渡辺真由子の言説


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 このページでは、剽窃家として名を売った渡辺真由子が森林資源・編集者・読者および社会に与えてきた負荷について確認する。ここでは、原則として渡辺の全著作と関連する他人の著作等を対象とする方針である。しかし、現在のところ収集と言及は途上である。

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著者題目掲載時期
渡辺真由子わたし流番組論(63) 常識や習慣から解き放たれてみたい 「新しい価値観」「新しい場所」を求めて月刊民放31巻9号200109038
渡辺真由子大人が知らないネットいじめの真実著書200807
田熊邦光他4公開シンポジウム「市民とメディア メディアリテラシーと情報発信」教育メディア研究15巻2号200903095
渡辺真由子いじめの温床 親が知らない子ども携帯サイトの闇エコノミスト87巻22号200904038
渡辺真由子ケータイで友人ができるのか教育と医学57巻6号200906504
渡辺真由子ストップ!「ネットいじめ」 今こそ学校で的確なネット・リテラシー教育を メディアジャーナリスト 渡辺真由子さんに聞く総合教育技術65巻3号201005048
渡辺真由子ネット上の性情報に対する規制とメディア・リテラシー教育のあり方の国際比較メディア・コミュニケーション61号201103059
渡辺真由子性的有害情報に関する実証的研究の系譜〜従来メディアからネットまで情報通信学会誌30巻2号201209088
香川七海「ネットいじめ」言説の陥穽子ども教育研究5号201303035
渡辺真由子子どもポルノをめぐる国際動向と人権情報通信政策レビュー10号201503001
渡辺真由子リベンジポルノ 性を拡散される若者たち著書201511
古野まほろ『リベンジポルノ―性を拡散される若者たち―』渡辺真由子著捜査研究65巻6号201606075
渡辺真由子児童ポルノ規制の新たな展開博論201703
渡辺真由子性暴力表現を巡るカナダ法と人権ネクストコム34号201806030
渡辺真由子「創作子どもポルノ」と子どもの人権著書201804
渡辺真由子性情報をめぐるデジタル・シティズンシップ教育の展望メディア情報リテラシー研究1巻2号202003039


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わたし流番組論(63) 常識や習慣から解き放たれてみたい 「新しい価値観」「新しい場所」を求めて

(2001年9月) 月刊民放31巻9号
 業界誌の、毎回担当者を変える続きものの、4頁に及ぶ散漫な随筆である。
 渡辺は、いじめ自殺に関する取材の体験を語り、そこから「女性」対男性の話に繋げ、女性の優位を語る(39頁以下)中で意思決定の場が男性ばかりであることを挙げ、「むしろルックスに自信のある男性たちがそんな訴えを起こしたら面白いと思う」(40頁)と、ルッキズムを正面から肯定する。さすがにミスコンに出場してのけた方は違う。そして渡辺は、マスメディアにおける作り手の大半が男性であることを縷々述べ、さらに話題を変えて地方の放送局の仕事と自身の遍歴について語る。そして話は福岡セクハラ事件に飛び、渡辺は取材経験について失敗を交えて語る。ここで問題とされるのは「相手の気持ち」(41頁)である。情緒的な話しかできない渡辺らしい端的なまとめ方である。加えて渡辺は、標題にあるような願望を語る。
 記者になって今年で4年目を迎える。一貫したテーマは、「新しい価値観」を創ること。これまで常識だと思っていた言葉や考え方を改めて見直し、一人ひとりがそのしがらみから解き放たれてみることで、より人間らしく生きやすい世の中にできないか。(41頁)
 その後、著作権法という常識や引用をめぐる(微妙に渡辺風の表現)習慣から解き放たれた渡辺の著書が回収されるに至ったことを知ってから読むと、味わい深い(渡辺でも書けるような単なる感想)。他人の著作を「しがらみから解き放たれて」利用できる、他人を踏みつけてでも渡辺だけが「生きやすい世の中」は、訪れずに済んだ。
 末尾で渡辺は活字媒体に言及し、「編集者泣かせになろうことだけは容易に想像がつく」(41頁)という自覚的な供述をしている。その後実際に編集者どころか出版社を泣かせるのだから、大物には違いない。
 なお、この記事における記述によると、渡辺は「愛知生まれ、奈良、金沢、東京にオーストラリア」(40頁)の居住経験を有し、勤務地となった福岡には縁がなかったようである。記事末尾の著者紹介には、「1975年生まれ。金沢市出身。慶応大学文学部卒。98年九州朝日放送入社、報道職。」などとある(41頁)


