渡辺真由子 ”「創作子どもポルノ」と子どもの人権 ”の詳細


 ここでは、標題の書籍(勁草書房2018年)について、ある程度細かく解説というか突っ込みと言うか検証というか的なアレをなす。きっちりした形で、その内容に関する証拠を残すためである。現物を横に置き、適宜参照しながら以下を読んでいただきたい。
 なお、以下は、標題書について余すところなく検討したものではない。むしろ、十分な確認ができていないために言及を控えた部分がそこいら中に存在する。とりわけ、注のずさんさが凄まじく、すべての参照先を確認するに至っていない。このため、不備の指摘は不完全である。
 以下では、引用に青い背景色を加えた。ただし、数語までの短いものについては、このファイル内で見出しとしない下位の標題を除きこの処理を省いた。引用に際しては、誤字脱字を含めて原典通りの用字とした。ただし、カンマを読点の如く用いているものは、これを日本語の読点に置き換えた。特記のある場合は、以上の限りでない。また、注の示し方は原典と異なる。これは、出典によって異なる表記を統一し、かつ、ブラウザ等による表示の変化を生ぜしめないようにするためである。ただし、その位置は原典に沿っている。

目次

 長くなるのでここでは省く。必要があれば、細目次を参照されたい。

構造と内容

構造等

 本書は、序章の第一頁を1頁とし、それ以前の部分と本文後の索引等には別体系の番号を振る。該当する部分は、巻頭10頁・巻末14頁に及ぶ。両者の付番は独立している。巻末のものは、空白頁・広告および奥付を除く末尾側から起算されている。本体部分の最後は222頁である。
 別体系の頁数とされるのは、巻頭のはしがき・目次と、巻末の索引・参考文献である。巻末の奥付・広告は、別体系でも付番されていない。
 本文は、1ページが44字×17行で構成されている。章名等は約半ページを占有する。節レヴェルの見出しは前後に空行を、項は前に空行を有するが、それぞれの原則に沿えば二行続く空行は一つにまとめられる。空行は、箇条書き等の前後に適宜加えられる場合がある。脚注は章末に固められる。

 以下では、はしがきと通常の頁数の付番がなされた部分を本文と総称し、これに該当する空白頁を含む222+4=226頁を本文に該当するものとして扱う。なお、この量の頁への収容可能字数は、単純計算で17万字弱となる。

構成

 目次が示す構成について、これのみから明らかな限りの事項について予め触れる。
 目次を見る限り、8つの章の論理構造が不明瞭である。繋がりのある話を束ねそうな部分が、最終章以外に見当たらない。樹状構造もない。ただ、序から終までの8か章が並んでいるだけなのである。そして、関係性を問う以前に、切り分けが不明瞭である。それらを整理すれば、話は大きく三つに分かれるはずである。三つとは、前提と現状の確認と検討である。だが、その切り分けすら、目次のみからは判読され難い。
 このような目次は、言わば場面転換の予定だけが書かれた脚本のようなものである。

内容

 以下では、本書に書かれた内容に関してある程度細かく言及する。原則として原典の章・節・項に沿って切り分け、必要に応じて何らかのまとまった部分等を対象とした部分を設ける。その際、初出の時点でまとめて以後の同論点についても触れる場合がある。これは、煩雑さを避けて簡潔な指摘をなすためである。かえって煩雑となる場合等、例外もある。
 このような方法によって以下でなす様々な指摘の配列は、論理的構造を備えないことになるだろう。だが、この点への批判には同意しない。そもそも論理的に構成されていないものが相手なので、さっくりすっきりした指摘のやりようがないからである。

はしがき

 足掛け4頁のはしがきのうち、空白以外の本文は、実質3頁である。
 冒頭では、女児が性的虐待を受ける創作表現が例示され、それらを「創作子どもポルノ」と呼ぶことが宣言される(冒頭独立付番1-2頁)。それは、「実在しない子どもを性的に描くマンガやアニメ、ゲーム等の表現物」(冒頭独立付番1頁)という、定義として限界を示すことを意識しない表現で宣言される。これに続けて渡辺は、「架空であるからこそ問題性が高いのではないか」と問いかける(冒頭独立付番2頁)。そして渡辺は、それらへの法的対応において、”論点の中心は「表現の自由に反するか否か」であった”と言い切る(冒頭独立付番2頁)。その上で、その種の表現について、「表現の自由で本当に押し切れるのだろうか。」と訊ねる(冒頭独立付番2頁)。これを踏まえて渡辺は、「創作子どもポルノの存在を肯定することは、子どもの人権を侵害することにつながるのではないか」との「問題意識」を明らかにする(冒頭独立付番2-3頁)。続けて渡辺は、「子ども」と「児童」を使い分けることについての独自説を示し、「国際条約」等国外の動向に言及し、日本への批判が存在することを示した上で、「子どもの性の尊厳が守られる、真に成熟した日本社会の実現へ向け、本書が一助となることを願う。」と締め括る(以上四件冒頭独立付番3頁)

 ここは、もしこれが論文ならば、著者の問題意識と研究の方向性を示すであろう部分である。独立した十分な説明を求めることは、筋違いとされよう。それでもなお、これが論文を自称する限り、この部分の中だけでも完結する不可解さが既に見られるのである。このことを踏まえ、以下、本書を「作文」と呼ぶことにする。

定義がはっきりしない
 独自の定義のようなものは、著しく広汎である。また、「性的」なることを誰がどのような基準で評価すべきものかも明らかでない。このような立場からならば、着衣での自然な所作の描写を「ポルノ」に含めることすら可能である。そして、この一事をもってこの作文全体を失当としてもよいだろう。だが、それでは検討のしようがない。そこで以下では、検討の支障となるこの定義めいた何かを読み替える。以下では、概ね現行法が定義する児童ポルノのような創作描写を、渡辺語で曰う創作子どもポルノであると捉えることとする。ただし、これは仮に考えるための原則である。渡辺説なら児童ポルノ扱いが可能である何かを無視するということではない。
 ところで、この渡辺説ならば、定義の範囲を広げることが際限なく可能である。「など」には、文字や音声による表現を含むこともできるからである。渡辺の「など」に対する立場は、この部分のみからは明らかでない。

問題意識=前提
 渡辺が曰うところの「問題意識」は、検証されざる前提である。このことは、過去の著作から推定され、事後に明らかになるであろう事実である。そしてそれは、渡辺が示す結論の一部でもある。前提と結論が一体である可能性が、既に示されているのだ。このことだけを根拠としても、以下が論文と呼ばれるべきでないことが強く推定される。
 そのようなものの一部として示される、そして渡辺に特徴的な、表現の自由で「押し切れる」という表現は、何を示すのか。おそらく、渡辺の認識の少なくとも一部が、ある種の前提と一体であるという事実である。その前提とは、表現の自由に対して優越する何かが存在し、表現の自由を「押し切れる」という認識と主張である。どうやら渡辺は、何らかの「人権」に対し、表現の自由を対置している。この点については、以下で確認ないし検証する。

国際条約って何?
 枝葉末節にも、難点がある。ここで既に、頻出用語「国際条約」が初めて出現する(冒頭独立付番3頁)。条約は国家間の取り決めである。だから、そこに「国際」とつける必要はない。だが渡辺は、特別な強調ではなく当たり前の表現として条約をこう呼ぶのである(冒頭独立付番3・8・9・18・20・41・107・175・176・184・191・193・200・201・202・203・215頁)。条約一般を指す場面において、例外は34頁6行目のみである。

どう扱うべきか
 以上のはしがきは、論文として不可欠な部分ではない。むしろ、一般書としての刊行にあたって加えられたと推測されても支障のない部分である。それ故、予断を排するためには、以下でこの部分を能う限り無視することとしたいものである。しかし、完全にそうすることはできない。定義めいたものがここに出現して以後説明されない等、本文の一部として機能していると受け止めるべき事情が見られるからである。
 なお、この部分に注釈はない。

■序章

 諸々の前振りが書かれているであろう部分である。もっとも、一般的には実質的な意味がない部分として書かれるはしがきがその機能の一部を果たしてしまったが故に、既に、まとまった形での叙述が期待され得ない。
 各節は、相互に関係しない。それ故、ここでは各節を別個に扱う。
 序章の見出し行の後は、すぐに1節が始まる。

1 「表現の自由」と創作子どもポルノ
 8頁強に及ぶこの節の見出しの後に、独立した記述はない。すぐに(1)が始まる。ここで書かれるのは、標題の事項に関する渡辺の認識である。

(1) 表現の自由の限界
 渡辺曰く、「従来わが国で頻出してきた」(1頁)表現の自由に関する議論は「限界」を意識していないということになるようである。渡辺は、表現の自由の概念を簡単に説明し(1-2頁)つつ、その制約を次のように述べる。
われわれにとって表現の自由とは、あらゆる表現に対し濫用してよいものではなく、あくまで「公共の福祉に反しない限り」という制約付きの権利なのである。(2頁)

 これに続けて渡辺は、公共の福祉について6行で説き、次のように項を結ぶ。
したがって、創作子どもポルノに対する規制を議論するにあたっては、「人権」の観点からの丁寧な検討が不可欠である。(2-3頁)

 ここで書かれる渡辺説は、「公共の福祉」によって表現の自由と「人権」を調整せねばならないというもののようである。これには、「公共の福祉」に関する一般論を措いてもなお、二つの疑義が挟まれる。一つは、そこでいう人権が具体的に説明されていないということである。二者を調整しようというお話の一方が、説明されていないのである。もう一つは、その曖昧な人権が表現の自由と対置されているということである。渡辺独自の理解では、表現の自由は人権に含まれないのかも知れない。ところで、ここで、憲法21条を参照されたい。表現の自由の語が人権の章に出現していることを確認できる。渡辺説は、もしかすると実定の憲法に反する内容なのかも知れない。
 また、渡辺が曰う「丁寧な検討」とは何かも、明かされていない。「丁寧」の語には、具体的な意味がないからである。「丁寧な」との文言には、何らかの印象操作以外の意義が備わり得ない。
 そしてそもそも、表現の自由は完全に無制限なものではない。立法及び判例はその制約を認め、例えば業務妨害や名誉毀損の犯罪性と不法行為性を肯定している。このような扱いは、人権の原理に基づいても説明され得る。にもかかわらず、渡辺は、殊更に表現の自由の「限界」を語る。このことからも、渡辺の主張が、一般的な理解における人権と異なる何かを人権と呼ぶことを含む可能性が窺われる。

