鵜呑みにしてよい記事ではない。
 「「児童ポルノではありません。私は無罪です」CGで児ポ法違反に問われた男性の初公判」との記事の中途半端さにも、注意を促しておきたい。例えば、販売先が一件だけのようにしか読めない書き方など、重要部分が不明瞭である。なお、法廷では、三件の販売先が明示されていた。記事中にある壇弁護人の談話も、書かれた通りのものだったのかどうか、明らかではないと捉えざるを得ない。
 これを書いた者は、以上の他の、雑報レヴェルでない報道には接していない。

これから

 注視すべきは、かの方が逮捕されたことではない。どのような事実があったかが明かされ、これに対する法的評価がどのように下されることになるかである。明かされた事実は断片的であり、部外者による断定的な表現を受け入れにくい。これを読んだ方には、まずは法廷で公判を傍聴し、これまでより少しだけ多くの事実を確かめることを切に望む。



ツイート 中の人をフォロー
 ↑この階層のindexへ
2style.net