大人が知らないネットいじめの真実

(2008年7月) 著書
 200頁を越える書籍である。4か章から構成され、それぞれネットについての一般論・いじめ被害者の意見・「心の教育のためのネット・リテラシー」・対策を扱うであろう標題があるものの、目次に書かれた節・項の題目だけを見ても、そして本文に目を通しても、整理した切り分け方ができているようには受け取れない。要するに、その全体は、それっぽい話をする随筆である。そこでは、現象を見て対処療法的な提言がなされるに過ぎない。原理的分析に至ることがない内容は、批判の対象となるようなものではない。
 特筆すべきは、1か章が「リテラシー」を扱うという構造である。渡辺は、相手構わずリテラシーを求めることで、誰に何を求めるべきかを曖昧にし、いじめの責任の所在すら有耶無耶にする。さすが、責任を追及されたら困るようなことばかりしているだけのことはある。
 渡辺がリテラシー(笑)について縷々述べる中では、メディアの責任も言及される。そこでは、暴力表現(164頁以下)とか性表現(167頁以下)についても、指弾がなされる。
 「主要参考文献」は六点で、学術書は含まれず、著名芸能人のもの二つと自著一つを含む。その程度のものに独自取材を加えて独自バイアスを上乗せされた本書は、文字で書かれたワイドショーに過ぎない。そのような性質の著作故、批判されるべき恣意的理解が既に指摘されている


田熊邦光他4 公開シンポジウム「市民とメディア メディアリテラシーと情報発信」

(2009年3月) 教育メディア研究15巻2号
 他に田熊邦光・林直哉が登壇し、小川明子が司会を務めた、大西誠の企画によるある学会の公開シンポの記録である。登壇者渡辺は、ネットいじめについて報告し、ネットリテラシーやメディアリテラシーの意義を語ったようである。


いじめの温床 親が知らない子ども携帯サイトの闇

(2009年4月) エコノミスト87巻22号(4月22日号)
 一般誌の、3頁に及ぶ記事である。渡辺の肩書は、「メディアジャーナリスト」とされている。掲載誌の性質上、一つの出典も示さずに独自の取材結果らしきものを縷々述べる渡辺のやり方は、基本的には許容されざるを得ない。それ故、批判の対象となるべきものではないと考えることもできる。

 そんな記事の末尾に、渡辺の立場を読み解く鍵となりそうな部分が見られる。
 厚生労働省が3月に発表した、同一家族を継続的に調査する「21世紀出生児縦断調査」を見ると、父親が休日に幼児期の子どもと過ごす時間が長いほど、子どもは我慢強く育つ、という傾向が浮かび上がった。学校や警察などの取り組みも重要だが、親子で携帯電話の危険性についてじっくり話し合うなど、常に「親と子の心のつながり」を保つことも、解決策の1つとなるだろう。(40頁)
 渡辺は、親子のつながりに肯定的価値のみを見出す。そこでは、親が子を導くことが当然視される家父長制と親和的な構造が前提とされている。後の渡辺は、他人の論文からの引用を捏造してまで同様の主張を加えるに至っている。この親子観は、渡辺にとって根本的なものなのだろう。そして、そこから誰もが一つの疑問を得るだろう。ならば渡辺の親は何をやっていたんだ、と。


ケータイで友人ができるのか

(2009年6月) 教育と医学57巻6号
 慶應義塾が絡む雑誌の、特集「子どもとケータイ」中の7頁の記事である。もっとも、発行元団体の役員と編集委員には、渡辺の主査・副査の名はない(104頁)
 渡辺は、交友の手段としての携帯電話について、第三者の実態調査に依拠しつつ語る。その中では、「プロフ」や「メール」が言及され、「ネットいじめ」についても語られる。そして最後には、リテラシー教育の重要性が主張される。確かにリテラシーは重要である。リテラシーが欠けていれば、他人が書いたものを剽窃してすべてを失うようなことにもなりかねないのだ(笑)。
 渡辺は末尾に、「環境を整えてやることが現実的な対応」(30頁)であるとする。ここでも、渡辺の立場は、親が子を制御すべきであるという家父長制と親和的なものである。