(2) 創作子どもポルノをめぐる現実と科学的データ
 この項で渡辺は、まず、報道された事例の「主なもの」(3頁)を3頁弱を用いて紹介する。それらは、ことごとく性犯罪の被疑者が「子どもポルノを愛好していた事例」(3頁)である。その中には、「子どもが狙われたケースではない」(4頁)ものすら含まれる。そのような事案とこの作文全体との関連性については、特に説明されていない。また、何をもって主なものとするかの基準は、書かれていない。
 そして渡辺は、「犯罪報道の多くはいわゆる警察発表に基づいており、その扱いには特に慎重であるべきである。」(5頁)等とし、渡辺語で曰う創作子どもポルノの影響を「これらの報道から断定することはできない」(5頁)とする。その通りである。だが、ならばなぜ報道を再構成して影響がありそうな事案を書き並べたのだろうか。渡辺がそうした理由は、書かれていない。これに加えて渡辺は、多くても数百程度の調査対象を用いてなされた「科学的」な「研究結果」の「代表的」なもの(5-6頁)を引く。それらは、行動に対するポルノ等への接触の影響を認めるもののみである。そうでない結果との対照はなされない。
 さらに渡辺は、この項で述べたことを無にする主張をなす。
科学的データによれば、架空の出来事や人物を描いた創作物であっても見る者に影響を与え、間接的には現実に人権侵害を生み出すことを、全面的には肯定できない。一方で、創作物が人権侵害に影響を与えることを、全面的に否定もできないのである。(6頁)
 創作の影響を否定も肯定もできないというのが、ここでの渡辺の主張である。つまり、延々とその種の研究について語る必要性が、そもそもなかったことになる。ならばなぜここに書かれるのか。それはどうやら、影響を「否定できない」が故に肯定するという見方の裏付けのためである。このような見方を渡辺は、「子どもポルノをめぐる国際動向と人権」(情報通信政策レビュー10号(2015年)所収・ciniiの時期と巻号についての情報は誤り)で示していた。ワードを使いこなせていないことを推測させる状態の当該記事18頁に、上掲引用とそっくりの表現が見られる。この記事で渡辺は、「予防原則」による創作児童ポルノへの規制強化を求めている(21-22頁)。上掲引用の如き文言は、その前振りであった。

引用・空想・捏造
 この項の6頁には、先行研究を示して注を参照させる箇所が幾つかある。それらは、例外を除き、通常は引用であると理解されるような、かぎかっこ内の文字列である。注本体が書かれているのは、22頁である。注は出典を明示するはずである。だが、論文らしからぬ出典表示あるいは不表示が見られるのである。
注14 この点については、既に渡辺[二〇一二]で論じている。
注15 総務庁「青少年とポルノコミックを中心とする社会環境に関する調査研究報告書」、一九九三年。
注16 総務庁「青少年とアダルトビデオ等の映像メディアに関する調査研究報告書」、一九九四年。
注17 佐々木輝美[二〇〇四]「性的メディア接触が大学生の性意識に与える影響に関する研究」『教育研究』四六、国際基督教大学学報T−A、一四三-一五二頁。
注18  Peter, J. & Valkenburg, P. M. [2010] Processes underlying the effects of adolescents’ use of sexually explicit internet material: The role of perceived realism. Communication Research, 37, pp. 375-399
 例外である注14は、自著一点を示して既に論じたとするものである。内容がないので、以下での言及を省く。
 注15が示すものは、渡辺によると「代表的」な「研究成果」の一つである。だが、大学の所蔵が殆どないばかりか、せいぜい一部の県立図書館等とごく一部のその他に分布する程度である。一般的中都市級の市立図書館や平均的な大学が持たない資料のどのあたりが代表的なのだろうか。参照先の頁数も不明である。
 こちらも参照先頁不明の注16の文献を細かく見てみよう。該当する物件の200頁を超える冊子の中に、渡辺が引用っぽく書く表現は、どこにも見られない。そもそも、渡辺が引用ぶって用いるアダルトゲームの語が用いられていないのだ。
 収録頁全体だけが示されていて具体的な参照先が明かされていない注17の文献はネット経由で読める。渡辺の不思議な書き方はともかく、「国際基督教大学学報」として検索される存在の、「T−A」にあたる「教育研究」46号(国際基督教大学2004年3月)所収である。元がややこしいとはいえ、渡辺の表記は意味不明である。渡辺は、固有名詞の途中に読点を加えている。そして、やはり渡辺による引用っぽい何かと同じ表現が発見されない。
 注18は洋物である。翻訳抜きに対照できないので、手間暇もそれなりに要る。疑義はあるが、入手しづらいのでとりあえず措く。なお、これも引用元たり得る頁が特定されていない。
 出典を曖昧にする処理は、この作文において統一的なものではない。この作文には、曲りなりに参照頁を明示する注も存在するのである。それ故、出典の細部を敢えて書かないという処理が意図的なものである可能性がある。同時に、このようなやり方の故に、すべての引用らしきものが渡辺による作文であるとの疑いが容れられるべきこととなる。

創作物
 以後頻出する「創作物」の語の初出は、この節である(5頁)。この用語は、渡辺の造語である創作子どもポルノの独自定義(はしがき冒頭独立付番1頁)とは整合する。しかし、実態とは整合しない。その種のものは、物であるとは限らないからである。にも関わらず渡辺は、この点に注意を払わない。仮に渡辺が改正前の刑法175条に関する諸判例と関連する議論を参照していたならば、このようなやり方はできない。以下においては、不整合を回避するため、渡辺が用いる創作物の語を、「創作」に置換して解読することとする。なお、学界にもこの点を理解していない世代が創作「物」の語を使う傾向が見られなくはない。しかし、その傾向は、渡辺独自の理解を正当化するような性質のものではない。

(3) 創作子どもポルノ問題の本質
 3頁弱のこの項では、渡辺の脳内における「本質」が描かれているようである。それは同時に、渡辺説の本質を暴くものでもある。

 本書は、創作物による人権侵害の可能性を検討するにあたり、科学的根拠への拘泥にとどまるのではなく、もう一歩踏み込んだ議論を試みたい。創作子どもポルノ問題の本質とは何であろう。子どもを性の対象として描く表現そのものが、子どもの性的搾取であり、子どもの人権侵害に該当する、という点こそが本質ではないか。(7頁)
〔強調は引用者による〕
 上掲引用の、冒頭4行における独白で、渡辺は「科学的根拠への拘泥」を不要だと主張する。これを言い換えるとすれば、どうなるか。それは、否定的評価を含む「拘泥」の語義からすれば、空想妄想憶測推測を十分な根拠として何かをなしてよいばかりでなく、むしろそうすべきだとの主張となる。もう一歩踏み込んだ(笑)言い換えをすれば、空想への拘泥ということになる。ところが渡辺は、それを「もう一歩踏み込んだ議論」と称して突き進む。即ち、科学的な考え方を放棄するとの宣言である。渡辺は、この一文のみで、論文と称する何かが単なる作文であることを自白し尽くしてしまった。

 そして渡辺は、「子どもを性の対象として描く表現そのもの」に問題性がある旨を述べる。ゆるく雑な話や仮説としてならば、この意見と同質のものは難なく成立するだろう。しかし、渡辺は根拠を示さず断言している。あまつさえ、それが「人権侵害」であるとまで言い切っている。何らかの意味でよろしくないだろうという推定と人権侵害であるという断定は、異なる。そして、この主張も、根拠を示していない。それどころか、渡辺の書きぶりからは、両者の隔たりを推知することすらできない。もっとも、ここは序章である。説明の不十分さを批判すべきではないのかも知れない。それ故、ここでは、これを読んでいる各位に注意を促すに留める。

 続く8行では、性的搾取の語の説明に続けて児童ポルノ事件の国内統計値の一部が示される。二つの話題の論理的な繋がりは不明である。その次の11行では、国内法について語られる。一見すると意味不明なこの構成は、子どもに被害が出まくっているが「人権」の視点がないので創作が規制されていないという主張に基づくものとでも解するより他ないものである。そして次の14行では、「国際社会」の批判が描かれることになる。渡辺的な一定の不変の前提を置くならば、このような叙述によって主張をある程度裏付けたことにできるのかも知れない。しかし、予備知識のない読者は放置されている。この展開の意味を読み取るには、渡辺が得ている結論を知っておかねばならない。そしてそれ以上に、関連する分野に十分な予備知識のある読者に混乱と困惑をもたらす蓋然性が読み取られ得る。
 末尾7行で渡辺は、「現実を直視」(9頁)し、「表現の自由に偏る従来の議論とは一線を画し」(9頁)、「子どもの性に関する人権保護へ向け、国際規範との整合性を確保する上でわが国の創作子どもポルノ規制に求められる方向性を提示することが、本書の目的である。」(9頁)と節を結ぶ。渡辺が見ている現実とやらは、以下で確認されよう。それ故、ここでは深入りしない。

単純所持
 ところで渡辺は、2014年改正児ポ法の所持処罰を、以下で「単純所持」と呼ぶとする(8頁)。この一語のみを見ても、渡辺の不勉強が明らかである。なぜなら、この用語では、同法第3条の2による処罰を伴わない所持の禁止と第7条に基づく処罰の区別ができなくなるからである。ただし、学界等でもこの用語法がなされる例があるため、この一点のみから渡辺を批判するのも実際的でない。

節全体
 ここは、前提を語るべき部分である。なのになぜか渡辺は、独自説の根拠たり得るものの主張を加えて、むしろ前提を希釈した。のみならず、独自説の構造の一端を、おそらく図らずして示した。それは、表現の自由は問題ではなく「人権」が問われるという基本構造である。これは、衡量を多少とも考えれば主張できないような、一方の立場からの言い分のみで「押し通す」構造の宣言である。あまつさえ渡辺は、反科学的な立場までも堂々と宣言してのけた。
 もしこれが論文を名乗るなら、ここまでで失格である。渡辺は、前提を語る中に結論を述べている。最早検証すべきものは残されていない。

2 子どもの性被害とメディア
 「こういうことがありました」系の、事例ですらない曖昧なものを含むお話に終始するこの節は、4頁強にとどまる。見出しに脚注が附されるものの、自著で「既に論じた」と書かれるのみである。節見出しの次は、すぐに項見出しとなっている。