ストップ!「ネットいじめ」 今こそ学校で的確なネット・リテラシー教育を メディアジャーナリスト 渡辺真由子さんに聞く

(2010年5月) 総合教育技術65巻3号
 業界人向け非学術誌の、特集の一部を成す、インタヴューの体の3頁の記事である。
 渡辺は、プロフ・裏サイト・SNS特にミクシィに言及し、ネットいじめへの対応として標題にとどまらない諸点に触れ、”自分がされて嫌なことは他人にもしないという「心の教育」”(50頁)等を提唱する。その後のお振る舞いからすると、渡辺は、剽窃されても嫌ではないという稀有な人格をお持ちらしい。

 ところで、渡辺の立場を一般的に推測させ得る部分が、この記事の末尾付近に見られる。
 また、学生時代にそうやっていじめられていた人が、大人になってからいじめていた本人や家族へ報復しにいった事件も起こっています。子どもたちに講演をするときには、今軽い気持ちでいじめをしているかもしれないけれど、いつか仕返しをされるかもしれない、自分がしていることが相手にどう思われているかちゃんと考えるようにと話しています。(50頁)
 そこにあるのは、簡潔に言えば因果応報というお話である。己の振る舞いをめぐる報いを受ける覚悟を、渡辺はかつて説いていたのである。

 なお、冒頭に書かれた「著者プロフィール」には、記者としての職歴と大学での非常勤職の他は著書二点について書かれるのみである(48頁)


ネット上の性情報に対する規制とメディア・リテラシー教育のあり方の国際比較

(2011年3月) メディア・コミュニケーション61号
 紀要に掲載された、15頁に渡る作文である。後の渡辺の主張の原型が、既にここに含まれている。
 「国際比較」という仰々しい題目に反し、渡辺が扱うのは、日本の他は「選んだ」(60頁)カナダのみである。留学先で情報を収集する機会に恵まれたことが想像に難くないにもかかわらず、渡辺はその比較対象を「選んだ」ことにしている。この誤魔化しの手口は、剽窃本を典型に、後にも見られる。
 渡辺は、「違法・有害な性情報」(60頁)を扱うとする。しかし、何をもって「有害情報」とするかを語らない。また、「リテラシー」とは何かにも触れない。主要な部分について説明を避け、都合に合わせてその定義をずらす手法も、このように既に明らかである。

 その構成は、不自然である。1では、5頁に渡って「日本とカナダのメディア環境」が扱われる。広範な一般論から「有害情報の現状」(62頁)に渡るとはいえ、主として前提となる部分として量的比重が高めである。2では、「ネット規制」が3頁強に渡って扱われる。これに8頁を充てつつ前提に関する必要な説明を取り込むこともできなくはない。そして3で、やっと「メディア・リテラシー教育」が扱われる。その量は2頁強に過ぎない。主題となるであろう部分が、「はじめに」を除く前提部の3割弱にとどまるのである。そして問題は4である。図表を除いて2頁強のこの部分は、「ネット情報が青少年の異性観に与える影響」と題して、独自のアンケート調査のみを扱うのである。その内容に、これ以前の部分との直接の関連性はない。また、仮にこのアンケートを扱うならば、前提部に含めるのが筋であろう。そもそも、この位置では、ML教育の現状について批判的検討が求められる。しかし渡辺は、アンケート調査について蛸壺的叙述をなすのみである。

 細部を見ても、出鱈目っぷりは枚挙に暇がない。それらについては、きりがないので例示にとどめる。
 渡辺は、出典抜きで事実を示す。渡辺は、「文部科学省が2008年末に実施した調査によると」(62頁)と書きつつ当該調査の書誌を示さない。参考文献の項を見ると、”文部科学省(2009)「子どもの携帯電話等の利用に関する調査」”が唯一のこれに該当しそうな物件である。しかし、書誌事項またはURLが記されていない。あまつさえ、出典となるべき頁数も書かれない。あるいは、「児童ポルノの現状」が、一つの明示的出典もなしに縷々述べられたりもする(64頁)
 用字や用語も、論文を自称すべきものからは程遠い。「携帯の所持に関する規制」(66頁)等は、携帯電話を携帯と略す。これは俗語に過ぎない。「非実写版の児童ポルノ」(67頁)に至っては、俗的表現と無定義での児童ポルノの語の使用という合わせ技である。
 そして渡辺は、量を根拠なく評価する特権を有する。「多々見受けられる」(63頁)といった表現が、随所に見られる。なお、渡辺なら、そういう表現が「多い」と断ずることができる。

 そんな調子で渡辺は突き進む。「おわりに」では、「性表現を鵜呑みにせず、批判的に読み解くためのリテラシー教育を充実させることが、今後の課題となるであろう。」(73頁)と、十分な説明もなく言ってのけるのである。渡辺の脳内では、渡辺が真実性と関連性を認める事実を羅列することが説明なのかも知れない。

 この作文は、一つの明白な事実を伝えている。それは、この時既に、リテラシーを最初に学ぶべきは渡辺自身であったということである。


性的有害情報に関する実証的研究の系譜〜従来メディアからネットまで

(2012年9月) 情報通信学会誌30巻2号
 長くなるので独立した別頁を設けた。
 確認のため、この作文における渡辺の立場を明らかにしておく。渡辺は、一定の表現が悪影響を及ぼすという確信を表明する。そこから渡辺は、追加的な規制の正当性に曖昧に言及する。しかし、具体的な提案には至っていない。また、人権の語は用いられてすらいない。


香川七海 「ネットいじめ」言説の陥穽 渡辺真由子『大人の知らないネットいじめの真実』に見られる「ネットいじめ」事例の〈解読(アナトミー)〉から

(2013年3月) 子ども教育研究5号
 渡辺の肩書にも現れたことがある大学の紀要に掲載された、渡辺の著書について批判的に検討する10頁に及ぶ論文である。
 香川は、渡辺がネットいじめであると断ずる一例を挙げ、複数の異なる視点から観察することで、かく断じるのは”筆者からの「指示」”(43頁)に過ぎないことを暴く。
 そこでは、渡辺の典型的な手法に関しても、幾つかの指摘がなされている。香川が指摘するように、渡辺はしばしば、二つの話題を対置し、物語構造を示す(40-41頁)。一方にある人権を守るために敵を叩け、というように。この単純な図式は、ある程度定式化されている。そして同時に、前例に沿う親権ないし父権の正当化についても、指摘が見られる。香川によると渡辺は、被害者と父親の対立を描写し、父親の「教えに反する行動」(42頁)が「不幸な結果」(42頁)に繋がったとしている。
 そして香川は、”渡辺の著作からもまた、「ネットいじめ」の解決や被害に遭っている青少年の救済は期待できそうにない”(44頁)と結論づける。

 単純な事実と、主観によって解釈された事実は異なる。渡辺は、この時既に、後者を前者の如く装うのを常としていた。


子どもポルノをめぐる国際動向と人権

(2015年3月) 情報通信政策レビュー10号
 この作文は、自称博士論文4章・剽窃本5章の原型であるため、剽窃本を扱う頁群を通じて参照されたい。なお、ciniiが号数と時期について誤記している。
 確認のため、この作文における渡辺の立場を明らかにしておく。渡辺は、架空の表現を規制すべきとの立場を鮮明にする。その根拠は、最早存在しない。「諸外国が懸念するように、架空の出来事や人物を描いた創作物であっても見る者に影響を与え、間接的には現実に被害者を生みだすことを全面的に肯定は出来ないが、否定もまた出来ないのである」(18頁)という、被害の可能性を完全には否定できないということだけが主張される。また、児童の権利条約に言及しながら「子ども観」にも触れ(5頁等)、これまでの家父長制的な立場と異なる主張を採り入れている。
 ここでなされたのは、付け焼刃的な人権説と規制根拠不要説への改説である。