(1) 狙われる子どもの性
 扱われるのは、「子どもの性が狙われる傾向」(9頁)という大きな話である。渡辺は、この壮大な論点について自説を開陳する。

 大人からも、さらには同年代の相手からも狙われる子どもの性、こうした子どもの性被害が、われわれの社会に氾濫するメディアの性情報と相当程度関わっていることが、筆者の取材及び研究で明らかになってきた。(10頁)
 第二の読点の直前に、体言止めが用いられている。この語法は、論文の日本語として如何なものか。このような表現は、語句の前後関係を論理的に曖昧にする。そして、その広範な分野に及ぶ事情の「研究」(笑)は、僅か8行に一つの出典も附さず語られるのみである。それでいて、「創作物が、現実の子どもに対する性犯罪に影響したとみられるケースも散見される」(10頁)との指摘は繰り返される。これらから読み取れる渡辺の書かれざる主張は、「影響したとみられる」と断じるのには証拠を要さないということである。
 それだけではない。渡辺には、そもそも「研究」なんぞやったことがあるのかと、問わねばならない。

(2) 性的メディアにおける描写の問題点
 約3頁のこの節では、独自のアンケート調査の結果等が言及された後に、自著から引用した事例が二つ紹介され、説明もなく項が終わる。
 二つの事例は、お笑いタレントの弁(12頁)と雑誌のマニュアル(13頁)に関するものである。いずれも、創作らしい創作とは無関係である。
 なるほど、メディアの描写には問題があったということなのだろう、この二事例の当事者の証言に従えば。だが、事例を並べるやり方は、渡辺自身が序章1(2)で否定したものである。渡辺は、自らの宣言をすぐさま翻したのだろうか。
 項名にも、注意を要する。それは、「メディアがどう描写してきたか」とか「メディアの影響力はどうか」ではない。「問題点」である旨が最初に示されているのである。結論を先取りする渡辺方式は、こんなところからも確認できる。

節全体
 この節は、ほら見ろメディアが悪影響を与えているじゃないか…というそれだけの内容である。渡辺が「拘泥」しない科学的データは典拠とならず、一部の被害とかメディアの曖昧な方向性、さらには事例の如き一応もっともらしいが一般化されていないお話が示されるのみである。これは、TV番組ではなく作文である。だから、渡辺がこのような叙述を重ねたところで、読者は一言で片付けてよい。だから何、と。

3 国際社会から日本への批判
 曲りなりに標題通りの話を約4頁に納めるこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しとなっている。

(1) 子どもの商業的性的搾取に反対する意見書
 2頁弱に渡り、エクパットが始めた世界会議に関する事項のみが語られる。内容については節全体をまとめて下記に扱う。

(2) 海外の性犯罪にも使われる日本製創作子どもポルノ
 論理構造を示さない見出しに続き、エクパットが催した会議について3頁弱を費やして書かれる。渡辺は、示された意見のうち、創作規制の不足に関するもののみを扱う。そして最後の2行で、UNの一委員会の勧告に言及する。

節全体
 約4頁のうち、最後の2行以外がすべてエクパットから示された見解とこれに関する記述である。渡辺に見える国際社会は、ほとんどがエクパットで構成されているということなのだろうか。なお、エクパットの日本への攻撃は、完全な誤りではないにせよ相当の誤謬に塗れていた。もしあなたがこのことをお疑いなら、それなりに調べてみることをお勧めしよう。児ポ法の立法を追った時期の文献からは、様々な指摘を拾うことができる。ただし、渡辺が掘り起こす意見にも、一定の意味は認められる。実在児童への攻撃以外については、当時の国内における主たる論点ではなかったからである。それらの再検討や背景の検証は、研究と呼ばれるに値し、多少時期が遅れようと無価値ではないだろう。だが、渡辺は、批判的視点なしにただ掻い摘んで紹介するだけである。

4 研究の目的と手法
 3頁と1行のこの節の見出しの後も、すぐ項の見出しとなっている。

(1) 問題意識と研究目的
 この項は、5行しかない。そこでは、渡辺の立場が、改めて簡潔に示されたと見てよいだろう。その立場は既に確認された通りである。「人権」のために「国際社会」と共に「創作子どもポルノ」をなんとかしようという主張は、前提と結論を一体化したものである。

(2) リサーチ・クエスチョン
 渡辺は、答えるべき問いを自ら設定する。それは下掲の三つである。なお、以下ではこれらをRQと略して呼ぶ。
・国際条約及び諸外国は、どのような枠組みで児童ポルノを規制しているのか
・日本と国際条約及び諸外国の制度で、児童ポルノ規制について異なる視点は何か
・創作子どもポルノは、日本の現行法の枠組みで規制できるか(18頁)
 その第一は、単純な比較のための調査であっても、一般に有意であろう。ただし、そのような研究には、「枠組み」を理解する能力を要する。第二のものについては、研究と称する限り「視点」を判例や学説から読み取ることが求められる。そして三つ目は、現行法について十全な知識を要する論題である。また、現行法と独自定義との整合性も問われる。果たして渡辺に、そのような仕事をするだけの能力があるのだろうか。この作文のこれまでの部分は、否であると推定させる。ここでは、予断を挟まないことにしておく。

(3) 調査手法
 渡辺は、2頁と1行で、「調査手法」を示す。
 その方法論は、「法社会学の視点による」(19頁)のだそうだ。本稿は、これを無視する。理由は幾つかあるが、最大のものは、科学的な方法論の根幹に分野の差はないということである。
 渡辺は、その視点に基づいて、「調査手法の一部に比較法を用いて」(19頁)四つの項目について調査することを宣言する。「調査対象」も羅列される。しかし、それらを選択した理由は書かれていない。

 調査対象は国際条約の他、諸外国としてアメリカ、イギリス、カナダをり上げる。アメリカは「表現の自由との関係の観点から児童ポルノ規制について厳格審査を行った経緯があり、イギリスは近年に児童ポルノ規制を厳格化している。カナダは児童ポルノに極めて厳しい規制を行っている。このような理由から、当該三カ国を調査対象に含めた。(20頁)
〔強調は引用者による・用字は原文のまま〕
 外国の調査対象について、渡辺は上掲のように述べる。そこには、三ヶ国について、渡辺が見た特徴が書かれている。それは、これから調査するとの設定に反し、既に知識を有する者の書き方である。TV的なやらせのような構造が見出される展開である。そしてその記述は、調査対象として他と比較して選び出す理由にはなっていない。そしてそもそも、三国のいずれも英米法系に属し、相違は限定的である。もし十分な比較を目指すならば、大陸法系諸国やイスラム法圏に目を向けねばならないはずである。
 この部分も、断片を見ればもっともらしい文言が並ぶものの、それらが繋がると意味不明な供述としかならないのであった。

章全体
 既にこの作文の正体が晒されてしまった。この作文は、科学的な考え方なしに、不要な叙述で水増ししながら、事前に用意された結論に向かって突き進む。あまつさえ、引用らしきものすら出鱈目である。それを暴いたのは、渡辺自身の仕事である。常識的な読者なら、この作文から得られそうな知見よりそれを疑うコストの高さを重んじ、そろそろ頁を閉じるところだろう。


 この章の注は41件にのぼる。これらのうち、明白な問題のあるものは、下記の24件である。参照先を摘示しない27・28を除いて考えるまでもなく過半数に問題がある。なお、その他にも、書式等について何らかの指摘が可能である。
 個別の難点を見よう。2は新聞記事の参照先2件を紙名と日付だけで示している。3・4・5・6・8・9・10・12・13は、2と同様だが1件だけである。7・26は参照先に通信社の会社名と日付のみが書かれる。10は参照先がTVで記載が局名と日付のみである。これらは、参照先を特定していない。14・29は別の自著全体が参照先となっている。根拠は自分が書いたものというわけに行くのならば、思いつきの感想文を論述の根拠とすることもできるだろう。15・16は、短い引用に見えるものがありながら冊子全体を参照先とする。17・18は雑誌論文全体を参照先としつつ引用風味の記述をしている。16・17の引用風味の何かが引用でないことは、別記したとおりである。19の参照先は国語辞典と百科事典であり、版数等の記載がなく特定が不十分なばかりか、二語について参照先を使い分ける理由も不明である。20は雑誌論文4点を挙げるも具体的な関連頁の記載がなく、掲載頁全体について文献一覧に別記されるのみである。30・32は、出典の名称のみを示し、URLや具体的な箇所を示さない。31は、出典がどのようなものかを語りはするものの、本文の関連箇所を含めても具体的な題目等や頁が示されない。これらは、特定の不十分さにおいて共通し、その他の点についてそれぞれの問題が見出される。
 なお、27は条約の英語名を示すのみである。
 上述の通り、注と関連事項だけを細かい検証抜きに見ても、渡辺がこれほどまでの大仕事を成し遂げていることを理解できる。
 なお、詳しくは独立した別頁の通りである。

■1章 日本の法と子ども観

 14頁から成る「本章では、先行研究を整理する」(27頁)のだそうだ。この言葉は、最初に書かれる。そしてそうするのは、「そもそもほとんど見当たらない」「人権の観点による」(27頁)研究として先行したものがその分野にあるからだということになるようである。しかし、渡辺語は論理的に書かれていないため、これは一読者の憶測に過ぎない。
 この章の冒頭に、章全体をRQと関連付ける記述はない。それ故、渡辺によるこの章の位置付けを知る手がかりは、本文しか残されていない。

1 「子ども観」とは何か
 渡辺は、1頁で、散漫に語る。「創作物と子どもの性的人権はどう議論されてきたのか」(28頁)とか言いつつも、子ども期の発見や研究の発端に言及して論点を明らかにせず、子ども観の語義を語ることもない。この節全体の趣旨を読み取ることも、この節を通して章の趣旨を汲み取ることも、この構造の故に困難である。

2 法における子ども観の分析の必要性
 先行研究を整理すると宣言した上で、渡辺は節をこう名付けている。そこからは、整理以上の何かが加わるであろうことが読み取られる。渡辺は、ついさっき自分で書いたことを覚えていないのだろうか。章の冒頭からこの節が始まるまでには、2頁しかないというのに。
 渡辺は、1頁と2行のこの節を、子ども観の分析?に「意義がある」(30頁)と主張するために用いる。これがあくまで前振りならば、強硬な批判の対象ではない。だが、価値判断で「押し切る」だけの渡辺式の一例として見るならば、この限りでない。
 この節で渡辺は、この作文を、「児童ポルノ禁止法という狭義の制度における子ども観を分析する」(29頁)ものであるとしている。どうやら渡辺は、自分がやろうとしたことを覚えていないらしい。そしてこの宣言も、以下を読み進めると、反映されているようには見えない。

3 「子どもの人権」に関する国内法の子ども観
 渡辺は、約7頁に及ぶこの節の冒頭4行を用いて、二種類の「主な先行研究」を「紹介する」(以上二件30頁)旨を述べる。例によって、何をもって「主」としたかは不明である。