リベンジポルノ 性を拡散される若者たち

(2015年11月) 著書
 著者の肩書には「メディアジャーナリスト」と書かれ、カヴァーには相当に立派な人物とおぼしき経歴が書かれている。剽窃が露見したいま見れば、これも渾身のギャグである。
 これは、独自の取材を軸にした、約200頁の書籍である。取材に基づくべき部分は、少なく見ても半分に及ぶ。残りは、検討とか考察のようにも見える。もっとも、それらの中にも個別事例あるいは関係する方面からの取材に基づく記述が含まれる。境界を気にしない渡辺にとって、このような構成は問題のないものなのだろう。
 個別の事例に関する事項は、「事例」として枠で囲まれて書かれたり、本文に書かれたりする。それ故、事例を扱う部分とそうでない部分の境界は不明瞭である。枠内の事例も、リベンジポルノに関するものとは限らない。リベンジポルノ事案に繋がりかねないであろうものも扱われるからである。それらを一概に不適切であるとすることはできないかも知れない。しかし、明らかな基準によって選ばれた形跡のない事例群は、何らかの恣意を支えることを疑われるべきものでもある。
 事例の一部について、細かく見ることにしよう。チャットで顔写真の送信を求められた小学生の例(9-12頁)・出会い系サイトで知り合った相手に顔写真を要求した例(29-32頁)は、リベンジポルノのはるか手前のお話である。リベンジの場面はなく、ポルノも出現しない。信用する相手に裸体を撮影させた例(40-41頁)で、やっとポルノらしきものがお話の中に現れる。当時の交際相手に撮影を承諾し、数年後、実際の公表の有無は明らかでないものの、ストーキングの一環として当時の事実が利用された事例(71-78頁)ですら、ポルノが具体的に利用されてはいない。そこにあるのは、被害者の内心での畏れのみである。なお、この例の被害者は、「相手はどんな手を使ってでも撮影する」(78頁)ので被害者側にできることはないと、自分が承諾したくせに言っている。あるいは、闇売春業者に目を付けられて売春を強要され続けた高校生が行為を撮影され販売されていたが数年かけて自力で対処したとする例(82-89頁)が示される。それは、一般的なお話ではない。これら、様々な方向にずれた事例群は、一般的なリベンジポルノ事情を説明できるようなものではない。それ故、別の何らかの主張に沿って選ばれたことが疑われねばならない。
 それら、囲み記事が扱う事例は11件存在する。以上の一部に限らず、すべてが典型的リベンジポルノとは異なるものでしかない。それらには、その手前の要求等(9頁以下・12頁以下)とか、撮影させたとか(40頁以下・42頁以下等)のような、発展しなければ問題のない事案が含まれる。撮影者が嫌がらせに利用した(71頁以下)事案は、映像の具体的な利用を含まない。あるいは、被写体の意に沿わない撮影からの公開(82頁以下・90頁以下)のような、別の犯罪として構成すれば足りるようなものも含まれる。それらが裾野から頂上へ至る話の一部として位置付けられているならば、意味もあろう。だが、渡辺は、整理して事案の位置付けを示すような仕事をしていない。
 そしてそれらは、例によって出典と無縁である。著名な事例(5-6頁)も官庁の調査(13頁)も、そして勿論独自取材とやらも、等しく具体的な出典なしに持ち出される。せいぜい出典の書名らしきものが書かれていれば、上出来の部類である。
 そしてその取材は、主に仁藤夢乃に対してなされている(26-29・35-36・37・42・49・50・53・57-59・61-62・65-66・70・92-93・96-97・100-103・107-109・114-116・119-122・130-135・154-158・160-162・195-196・198-202頁)。女性に対する如何なる帰責も否定する独自説に基づく発言を続ける、ホスト大好きの、公然結社コラボの創業者仁藤である。他に、しあわせなみだ代表中野宏美(93-94・98-99・116-117・118頁)エンパワメントかながわおよび同団体関係者(122-130・167-181・182-183・189-195頁)、USA国務省を資金源とするライトハウスと創業者藤原志帆子(165-166・183-186頁)も取材されているようである。
 渡辺は、事例や相談についてのみならず、法律にも言及する(135頁以下)。リベンジポルノ法の簡単な整理(135-140頁)そのものは穏当である。しかし渡辺は、その話を発展的に展開することができない。渡辺は、仁藤的な立場から法の不備について語り(154-160頁)、斬新な提案をやってのける。
 こうなるともはや、ネット上に性的な画像を掲載する者には、「リベンジポルノではないということの証明」を求めるしかないのではないか。〔中略〕ネット上では誰もが容易に性的な表現物を公開し放題、という現状に切り込むことが必要だ。(158頁)
 渡辺は、現行法の過剰な部分など、気にしてもいない。そこでは、一般原則としての表現の自由など顧みられない。渡辺が被害と認めるものをなくすためなら何を犠牲にしてもよいという立場が、ここで鮮明にされている。同時に、ネットで公開されるものを「表現物」と呼ぶ不可解な用語から、渡辺が今時の立法について不分明であることが推知される。

 そんな渡辺の主張の基礎は、なぜ撮らせるのか系の疑問への懐疑(25-54頁)である。仰々しくリベンジポルノを二分しておいて(4頁)、一方の話はさほど展開せず、撮らせることに対する免責を前提に、むしろ「加害者への働きかけ」(188頁以下)とか子どもを性的に見る風潮への対抗をもって対策としているようである。もっとも、「知らない人には撮らせない」(160-166頁)ことも対策の一環として唱えられるのだが。そしてそもそも、対策や対応について具体的にまとめた部分がないため、前後関係から「ようである」と読み取ることすら困難なのだが。

 傍論についても、幾つか指摘しておく。
 この書籍には、著者渡辺の体験を通じた秋葉原のメイド喫茶についての言及がある(59-60頁)。それらを渡辺は所謂JKビジネスと連続的に扱っている。
 話の流れでと言うべきだろうか。渡辺は、”こうしたものへの規制の必要性を改めて考え、「子どもを性的に扱うことは許さない」との機運を高めたい。”(198頁)と主張する。最早リベンジポルノ一般とは関係のないお話であるが、整理されることなく「リベンジポルノをなくす方法」を扱う中にこの話が登場する。
 渡辺は、刑事事件の犯人らしき者を「被告」と呼ぶ(17頁等)。この用語からは、渡辺が本書を法律について語るものと考えずに著したことが明らかである。多少とも法的知識がある者ならば、特殊な業界における基準にでも従うのでない限り、そのような者を被告と呼ぶことはありえない。なお、渡辺に法学の知識がないことは既に知られている。それ故、この用語は、奇異なものではない。

 もし、渡辺独自の取材に信頼性を認めることができるのなら、本書にも部分的な価値はあろう。しかし、この本は、独自説にとって都合のいい話を集め、独自説のために不都合な情報を消し、あまつさえ捏造までやってのける著者の仕事である。このように考えると、その価値はゼロないしマイナスと見るよりほかない。リベンジポルノの害悪を真剣に問うならば、本書の害悪を論理的に整理した上で、リベンジポルノと戦う論理を構築せねばなるまい。


古野まほろ 『リベンジポルノ―性を拡散される若者たち―』渡辺真由子著

(2016年6月) 捜査研究65巻6号
 連載「警察教養としての読書」の第7回となる、見出し部等を除くと3頁に収まる記事である。
 古野は、渡辺著について「現場の実態を踏まえたルポルタージュと提言が特徴」(75頁)であると分析し、「特に若い世代の考え方を踏まえた上での諸対策に有用な本と考え」(78頁)紹介したと曰う。なるほど、このような見方は、可能である。

 古野は、当該書籍の有用性を語る文脈で、次のように述べる。
 しかし、何事につけ、対立する意見というか、少なくとも角度の違う意見に接し、自己改革をし続けることは、常に市民と接する警察官にとって、極めて重要です。そして本書が、中堅幹部以上のベクトル・価値判断を、いささかならず変容させ得るのも事実です。(76頁)
 これは、重い指摘である。対立する意見を存在しないことにしたり、定型文で否定したりするような方は、自爆した。前提を疑わない態度は、絶対の正義となり、何らかの秩序に触れることになるものである。該当する方には、よく考えていただきたいものだ。手遅れだが。


児童ポルノ規制の新たな展開 創作物をめぐる国内制度の現状及び国際比較による課題

(2017年3月) 博論(別途要約あり)
 これを原型とする剽窃本を扱う別頁以下で部分的に触れる。


「創作子どもポルノ」と子どもの人権 マンガ・アニメ・ゲームの性表現規制を考える

(2018年4月) 著書
 詳細に検討した別頁以下を参照されたい。

 確認のため、ここでは概略を簡潔に紹介する。渡辺は、子供の「人権」を守るために児童ポルノ的創作を法規制すべきであるとする。ところが、前提となる人権とやらは一切説明されない。また、人権の一翼たる表現の自由は、規制され得るという簡単な扱いで片付けられる。不明瞭な前提の下で、対立し得る利益が無視された法律論もどきがなされているのである。そればかりか、児童ポルノのようなものの定義は本文には書かれない。かろうじて条約・法律によるものが扱われるだけである。それ故、立法例の過不足は語られ得ない。あまつさえ渡辺は、現行児ポ法による創作規制が可能であるという、国会での審議を正面切って無視する独自説まで唱えている。しかも、その内容は、剽窃を基盤として構成されている。とりわけ、外国の法律を扱う6章は、ほぼ全部が剽窃から成る。