(1) 「家父長的国家主義的子ども観」
 3頁弱がこの項に充てられる。その冒頭9行では、児童の権利条約の研究が引かれる。既に項の題目から話が離れている。次の段落の13行でも、「子ども観」(31頁)の分類が語られる。渡辺には論点ごとに話を整理することができないようだ。その次は、「子ども観の系譜」(31頁)の話である。その2行目でやっと標題の語が登場する。この項の半分以上が、既に過ぎている。以下、標題の「子ども観」が語られる。

(2) 「開放的子ども観」の不足
 この項も3頁弱である。この章は、学説を「整理する」はずであった。ところが渡辺は、標題に価値判断を含めている。もし本当に整理するならば、「の不足」の文字を加えることは許されない。不足を主張するのは、整理の後の話である。このようなところにも、価値判断が先行する渡辺式が顕現している。項全体は、先行研究1件の紹介に条約の話を加えたものである。なお、標題の子ども観は、「子どもを権利の主体であり人格を有する独立した人間とみる子ども観」(33頁)だとされる。

(3) 「子どもの性」に関する法の子ども観
 直前では、曲りなりにも、条約が要求する子ども観が扱われた。渡辺は、これとの対比を示そうとしたのだろうか。しかし、1頁と2行に終わるこの項は、十分な説明には短い。それどころか、「紹介する」との宣言からは逸脱している。あまつさえ、先行研究1件を引いた記述がなされるのみであり、渡辺説と当該先行研究の異同すら明らかでないのである。もっとも、渡辺によると、同種の研究は他に見られないらしい。ならば1件しか出てこないのも致し方ないのかも知れない。ただ、だからといって、批判的検討なしの紹介だけで終わってよいということにもならない。だが、渡辺は、紹介した研究を論文の中にどう汲み取り位置付けその先の話に繋げるのかについて、何ら語らない。

節全体
 この節は、「紹介」たることを宣言しながら、論理的な切り分けをせず前提や周辺を語り、紹介するものに対する価値判断を事前に示し、あまつさえ範囲外に話が及ぶ。それでいて、紹介されたものの渡辺説にとっての意味が説明されないという点は、純然たる「紹介」らしい。この節から読み取られるのは、渡辺の構成力の欠如のみである。

4 先行研究との関連で見た本研究の位置付け
 2頁弱のこの節が、この章の締め括りである。渡辺は、児ポ法が条約と整合する子ども観によって成ったとしつつ、”それならばなぜ、「創作物」が規制の対象から外されているのだろうか”(37頁)と問う。続けて渡辺は、この点への「国際社会からの問題提起」(38頁)等をエクパットの言説に依存して引く。そして最後に渡辺は、次のように述べる。
 すなわち@創作子どもポルノ規制をめぐる先行研究においては、A人権の観点による議論がそもそも十分ではなく、目ぼしいものも、児童ポルノ禁止法の立法過程における子どもと人権に関する議論の一般的な分析にとどまってきた。そうした中で、先行研究を踏まえた本書の学術的貢献とは、児童ポルノ規制の枠組みや視点について、日本と国際規範との差異を明らかにし、子どもの性に関する人権保護へ向け、日本が国際規範との整合性を確保する上で必要な方向性を提示することにある。(38頁)
〔まるつき数字・下線は引用者が加えた〕
 もう滅茶苦茶である。この章は「子ども観」の「紹介」をするはずであった。ところが、全然違うお話が縷々述べられるのである。@では違う話になっている。Aは、この章の埒外の事情について唐突に断言する。この章が何の話をするところだったのかすら、渡辺は覚えていないようだ。そこで語られる中身も、根拠を示さない決め付けである。

 細部に込められたずさんさも、相変わらずである。ここに、「日本と国際規範との差異を明らかにし」との文言がある。しかし、序章4(3)が示す「調査手法」から明らかな通り、渡辺が参照する「国際規範」には偏りがあり、不十分である。なのに渡辺は、「差異を明らか」にすると言い張れるのである。

章全体
 その内容は整理されておらず、引かれる先行研究は限定的であり、あまつさえ話題は唐突に飛ぶ。これでは、結局何の話をする章なのか、誰がどう読んでも明らかにはならない。それ故、全体を要約したり評価することは困難である。この章は、随筆としてさえ意味の通らない何かでしかない。
 「子ども観」のようなお話が児ポ法のような大論点の下で紙幅を割かれるべきものかどうかを考える限りでは、ここに書かれたものの意義と評価に関するお話とは異なる結論が得られるのかも知れない。しかし、この作文においてどうかと限定するならば、話は簡単である。子ども観の語は、ほとんど登場しない(かろうじて50・110頁参照)。後の話への具体的な影響が無きに等しい以上、子ども観とかいう謎の概念への言及そのものが不要であると捉えてよかろう。
 子ども観の強調には、異なる問題もある。独立した人間として自由を認める方向性の開放的子ども観の下では、本人が望んだ児童ポルノやこれに類するものへの関与すら容認する余地を否定し切れない。渡辺が言及したものの限りでいうなら、家父長的国家主義的子ども観こそが、十全に外部からの制御をなす前提として機能しやすい。換言すれば、渡辺説は、開放的な考え方よりも家父長的発想に整合的なのである。渡辺がそこまで考えてこの章を書いていたのならば、そこには矛盾の可能性が埋まっている。そうでないならば、迂闊である。


 約11頁半の本文に対し、27の注が付される。
 12は引用を伴いながら出典の頁数を示さない。13は出典を示さない、注とすべき必然性を持たない内容である。15は、渡辺が書いた文を含み、出典らしきものが示されているものの、それがどこからどこまでに関するものか明らかでない。のみならず、頁数が示されていない。21は、渡辺が書いた文を含み、出典らしきものが示されているものの、それがどこからどこまでに関するものか明らかでない。
 出鱈目ぶりは相変わらずである。

■2章 児童ポルノ禁止法の第二次改正に関する立法過程

 20頁から成るこの章は、「立法過程」を扱うのだそうだ。だが、実際には、後述する通り、限られた事象しか扱っていない。

 この章の標題は、「改正に関する立法過程」という不自然な表現を含む。「改正法の立法過程」とか「改正時における立法過程」あたりが、穏当かつ無難な表現であろう。周辺をも語るならば、その後に「およびこれに関する」云々とでも加えるべきところか。このような数文字にすら、渡辺的なるものが詰め込まれている。

 2頁強の冒頭部では、対応する第二のRQ「日本と国際条約及び諸外国の制度で、児童ポルノ規制について異なる視点は何か」が示され、三つの調査対象と「調査」の内容が宣言される。だが、それらが選択された理由はどこにも書かれていない。ここで明らかなのは、この章が日本の制度を説明する部分の一部であるということまでである。

1 立法関係者の議論と分析
 節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。この節の内容に関して必要があれば、別頁で原文の一部を抜粋した会議録を確認されたい。

(1) 立法関係者の議論
 渡辺は、2014年の児ポ法改正に際しての議事について、引用しながら約7頁に渡って書く。そこで繰り返されるのは、創作への規制が回避されたことと、それが”「関係団体」への配慮を優先させた”(44頁)とか「表現の自由」が重んじられたといった事情である。なお、これらの事情は、あくまで渡辺が認定したものである。それらを事実に照らしたとき、果たして如何なものか、明らかであるとすることはできない。
 しかも、ここで引用される議事は、衆議院のものだけである。後になされた参議院での質疑は、無視されている。
 会議録を読めば、渡辺が無視した論点もまた明らかである。渡辺は、欧米でのマフィアとの関連・「殊更」の語等の基本的定義に関する諸点・被害者の証言・単純所持の可罰性・被害者対策の充実等には言及していない。そして、渡辺が見ないふりをしたものの中には、追って終章で示される渡辺説との根源的な矛盾も見られる。衆議院での枝野幸男による法の趣旨を踏まえた創作への不介入についての質問と、これに対する「客体となる児童については生存していることを要するというのが」「法の趣旨からの帰結」であるという答弁(186回国会参議院法務委員会24号会議録2014年6月17日における階猛答弁[25])が、それである。

捏造
 渡辺は、「児童を性の対象にした漫画等」についての話を「土屋氏が」「取〔原文のまま〕り上げた」と書く(44頁)。渡辺の作文で鈎括弧内に書かれた児童を云々との文字列は、常識的には引用であると見られる。だが、会議録に当該文字列は存在しない。またしても、捏造である。この周辺では、引用に際して用字を変え、あるいは改行を省いた箇所も見られる。詳しくは別頁を参照されたい。

弊害
 渡辺は、この周辺で、これまで用いていない「弊害」の語を用いている(47頁)。もしそれが弊害と称されるべきものであるならば、その語義からすれば、それはいわば反射的被害である。即ち、それを直接的な被害と同視することができないはずである。このように考えれば、マンガに被害者がいるという独自説(2章2(2)5頁)とこの語は矛盾する。にもかかわらず、この語は後にも用いられる(191頁参照)

(2) 立法関係者の議論の分析
 2頁強の内容は、分析だそうだ。
 冒頭の段落8行では、原案付則にあった調査研究規定の削除について、「児童ポルノに類する創作物の表現の自由を守るために子どもの人権をないがしろにするもの」(50頁)と断じ、併せて家父長的国家主義的子ども観が「垣間見える」(50頁)とする。以下は、この独自説を補足する内容である。次段落の12行の中で、議員の姿勢を批判する体で渡辺は意見を加える。
子どもを性の対象とするという創作物の内容自体が人権侵害であることや、創作物によっても実在する子どもの人権侵害が引き起こされていることを、重く受け止める視点は見られない。(50-51頁)
 渡辺説に基づけば、そういうことになるのだろう。だが、その説の本体は、いまだに説明されていない。だから、仮に渡辺に同意しようにも、情緒的にしかできないのである。ふわっとした理解で同意した気分になっている者は、この書籍を論文として読んでいない。論文扱いするならば、その主張の前に置かれるべき説明の欠如を批判せねばならない。

 渡辺は、創作を規制すべきとする土屋正忠議員の指摘が「好き嫌いという感情的な理由」(51頁)に基づくものに過ぎず人権の視点でないとの見方を示す。翻って渡辺自身の見方はどうなのかと言えば、あくまで「人権」が基盤だということになりそうである。しかし、その見方の内実は、説明すらされていない。そうである以上、渡辺説に対しては、「感情的な理由」すら存在しない思いつきであることが疑われ得る。
 それでも渡辺は、質疑者何人中何人が創作規制に触れた等とも書く。このようなところに気を配ることこそが人権の観点ということになるのだろう。だがちょっと待ってほしい。そこには、党別の持ち時間の違い等の事情への言及すらない。質疑の時間は不足しがちであるが故に、優先順位の問題は常に存在するというのに。そしてそもそも、それは人数の問題なのか。議会では、十分な質疑が達成されれば後の者が同一論点を省略することも稀ではない。それでも渡辺は、創作規制への言及があるかどうかのみによって、議員を類別する。それどころか、渡辺は、創作規制に言及した者の割合から、「人権」の「視点」の欠如を見出してのける(52頁参照)。このようなところからも、分析が浅いのか、それとも牽強付会のために事実を都合よく解釈しているかといった、渡辺の能力または方法の問題が明らかとなる。

2 出版業界の議論と分析
 約3頁のこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) 出版業界からの意見表明
 前振り2行は、2団体からの声明文を引用すると宣言する。そして引用が約2頁に渡って続く。それだけである。声明の出所である2団体の構成や相互関係等は、一切説明されない。また、声明文の背景に存在したであろう「議論」は、節名に反して言及すらされない。

(2) 出版業界の議論の分析
 約1頁のこの節は、標題からして直前と整合しない。直前で「議論」そのものが扱われていないからである。そして内容はほぼ繰り返しである。渡辺が示す「分析」は、声明が「創作物によっても実在する子どもが性的被害の危険にさらされる恐れはあることへの認識が見られない」(55頁)ことを、「女児への性的暴行を描いた漫画に被害者が実在したケースはあ」る(55頁)という独自の認識に基づいて非難するのみである。
 不可解さは措いて、「ケースはある」としよう。だとしても、それをどの程度一般化できるのかは、別の問題である。しかし渡辺説においては、影響を否定も肯定できないという序章1(1)6頁でなされたような主張によってこの点が検討不要とされることになる。

3 弁護士会の議論と分析
 約4頁のこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) 弁護士会からの意見表明
 前節同様の構造で、前振りの後に3頁弱に渡って声明が引用されるのみである。
 なお、渡辺が弁護士会と書くものは、日本弁護士連合会である。その名は、単位会との区別のため、一般に日弁連と略されている。このような細部からも、渡辺に常識的な知識が欠けていることが窺われる。

(2) 弁護士会の議論の分析
 約1頁に渡るこの項の構造は、前節同様である。内容も、渡辺説との齟齬への非難に過ぎないという意味で、前節と等しい。
 なお、渡辺はその末尾で、日弁連の主張が「改正過程に一定の影響力を持ったと推察される」(59頁)との見方を披露している。

章全体
 20頁に渡るこの章の内約5頁が長い引用で、1頁強が注釈である。実質は約14頁ということになる。うち、二団体関係の部分が2/14(7/20)頁で、残りのうち2頁強が前振りであり、その余の約10/14(11/20)頁が国会の質疑関連である。国会関連の内「分析」は2頁強である。院内の質疑の一部に二団体の声明を加えただけで、そしてこの程度の総量で、あまつさえ簡潔な「分析」を加えることで、この章はなんと「立法過程」を語ったことになっている。この点だけを見ても、壮大な章名の羊頭狗肉を咎めることができよう。
 そしてこの章は、2014年改正だけを扱い、1999年の立法と2004年の改正を無視している。それ故、過去の審議の過程で示された様々な事項がすっきりと無視されている。渡辺は、なぜそうしたかに言及せず、ただ2014年のものを対象とする旨を宣言するのみであった(41-42頁)。それは、単なる手抜きなのだろうか。だとしても、もっともらしい言い訳くらいは要るだろう。あるいは渡辺は、最終改正が過去を上書きしたとでも理解しているのだろうか。この立場は、判例を扱う3章と整合し難い。そちらでは、上訴によって上書きされた判決が扱われているのである。この意味不明な処理について、強いて事情を推測することは、できなくもない。過去の議事は、全会一致を目指して難点だらけの創作規制を外しつつこれにしかるべき理由を附してきた。そういう内容なので、渡辺の示したい結論と齟齬をきたしかねない。かような事態の回避あたりが、推測される渡辺の狙いの第一候補というところだろうか。

人権の影
 この章でも、「人権」に対し「表現の自由」が優先されている旨の指摘が繰り返し見られる(52・55・59頁)。他方で、渡辺が主張する「人権」の全体像は、ここでも示されていない。それ故、具体的に求められる衡量は、依然として明らかでない。

敬称の謎
 この章に登場する国会議員は、苗字に「氏」を加えて名を書かれる。この扱いは、その他と異なる。


 19頁弱の本文に対し、15の注が存在する。うち4件に、下記の通りの問題がある。3・13は新聞記事1件を、6は同2件を、紙名と日付のみによって示す。これでは特定が不十分である。
 8は、何かの記事の題目のみを示す。即ち、そこでは出典の特定が全くなされていない。なるほど、この注が付された部分の原典たる国会会議録の渡辺が引用した部分では出典がはっきりしない。しかし渡辺は、同じ議員の別の発言を44頁に引用している。そこには、当該記事を特定できる紙名・記事題目・日付の情報が含まれる。なぜか渡辺は、ここでの引用を無視し、題目だけを示しているのである。他の箇所では新聞記事の題目を無視するというのに。
 この記事は、2010年5月4日の読売新聞朝刊に掲載されたものである。渡辺はそれを注8で「親は知らない PART5 女児襲う漫画手つかず」と書く。これは、国会の会議録(186回国会衆議院法務委員会21号会議録2014年6月4日における土屋正忠議員の質問[010])の表記と等しい。ところが、記事原典には「親は知らない PART5(5)女児襲う漫画 手つかず」とある。この記事は、永い連載の一部たるPART5の、さらに一部である。原典を確認すれば、この小さなずれに気付くことができる。だが、渡辺はそれを怠った。さもなくば、数文字の違いに気付く能力がなかった。渡辺も引く国会での引用が、微妙な用字と改行以外は概ね原典に則っているので、偶々とはいえ問題は少なかろう。だが、国会での引用が誤っていたとしても、渡辺はそれに気付かず引用を重ねたものと見られる。渡辺には、文献と真摯に向き合う姿勢が見られない。
 なお、1は事実の摘示のみで参照先を示さない。それ故、注たるべき必然性がない。これを除いて考えれば、丁度4分の1に明白な不備が存在することとなる。

■3章 性表現規制に関する判例

 19頁に渡るこの章で扱うのは、「立法過程」の章に続けて「判例」だそうだ。渡辺は、現行法について、幾つかの面を論理的に切り分けられたかのように見える構成の中で別個に扱うようである。TV的場面転換を導入したというところだろうか。
 冒頭部によると、この章は、第三のRQ「創作子どもポルノは、日本の現行法の枠組みで規制できるか」に関するものだそうだ。この点は、同じく日本法の現状を扱う前章とは異なる。ここから、分かち難い話が異なる主題に対応するものであるという渡辺の把握が示される。この事態からは、複数を同時に示せば済むのにそうしない不備とか、RQの設定にそもそも無理がある可能性を推認できる。
 そして、ここで扱われるのは、「性表現規制」だそうだ。前章の児ポ法から、特段の説明もなく対象が拡張されている。その理由も、冒頭部では説明されない。なお、このような説明は後にもなされない。

 渡辺の視点が性表現規制に向いていることも、ここでこれまで以上に明らかとなる。人権の観点を強調するならば、人権擁護に資する諸規定を確認し、これとの整合性を検討するべきであろう。だが、既に目次でも見た通り、そのような部分はこの作文に含まれない。むしろ、「性表現規制」という枠組みへの拘泥が見られるのである。これは、渡辺が、自ら示した「人権」の重視と縁遠いものを主要な枠組みとして取り入れているということである。これを喩えるなら、八百屋を始めるのに元肉屋を居抜きで使うようなものである。

1 性表現規制の系譜
 渡辺は、江戸時代に遡りつつ、追って扱う現在の三つのシステムについて1頁強と半頁弱の表を用いて簡潔に語る。ごく古いものに言及する理由は不明である。
 奇妙な表現も見られる。渡辺は、「国は一九九九年に、児童ポルノ禁止法を制定・施行させた」(62頁)と書く。法律の制定と施行の主体である国は、果たして何者にそれを「させた」のだろう。渡辺の無知は、このような細部からもしばしば窺われる。

2 わいせつ表現規制をめぐる判例 −「松文館事件」
 ここでは、項を分けず節全体についてまとめて扱う。
 この節で渡辺は、足掛け10頁に渡り松文館事件を扱う。漫画のエロに関する規制の事例ということなのだろうか。まとまった言及がある刑法175条に関する判例は、これのみである。他の判例は、部分的に言及されるのみである。
 この作文の趣旨において、この判決に言及すること自体は、可能であるかも知れない。だが、適切な扱いがなされているかどうかは、別論である。その言及は、地裁判決が中心で、高裁以上には都合7行程度触れるのみである。一般には、後から出た上級の判決の方がより強い。だから、高裁以上の判決が存在するにもかかわらずただ地裁判決だけを採り上げるやり方は、ありえない。無論、しかるべき事情が説明されていれば、この限りではない。だが、そのような説明はなされていない。

なぜ地裁判決を用いるのか
 地裁判決の争点に対する判断が約19000字となるのに対し、高裁判決の理由の部分は約9000字に留まる。分量的には、地裁判決が高裁の二倍以上に及ぶ。結論も立論も大きく異ならないことを併せて考えれば、説明のために地裁判決を引用すること自体は不適切ではない。ただ、地裁が言及していない論点を高裁が扱っていたりもする。それ故、高裁判決を断りもなく単に無視するのは、明らかに不適切である。そのような論文を書いた者は、高裁判決を読んでいないと推定されてしまうからである。
 このような事情を踏まえ、地裁判決を重視する渡辺の狙いを窺い知るために、どこをどう引用したかを確認してみた。すると、わいせつな漫画を規制する正当性をそれっぽい語句で説明する部分が拾われていることが明らかとなった。なるほど、それなら全体に説明が長い地裁判決の出番である。

引用のやり方
 上述したように、地裁判決を中心に引用すること自体は、可能である。ただ、渡辺の引用は、歪曲を含む。渡辺が引用する「刑法一七五条によるわいせつ物の規制には、性的秩序や最少限度の性道徳、健全な性風俗の維持を保護法益とするものとして、今日においても、十分に合理的根拠があるというべきである」(65頁)との一節は、判決第一1(1)の結論である。ところが渡辺は、局限された範囲の話の直後に繋げてこの部分を引用している。より少ない前提で処罰を正当化する論理が成り立つような図式を作り出しているのである。あるいは、渡辺説に沿わない部分を省いた例もある。渡辺は、「漫画という手法は」「読者に与える性的刺激の程度をより強くすることも可能な描写手法である」(68頁)とする判例の一節(第二2(1)イ(ウ)b)を引用しつつ、その直前にある「絵の中では」「性的刺激を緩和することも可能ではある」と裁判所が認めた部分を無視しているのである。判旨を歪めた言及は他にもある。第二2(2)に関する部分は、傍論しか引用していない。本論が、社会の変化によってわいせつとされたものが容認される可能性を示唆しているからであろう。これら犯罪を成立させにくくする諸要因に、渡辺は目を向けたがらない。とりわけ、故意の成否に関する言及は、完全に無視されている。