性暴力表現を巡るカナダ法と人権

(2018年6月) ネクストコム34号
 渡辺の自称博士論文の副査である菅谷実を編集委員長とする、KDDI系の雑誌である。渡辺の作文は、特別論文として掲載される。渡辺には、「星槎大学大学院教育学研究科客員教授」の肩書が付される。

 その構成を見よう。渡辺流は、たやすく常識を超える。「1.はじめに」(30-32頁)に、いきなり複数の節があるのだ。「(1) AV 出演強要問題」から「(2) わいせつ規制と性暴力表現」・”(3) 「表現の自由」と人権”・「(4) 海外の性暴力表現規制」と、渡辺は話題を変え、しかしこの部分につき特段のまとめをしない。それ故、この作文が何を主たる論点として何を目指すのかは、標題にしか手懸りを見せない。
 そして渡辺は、「2. バトラー判決の法理と分析」と題し、カナダの一判決について語る(32-35頁)。これに続くのは「3. 考察」である(35-36頁)。なんと、多岐に渡る論点を検討する前提は、判決一つだけなのである。2の段階では、他の判決ごときなど言及すらされない。

 書かれた内容は、先んじて出版された剽窃本と重複する。
 例えば、”従って、性表現に対する規制を議論するに当たっては、「人権」の観点からの丁寧な検討が不可欠である。”(31頁)というような、無内容な表現の細部に至るまで、おそらくコピペの都合で共通する(剽窃本2-3頁参照)。なお、ここでいう「丁寧な」との表現の意味も、例の如く説明されない。
 そして、ここでも渡辺は、何ら説明しない人権なるものを抽象的根拠に、具体的根拠抜きで、一定の表現を規制せよとする。
 例えば”本稿は、出演者の同意の有無にかかわらず、「暴力的な性表現そのもの」も、人権侵害として捉えられるべきではないかと考える。”(31頁)というように、規制されるべきだとの価値判断を向けるものに対し、渡辺は人権をぶつける。しかし、そこで問題となるのがどんな人権かについては語らない。おそらく、全く考えていないので語れないのだろう。状況証拠は、そう語っている。
 考察と称する部分で渡辺は、カナダのバトラー判決が「人権アプローチ」(35頁)によるものであるとした上で、松文館事件判決も同様であるとの理解を見せる(36頁)。渡辺が曰う「人権アプローチ」とは、性表現の規制を是とすることそれ自体なのだろうか。なお、松文館事件判決は、剽窃本と同じく、特段の説明なしに地裁判決だけを引用して語られる。最高裁まで行った事件の扱い方として失当である。

 末尾の著者紹介には、客員教授の元・現職の他、「専門はメディアと人権、メディア・リテラシー、ジェンダー論。ジャーナリストとしても、これらのテーマを20年にわたり取材。東京都青少年問題協議会委員、内閣府青少年問題有識者会議元委員。」(36頁)との旨と、著書3件について書かれる。渡辺に専門があるというのが、この雑誌の理解らしい。
 注には、参考文献について、渡辺としては異例の詳細な記述が含まれる。頁数が、しばしば明示されているのである。もっとも、新聞記事を紙名と日付のみで特定する等のいつもの渡辺式も複数の箇所に見られる。


性情報をめぐるデジタル・シティズンシップ教育の展望

(2020年3月) メディア情報リテラシー研究1巻2号
 かの事件が露見した後、法政大学図書館司書課程の電子紀要に、渡辺の作文が掲載された。これには様々な意味がある。とりあえず、法政大学が学術研究機関を名乗る資格を自ら返上したと理解すればよいだろう。また、恐るべきは、渡辺が野望を諦めていないことである。渡辺は、「メディア研究者・ジャーナリスト」との肩書をこの作文に付している。同時に掲載された記事には「メディアリテラシー」を研究対象に掲げる者の著作が含まれることにも、注意を要する。当該業種において、渡辺の業績(笑)が肯定されていると受け止めることが可能となるからである。