謎の再構成
 それどころか、判決の整理は、渡辺によって解体されている。判決第一は、渡辺作文3章2(1)から(3)にまたがって引用されているのである。渡辺は、判決第一1(2)に対し、判決第一のそれ以前の部分から切り離して3章2(2)で言及した。そして判決第一2を、判決第二とまとめて3章2(3)で扱った。論理を再構築した結果このような扱いをする可能性はあるだろう。しかし渡辺の引用は、順序良く判決文の前から後へ続いている。例外は、日本語表現の都合で順序が入れ替わった一箇所のみである。つまり渡辺は、話の順序を変えずに切れ目だけを変えたのである。おそらく渡辺は、部分ごとに見られる文言に拘泥し、判決の論理構造を理解できていない。

判決渡辺
冒頭
第1 1(1)3章2(1)
第1 1(2)3章2(2)
第1 23章2(3)
第2 
第3
第4 
 この構造を左表に簡単に示す。ここから、二点が明らかとなる。それは、判決の構造と無関係に文字列を繋ぎ合わせた渡辺作文の構造と、判決の一部を無視した引用ぶりである。

前例の軽視
 他方で渡辺は、小説の前例に立ち入らない。漫画への規制の可能性を語るなら、実写でない点が等しい小説を無視できようはずはない。渡辺は、わいせつの定義等、物体としての性質とか内容に直結しない部分で小説の判例を引いてはいる。しかし、小説ならではの事情にはあまり目を配ろうとしないのである。
 なお、後述する博論の目次には、小説関係の判例を扱う項が見られる。

言及の必要性
 そしてそもそも、刑法175条に言及すること自体が、考えようによっては奇妙である。判例および一般的な学説が示す理解において、同条が具体的な誰かの人権を捨象した定めだからである。それ故、同条を無視してすら「人権」を重視した論旨は成り立つ。人権の視点からの変革を同条にも及ぼすべきであると言うなら、同条の保護法益の転換を主張することが考えられる。だが、渡辺は、ラディカルフェミニズム筋の主張から読み取られ得るようなその種の主張をなしていない。さらには、同条の規制が人権に反射的影響を与えるに過ぎないのを是認し、その程度のものとして軽く扱うことも考えられる。もっとも、この構造に突っ込むとそれなりの分量を要し、結果として作文全体の主題が変わりかねない。それ故、その事態を回避する方法論を選ぶこと自体は、必ずしも誤っていない。以上に見た通り、刑法175条に言及するための可能な方法論は一つではない。多様な立場に配慮しつつ本筋を重視するならば、同条の影響が反射的なものに留まることを確認して深入りしないというあたりが落としどころだろう。だが渡辺は、根拠無く選んだ判例から自説に都合良く断片を切り取って並べるのである。見せたい絵面だけを見せるTV番組と同じノリである。

「初めて」
 渡辺は、この裁判が漫画のわいせつ性を争う「初めて」(64頁)の事例であるとする。「初めて」とするための出典は、通信社名と日付でしか示されない。これでは、読者には確認のしようがない。それでも渡辺は、別の箇所でも、「裁判で初めて争われた」(86頁・205頁同旨)例だとする。さらには、「マンガがわいせつ図画に該当すると認定された初のケース」(188頁)であるとしている。この件については、終章3(1)に関する部分で後述する。

補足
 知識の少ない読者のために、特に補足しておく。かつて裁判所は、刑法175条により、小説をわいせつな物としてきた。それ故、視覚的表現としては写真に近く実写でないという点では小説に等しい、即ち両者の中間的性質を備える漫画への同条に基づく規制は、裁判所が示してきた理解を前提とする限り、可能である。他方で、そのような一般論は、個別の事案について直接の示唆をもたらさない。松文館事件判決の妥当性は、一般的な処罰の可能性とは別論である。

3 児童ポルノ規制をめぐる判例
 5頁弱のこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) 児童ポルノに関する従来の判例
 約4頁のこの節のうち、1頁弱を除いた部分が、主に一件の高裁判決(大阪高裁2000年10月24日判決)を扱うこの項である。

 渡辺は冒頭の段落で、児ポ法の保護法益について、個別の児童の個人的法益の他に「児童一般の利益(社会的法益)の両方を挙げる判例が多い」(73頁)とする。
 この部分からは、渡辺の立場を読み取ることができる。児童一般の利益と呼べるものは、刑事実体法に関する限り、常識的には社会的法益と捉えられている。しかし、ラディカルフェミニズム筋は、それを集団的人権として主張する。その主張は教条的・一面的・一方的であり、刑事実体法にどのように採り入れられ得るかも明らかでない。ただ、それを人権とするならば、個人的法益として構成し、あるいはその他の斬新な方法を採る余地があることを考えねばならないはずである。渡辺は、そのようなものについて、端的に社会的法益の問題であるとした。即ち、ラディカルフェミニズム的な集団的人権説を採らないことを宣言しているのである。
 なお、ここで渡辺が「多い」とする根拠は、弁護士の著作である。その出典からかく述べることが適切かどうかを措いてもなお、この表現は失当である。「多い」という価値判断による評価を示しても、事実及び論理には影響しない。そして、そのような判例が「多い」ことは、その判例が示す考え方の妥当性を意味しない。数万の判例が蓄積されようと、最高裁の一つの判決がそれを否定することさえ可能だからである。それ故、「多い」という表現には、印象操作以外の意味が備わり得ない。渡辺は、そういうことを平気でやってのけるタマであるか、さもなくばこの表現が孕む問題を理解できないような知的チャレンジを受けているのかである。

 次いで渡辺は、法の目指すところについて、次のようにまとめる。
 すなわち、児童ポルノ禁止法は直接的には、児童買春の対象となった児童や児童ポルノに描写された児童の保護を目的とするが、間接的には「児童一般」を保護することをも目的としていることが示された。(74頁)
 この理解そのものは、諸判例に照らし、大きく誤ってはいない。個別児童の保護との対比では、児童一般の保護は、最も強調されているものでも並列されるにとどまる。また、一般的にはそれが副次的なものに留まることを窺わせる表現がなされる。ただし…という話は罪数論に深入りすることになるので割愛するが、だいたいのところは似た様なお話に納まると考えてよい。
 それはそれとして、ここで示された渡辺の理解は、記憶されねばならない。それは、渡辺が「人権」のために「創作」を規制すべきであるとし、追ってその手段を述べるであろうこの作文において、保護法益や法の趣旨をどのように考えているのかを確認するためである。そのあたりを通じては、法秩序全般への理解が示される。

 表現の自由とか「風潮」についても言及し、幾つかの小さい論点に関して判例を示しつつ、この項は終わる。

 この構成は、驚くべきものである。渡辺は、ほぼ一つの高裁判例のみによって判例一般の態度を説明してのけたのである。渡辺は、この一件を選んだ理由どころか、判例の流れの中での位置付けすら説明しない。この判決はこう言っているのですという断片的紹介をするのみである。それなのに、後の終章では、ここでの記述を基にして裁判例が何を言っているのかという一般論が語られてしまう。
 なお、最高裁のサイトで検索すると、児ポ法に関する最高裁判例だけで11件が得られる。確かにそれらが言及する事項は限られている。それでも、敢えて古い下級審判例をほぼ唯一の参照先とするなら、それなりの理由とその説明が必要であろう。渡辺はそれをしていない。それが困難であるとの説明もなく、実際にそうでもない。類似した趣旨を語る判決は、渡辺が用いたもの以外にも存在する。それらの微妙に異なる表現ぶりから何を読み取ることができるのかも、渡辺式では語れない。そして、異なる読み方を許す判例に至っては、黙殺されている。このあたりに関しては長く立ち入った話を避け、真面目に文献を漁れば色々出てくるとだけ指摘しておく。ここ数年の法律雑誌の特集だけでも、けっこうなんとかなることだろう。
 このあたりからは、憶測が可能である。渡辺は、「こういう判例もありますよ」的な羅列を形だけ真似たのではなかろうか。そのような扱い方ならば、細かい注記を省いて下級審判例を並べるのはむしろ当然である。個別の話と一般論を区別せず、本質的理解なしに形だけ整えるならば、先人のやり方を部分的に真似た渡辺のような書き方もできなくはない。

(2) CGによる創作物を児童ポルノと認定した初判例
 渡辺は、CG児童ポルノ事件の地裁判決を1頁弱で紹介する。ただし、地裁判決だけが言及され、上訴の有無すら明らかでない。少なくとも、控訴の方針くらいは判決から間を空けずに知ることができたはずである。それ故、地裁判決に言及できるならば、それが確定したものでない可能性を明記することも同時に可能だったはずである。それなのに、この調子である。この一事からも、渡辺が裁判例の扱い方を知らないことが窺われる。なお、この作文が出版されて更に半年近くを経た2018年9月末現在、この事件は上告中である。

4 性的有害表現規制をめぐる判例
 渡辺は、有害図書規制を9行で語る。規制が岡山県で始まったという判例と無関係な事項と、二つの最高裁判例が条例の規制を「全面的に合憲」(77頁)とした旨が書かれる。
 この渡辺説は、有害図書関連の判例を単純に読む限り、特段の問題なく成り立つ主張として理解できる。しかし、いわゆる青少年条例の枠組みで考えるならば、このような把握はできない。話を有害図書関連に限るとしても、知られた裁判例が自販機に関するものに限られているため、傍論的でない正面からの制度に対する言及が見られないのである。そこにあるのは、有罪の前振りとしての説明でしかない。さらに、同じ条例に含まれるのが常の淫行規制の適用は、合憲限定解釈によることが定着している。このことは、有害図書に関連する場面でも同様の法理に基づく判断が不可能でないことを示している。これらの事情に鑑れば、「全面的に」合憲という簡潔な整理のみで足りると考えることはできない。
 この節が短いながら散漫にして不十分な内容となった理由は簡潔である。剽窃を元に、原典の文脈を考えず、おそらく判決文も参照せずに、形だけ整えられたからである。

章全体
 「判例」のみを扱うとするのには無理がある。このことを、渡辺は身をもって示した。判例を語るには実定法という前提が必要である。実定法には、立法の経緯とか前例とか、様々な付帯する事情がある。いかに渡辺とて、それらを完全には無視できなかった。それ故、内容と題目にずれが生じた。だが、渡辺が陥った陥穽に同情すべきではない。そんなことをやると宣言したのは、渡辺自身だからである。
 この3章と次の4章は、刑法175条と児ポ法と有害図書規制を並列に扱う。他方で、それらの制度趣旨は異なっている。注釈抜きでの並列を可能にする立場を想定するならば、創作児ポ規制に使える道具として等しいものと捉える単純な見方ということになるだろうか。ただ、渡辺は2章で加えたような「分析」をなさず、全体をまとめる話もしていないので、このような扱いの趣旨が読み取られ得る記述がない。
 なお、終章には、有害図書規制が出てこない。だったらなぜ3・4章には言及があるのか。小さい蛸壺の中の話を羅列する構成のどこを見ても、明示的な回答が存在しない。いつの間にか消えただけである。
 そしてこの章でも、要所に剽窃が見られる。他人の表現を借りずには何も語れないのに、渡辺はなぜ独自説を示そうとするのだろうか。


 注についてまとめて扱う。この章の本文約17頁に対し、21の注がある。明白に不適当なものは、新聞社または通信社名と日付だけを挙げるものが2件、注として憲法の条文を挙げるものが3件、編書中の論文を挙げつつ全体の編者を書かないものが1件、計6件ある。その余は明白な問題を有するに至らないが、長野県の条例成立について参照先なしに書くもの1件がこのような書き方に向くかどうかには疑義を挟み得る。序章ほど派手ではないにせよ、一見して明らかな3割近い不備率は相当のものである。

■4章 性表現規制に関する学説

 渡辺は、今度は学説を扱うようである。この章は25頁に渡る。冒頭部13行は、第二のRQである「異なる視点」云々に関連付けられた章であることと、前章同様に三分した制度とこれに関する幾つかの判例についての学説をこの章で扱うことを宣言する。
 冒頭部で第二のRQを示すのは、2章と等しく3章と異なる。3章に関して上述した不自然さが、ここでも確認される。

1 わいせつ表現規制に関する学説と分析
 約6頁のこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) わいせつ表現規制に関する学説
 渡辺は、約6頁に、@わいせつ概念の要素・Aわいせつ規制の根拠について憲法学者の学説二つずつを、Bマンガ規制について刑法学者の学説一つを引く。
 前振り部分で渡辺は、松文館事件を扱う「論稿」〔原文のまま〕が「乏しい」(以上二件83頁)とする。そこで書かれる内容は知られた事実に合致するとはいえ、論文中の表現としては問題がある。渡辺が、証拠を示さず断定的に表現しているからである。

(2) わいせつ表現規制に関する学説の分析
 2頁弱に及ぶ何かは、分析なんだそうだ。
 渡辺は、「わいせつ表現規制に対しては」「学説の反発が激しい」(87頁)理由を、「多数派又は国家の選好による道徳・イデオロギーの強制は許されない」(88頁)という方向性に求める。伝統的な人権論をよくぞ理解したというところである。学部生が初めて憲法を学んで書いた答案なら、合格点を取れることだろう。
 そして渡辺は”法学者の価値観の根底にはいわば、「国家への猜疑心」があると考えられよう。”(88頁)と書く。情緒的な表現を用いがちな渡辺がそれを猜疑心と呼ぶこの一文は、既に信仰告白である。国家への猜疑心を捨てることで渡辺説を正当化できるという意味が、そこに込められている。それは同時に、憲法の原理を知らないという自白でもある。国家を縛るために憲法を定めるという今日の文明国の原理的構造の背景は、国家に対する猜疑心とも表現できなくはなかろう。渡辺は、それを誤りだとするのである。この立場からは、右翼団体の常任理事を務める指導教授の立場が渡辺にも反映されているという事実が明らかとなる。しかも渡辺は、「分析」と称しつつ、その「猜疑心」の淵源について語らない。その自称分析は、中世への回帰を目指す立場以外からは論理必然でしかないものを確認するのみである。

 渡辺はこの節の最後に、学界には「創作物の人権侵害性に真摯に向き合う姿勢は見られない」(89頁)との受け止め方を示す。なるほど、学界が何かを見落としている可能性は、常に存在する。しかし、それを忘れたと非難される「人権」とはどういうものかは、相変わらず説明されていない。それ故、学界側の立場では、渡辺に何が問題視されているかを知ることができない。よって、学界側はどうすることもできない。仮に渡辺説が本質的あるいは全面的に妥当であるとしても、あるいは一顧にすら価しないとしても、この点に差はない。また、この項で語が現れない表現の自由もまた人権の一つであることは、相変わらず忘れられているようである。

2 児童ポルノ規制に関する学説と分析
 約8頁のこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) 児童ポルノ規制に関する学説
 渡辺は、この約8頁の項で、「@児童ポルノの定義」について、条文とその説明を示した後に学説に触れる。また、「A創作物規制」として、三つの説に触れる。ここで特徴的なのは、論者ごとに主張を要約している点である。法学の論文が複数の可能な立場を説明する場合、論理的に切り分け、必要の限りの引用をし、その他にも論者の名を別途羅列するのが相場である。ところが渡辺は、誰がこう言っていると書き並べているのだ。このようなやり方をするにせよ、同旨の見解への目配りを要することに変わりはない。だが渡辺は、これを怠っている。

 この項中(90頁)には、許されない誤字がある。渡辺は、法令用語である名誉毀損を、マスメディア流の用字で書いてしまっているのだ。この誤字は、それが法律の論文を名乗る限り、条文の文言を書き誤ったものとしか読めない。

(2) 児童ポルノ規制に関する学説の分析
 3頁弱のこの項では、見出しはないものの、前項の@とAをある程度分けて話が進む。
 @については、学説に批判が「多い」(94頁)とされる。一つしか引用していない渡辺になぜこのような評価が可能なのかは、明らかでない。そして渡辺は、学説の「人権侵害を問題視する意識は高い」(96頁)とする。児童ポルノの定義の問題性は、渡辺も認めているというわけである。
 Aについては、創作規制への批判だけが採り上げられる。そして渡辺は、「創作物と性的攻撃性の関連性については、前述のように、既に研究結果が公表されている。しかし学説は言及していない。」(96頁)と、限られた出典を基に断言してのける。また、渡辺説に沿わない研究の存在は、無視されている。  渡辺はこれに加えて、学説が”「規制反対ありき」で議論している印象を否めない”(96頁)とまで断ずる。その通り、それは「印象」でしかない。
 渡辺が断ずるように、ある部分で「人権侵害を問題視する」学説が、別の部分でそうでないとしよう。このとき、そのような理解こそが誤っている可能性がある。だが渡辺は、退かず媚びず顧みず、自説を貫く。正義の断罪は、ついに学界そのものを斬り倒してしまった。

 渡辺は、項の最後に、学説について「子どもの人権をどのように守るのか、創作物規制も実在する子どもの人権保護につながるのではないか、との視点の広がりには乏しいといえよう」(97頁)とまとめる。裏返してみると、渡辺説は、児ポ法で創作を規制することが子どもの人権を守るものだと主張しているという意味になる。ここでも、検討の先にあるはずの結論が先取りされている。そんな渡辺説の「規制ありき」は、学説の「規制反対ありき」とは違って正当だということらしい。

節全体
 言及される論点の少なさは、特徴的である。渡辺は、児童ポルノの定義と創作規制の二点に間するものにしか言及しない。児ポ法と人権の関係を扱うならば、無視できない論点はその他にも存在する。それなのに渡辺は、何の説明もなく、それらが存在しないかの如く扱うのである。渡辺には、実定法と真摯に向き合う姿勢は見られない。

3 性的有害表現規制に関する学説と分析
 5頁強のこの節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。ここでは、所謂有害図書規制が扱われる。

(1) 性的有害表現規制に関する学説
 ここでは、約4頁に渡って、論者でなく論点ごとの切り分けで学説が紹介される。前節との不統一の理由は、不明である。

(2) 性的有害表現規制に関する学説の分析
 渡辺は、約1頁の分析で、学説の傾向を児ポ法と同様のものであるとする。

章全体
 学説は、しばしば非難される。渡辺は、「規制ありき」の立場を隠そうともしなくなった。ここまで来れば、筋書きは誰にでも理解できよう。


 この章の21頁強の本文に対し、注が30件ある。出典の特定について、注と本文のみから明らかな問題があるものは見られない。しかし、4件に関連する下記の難点がある。3は、語句の英語と日本語の言い替えを示すためだけに文献を引いている。注を水増ししたのだろうか。また、2で号数を「五一三号」と漢数字に号の字を続けて表記した雑誌が、24では「No.671」と書かれている不統一がある。さらに、26は、刑法改正時期にのみ注で言及するという意味不明なものである。

■5章 国際条約の児童ポルノ規制の枠組み

 これは、「国際条約に関する内容を明らかにする」章らしい(107頁)。冒頭部からは、この章が第一のRQである「国際条約及び諸外国は、どのような枠組みで児童ポルノを規制しているのか」に関連付けられ、その余のRQとは関係しないと渡辺が捉えている旨が読み取られる。標題と三つのRQを見比べる限り、これに無理はない。

1 子どもの商業的性的搾取に関する国際条約の変遷
 この節は、約11頁に及ぶ。節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) 子どもへの権利付与
 この項は、”@子どもの権利条約に見る「子ども像」の転換”として始まる。最初の段落5行で渡辺は、越南戦争に遡り、買春ツアーに言及する。次の5行ではロザリオ事件とエクパットについて述べ、その次の4行で児童ポルノに規制の展開を簡単に述べる。そしてやっと条約への言及が始まる。実在児童を保護するための子どもの権利条約が、25行に渡って扱われる。条約の話が過半を越えてはいる。しかし、標題との齟齬なしと見ることもできない程度に、条約以前の話に分量が割かれている。そして渡辺は、児童の権利条約が”「解決主体としての子ども」観”に依拠する(110頁)とする。これは、子ども観を扱う1章に現れていない語である。つまり、ここで1章の内容が継ぎ足されているということになる。
 次は「A 子どもの権利条約とCSEC」である。ここでは説明されないCSECとは、序章3(1)(14頁)が初出ながらここまで出番のなかった「子どもの商業的性的搾取」を意味する語である。読者にはだいぶ前の話を覚えていることが求められているようである。渡辺はここで、条約34条の性的搾取の禁止と35条の人身売買の禁止に触れる。いずれも、創作規制に直結しない、実在児童に関する定めである。