 9頁強の本文のうち、2頁半程度が引用または「図表」である。実質7頁弱の3分の1近い2頁弱が、「はじめに」である。限られた紙幅を論点のために有効に用いる方向性がなく、むしろ言いたいことを言えれば論題にすら意味を認めない、いつもの渡辺流である。
 「はじめに」中では、「性情報に子どもが接することは、どのような弊害をもたらすのだろうか。」(40頁)等とある。それらの記述は、「弊害」の実在を前提とし、「先行研究をレビューしたもの」(40頁)とか自著によって裏付けられる。曲りなりに根拠を示そうとする点は論文風である。しかし、その妥当性に疑いを挟まれるべきものが最初に出てくるあたりは、相変わらずである。そこでは、弊害がある、だからメディアリテラシーを…というお話が始まり、2段落に及ぶ。ここでも、一例と自著が引かれる。
 「はじめに」が始まって3頁目となった、実質で見ても1頁強を経ている41頁に、本文では初めて「デジタル・シティズンシップ」の語が登場する。説明らしきものは引用された1行強のみで、外国ではこの考え方が採用されているという話に移って、そのまま段落が終わる。次段落は、独自の概念的整理と「図表」のお話である。今ここでいうデジタルシティズンシップとは何かについての言及は、1行強の例示的引用のみである。かつて「創作子どもポルノ」の定義を明確にしなかった自称博士論文と同様に、何の話をするのかを断じて語らないのが、変わらぬ渡辺方式である。
 なお、この説明の薄さには、理解の余地もある。同号に掲載された他の記事との重複を避けることが、その趣旨として合理性のあるものでるとも考えられるからである。しかし、論文は独立したものとして読まれるのが常である。それ故、斯様な事情を以って渡辺のやり方を完全に正当化することもできない。
 そんな展開の「はじめに」は、「そこで本稿は」(41頁)云々という最終段落へと続く。どういう論理で「そこで」と言えるのかは、必ずしも明らかでない。
 以下についての言及を省く。ただし、一点についてのみ触れる。渡辺は、摘示する参考文献について、具体的な出典となる頁を示そうとしているようである。これは、過去には稀にしか見られなかった傾向である。百人殺したテロリストが十人しか殺さないようになったのと似たような話ではあるものの、改善には違いないだろう。ただし、それらの妥当性については検証していない。

 ゾンビの如く生きながらえる渡辺がそこにいるということは、渡辺を泳がせるべき需要があり、渡辺をなんとかしようとする側総体が無能だという意味である。このような視点からは、いずれ発生するであろう次の作文も注視されねばなるまい。


総括

 渡辺は、情緒的価値判断に基づいて行動してきたようである。そしてその著作は、常に形式および内容に問題を抱え続け、しかし確信された正義を表現してきた。その出鱈目ぶりに変化はない。
 ここで、一つの疑問が生じる。なぜ、誰も渡辺を止めなかったのだろう。放置が許されないことは、自明だったはずである。だが実際に、渡辺は、出典を示さない言説を垂れ流すなどしてきたのである。

 これらいくつもの著作を、かの剽窃本という一つの頂点に至る道程として見ることもできる。当該剽窃本は、幾つかの著作を下敷きとしている。その展開について、可能な一つの仮説が読み取られ得る。それは、2011年に論文のつもりで作文を書いたら批判しか得られないようなものとなり、問題を解決するために2012年頃から他人の表現を窃用し始めたらうまく行ったので、自称博士論文では剽窃を本格化させたという流れである。そもそも情緒的な評価しか語れない渡辺にとって、論述は不可能である。それ故、剽窃によってのみ一定の評価を得ることが可能である。もっとも、それは、悪事が露見しなければの話でしかない。結果として渡辺は、何よりも剽窃家として名を売ることになった。
 この流れは、見た目上の改説とも組み合わさっている。かつて渡辺は、家父長制的な子供観を隠そうとしていなかった。しかし、人権というもっともらしい言い訳の導入が、この部分における主張を変えさせた。それは傍論に過ぎず、重要な意味を持つとは限らないかも知れない。しかしそれは、渡辺の独自説の理由らしきものが後付けでしかないことを示す証拠である。

 問われているのは、渡辺という無能力者の詐欺的業績だけではない。そのようなものを重用してきた者の認識と態度である。
 渡辺が新たな被害を垂れ流すことのないよう環境を整えてやる(笑)という現実的な対応は、全くもってなされなかった。この点について最も重い罪を負うのは、指導教員新保史生である。確信を持って売り出したにせよ、右翼団体幹部等としての忙しさにかまけていたにせよ、その罪に変わりはない。
 罪を問われるのは、新保のような殆ど共犯と呼べる者に限らない。とりあえず、その眼力くらいは反省してもよい方面は、それなりに広い。


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