(2) 子どもポルノの犯罪化へ
 「@ILO182号条約」・同条約の「A子ども売買等選択議定書」が、ここで言及される。これらも、実在児童に関する内容である。

(3) インターネット上の子どもポルノへの対応
 渡辺は、「@サイバー犯罪条約」と「A性的搾取・性的虐待子ども保護条約」に触れる。前者は、渡辺も本文中で言及する通り、創作規制について留保を認めている。その余の部分は、実在児童を前提とした内容である。そしていずれもEUのものであり、その内容を唱える主体を「国際社会」と簡単に言うわけにもいかない条約である。
 さらに渡辺は、「B性的搾取・性的虐待子ども保護条約と日本」として、当該条約に日本が署名していないことを指摘し、政府の態度を咎める。

節全体
 その名は、不可解である。価値観を前面に出して押し切る渡辺流ならば、諸条約が絡み合って見せてきた経時変化は、変遷という中立的な表現ではなく、積極的評価を含み得る展開とか発展とすべきであろう。もしかして渡辺の語彙は相当に少ないのだろうか。

2 国際条約における子どもポルノの位置付け
 この節は、長い引用約2頁分を含めて6頁強に及ぶ。節の見出しの後は、すぐに項の見出しである。

(1) 「子どもポルノ」とは何か
 1頁弱のこの項で、前節(1)・(2)で採り上げた二つの条約を基に、渡辺は冒頭5行で児童ポルノへの子どもの使用が犯罪化されていることを確認する。その内容は、創作とは無関係である。
 そして渡辺は、児童ポルノに何が該当するかについて、児童の権利条約の選択議定書が含む「擬似」の文言に目を向ける。示されるのは、その語が含まれるという事実のみである。

(2) 創作物への対応
 二つの条約の定義関連部分を約2頁を費して引用した部分を含むこの節は、4頁を超える。
 渡辺は、二つの条約が児童ポルノに創作を含めていることを指摘する。なお、サイバー犯罪条約は、創作といっても「写実的映像」(realistic images)のみを定義に含める。この点は、「あらゆる」(any)それっぽいものを児童ポルノとする性的虐待…条約とは異なる。
 引用部分の見出しは、何条約の「定義」とされている。しかし渡辺は、定義以外を扱う項も含めて一か条をまるごと引用している。このようなやり方をする意味は、明らかでない。

3 世界会議の宣言
 渡辺はここでなぜか、民間団体によるリオデジャネイロ会議でなされた宣言を扱う。それは、「国際条約」そのものとは無関係である。だが、関連性は何ら説明されない。

章全体
 ここでは、幾つかの条約の児童ポルノ関連事項について、曲りなりにまとめられている。そこに、余事記載が入り込む。23頁から注を除いた約18頁のうちの約1頁とはいえ、一節を設けて条約でもなんでもない民間団体の宣言を扱うのである。冒頭付近での条約外の事情への言及を合わせれば、一割を超える量が条約から離れた内容である。それならそれで然るべき標題を付けるとか、章を分けるとか、何らかのやりようがあるはずだ。だが、渡辺はそうしなかった。
 そしてこの章は、条約等の要約的な内容に留まる。前2章と異なり、「分析」が加えられていない。


 18頁強の本文に対し、56件の注が見られる。参照先の頁数等を示さない箇所は稀であるものの、版元を書いたり書かなかったりする不統一等、様々な問題が見られる。その他には、以下に12件を指摘するとおりである。
 1は、別の自著全体を参照先とするのみである。2・3は、原語の条約名等を示すのみである。12は、出典なしに国連の歴史について価値判断を含めて語る内容である。本文に書かない理由はない。さもなくば、出典を明示できる内容とすべきものである。14は、条約の効力に関連する日付の参照先として主務官庁のウェブサイトを示している。不要な出典の表示である。22は説明なく略語を用いている。24は、参照先を編書らしく書きつつ、その中の誰が責任著者となった部分であるかに言及しない。35は出典のない注記である。32・36は、頁数の摘示が必要な文脈にもかかわらず、これをなしていない。39は出典を要しない注記である。42は、独自説の説明に過ぎない。これらはいずれも、必要な情報を欠き、または不要な情報が加わっている。
 以上は、注のみを見て明らかとなる難点に過ぎない。渡辺的な注の使い方の奇妙さは、一見するのみでは問題のない箇所にも見られる。
 例えば注24が示す参照先は、条約の条文を言い換えた内容である。渡辺も、前後関係の相違はあれど、条文を異なる形で表現しているのみである。このような場面において、注釈は不要である。参照可能な文献の少なさから水増しに走ったと見られても、渡辺には反論できないことだろう。仔細は下に掲げるとおりである。
児童の権利条約第34条(外務省訳)
 締約国は、あらゆる形態の性的搾取及び性的虐待から児童を保護することを約束する。このため、締約国は、特に、次のことを防止するためのすべての適当な国内、二国間及び多数国間の措置をとる。
 (a) 不法な性的な行為を行うことを児童に対して勧誘し又は強制すること。
 (b) 売春又は他の不法な性的な業務において児童を搾取的に使用すること。
 (c) わいせつな演技及び物において児童を搾取的に使用すること。



渡辺作文 5章1(1)A 110-111頁
 子どもの権利条約は、子どもの商業的性的搾取の問題に対する国際社会の一定の方向性を示した【注23】。三四条において子どもの性的搾取を禁止し、これをなくすために、あらゆる方策をとるよう国家に義務付けている。締約国は「あらゆる形態の性的搾取及び性的虐待から子どもを保護することを約束する」こととされ、「不法な性的な行為を行うことを子どもに対して勧誘し又は強制すること」、「売春又は他の不法な性的な業務において子どもを搾取的に使用すること」及び「わいせつな演技及び物において子どもを搾取的に使用すること」を防止するための全ての適当な国内、二国間及び多数国間の措置をとることが求められる【注24】。特に「わいせつな演技及び物において子どもを搾取的に使用すること」は、子どもポルノを含むと考えられる。

5章127頁 注23 皆川[二〇一一]一五〇頁。勝間[二〇〇九]一八三頁。〔作文中で既出のため略記されている。〕
5章127頁 注24 永井憲一・喜多明人・寺脇隆夫・荒巻重人編『新解説子どもの権利条約』日本評論社、193頁。



永井他編 193頁 平湯真人「第34条」の一部
 本条は、子どもがすべての性的搾取、性的虐待から守られるべきであること、そのため国はとくに(a)不法な性的行為への勧誘・強制、(b)売春その他の不法な性的行為への搾取的使用、(c)ポルノ的な実演・題材への搾取的使用、の三つを防止するために、国内・二国間・多国間の措置をとるべきことを定めている。
 もう一例を挙げる。「またこの頃より、子どもの性的搾取防止に向けた各国の立法思想は、保護の実践だけではなく、刑事的規制の強化を要望する傾向に移行する【注28】。」という一文に付された注28は、二つの文献を参照先としてただ示す。 勝間靖「子どもの権利とその国際的保護 商業的な性的搾取との闘いにおいて」アジア太平洋討究12号(2009年3月)183頁は、犯罪化を主たる論点としていないばかりか、個別の国家について語っていない。もう一方の平野裕二「子どもの性的搾取と国際人権法」法学セミナー530号(1999年2月)全体も、日本の事情に触れる他は同様である。渡辺がこれらを参照先とする理由は不明である。ただ、それが本文と無関係であることに疑いはない。

■6章 諸外国の児童ポルノ規制の枠組み

 6章は外国の制度を紹介するようである。冒頭部では、第一と第二のRQに関連付けた章であることと、序章で言及された三国を扱うことが宣言される。それらを「精査する」(132頁)んだそうだ。
 第二段落では、三国それぞれについて一節程度語った上で「このような理由から」「調査対象に含めた」という意味不明な供述がなされる(131頁)。序章4(3)(20頁)と同様に、それらを調査対象として選択した理由たるべき事情は、どこにも書かれていない。

1 アメリカ
 この節は、長い引用を含め15頁強に及ぶ。節の見出しの直後が項の見出しである。

(1) 児童ポルノ規制
 「@児童ポルノ規制の系譜」では、1970年代から説き起こし、児童ポルノ規制が古くからなされていたことと創作が対象でなかったことが語られる。そして、1996年の連邦の立法と違憲判決から再立法後の現状が概説される。

 この部分に見られる大規模な剽窃については別頁を参照されたい

 最後の段落4行で渡辺は、浅い理解を示す。
 アメリカは、インターネットの発達とともに児童ポルノ犯罪が拡大したことから、現在に至るまで厳罰化の過程をたどっているといえる。さらに二〇〇〇年と二〇〇九年には、児童ポルノの所持と、児童に対する性的虐待犯罪との相関性を示す調査結果も報告され、児童ポルノの単純所持に対する処罰の厳格化を促進したともいわれる。(135頁)
 第一文は、因果関係について混乱している。児童ポルノは古くから存在した。インターネットの普及がそれを顕在化させたに過ぎないならば、「犯罪が拡大した」と見ることはできない。しかし渡辺の見方はこれとは異なる。
 この段落の注は、末尾に一つあるのみである。参照先は、内閣府の2013年度「アメリカ・フランス・スウェーデン・韓国における青少年のインターネット環境整備状況等調査」(pdfhtml)の名のみが示され、頁や項目は示されていない。ただし、渡辺が書いたURLは、特定のファイルに書かれた部分の一項目を指す。この参照先が出典とされるのは「促進した」との主張の出所なのか、それとも調査結果を含むのか、本文における渡辺の書き方からは判然としない。特定されたのが参照先の全体なのかそれとも部分なのかが曖昧だからである。少なくとも、渡辺が書いたどの部分について出典のどこを見れば確認できるのかが書かれていない限り、学術論文における出典の表示とは言えまい。渡辺には、それができていない。

 また、この部分では、一定のわいせつな表現が「児童ポルノ」と呼ばれている。それらは、次款で言及される定義に関連づけられていない。即ち、渡辺は独自定義を前提にしているのである。中心的な用語すらも整理して使い分けることができない渡辺の無能力ぶりが、ここから明らかとなる。

 しかも「いわれる」とする根拠は不明瞭である。誰が言っているのか、それに信憑性はあるのか、定かでないのだ。渡辺が示す参照先も、この点では同様である。理由は単純で、渡辺が書いた本文がほぼコピペだからである。薄味の報告書の本文をそのまま拝借したが故に、論文としての批判に耐えられない記述が生じたという次第である。

 ”A「児童ポルノ」の定義規定”は、冒頭5行で連邦法のみを扱うとする。各国について精査するんじゃなかったっけ。まあいいや。そして渡辺は、関連規定である18 U.S. Code第2252・2252A・2256条の名を挙げ、定義について改正履歴込みで触れる。そして最終段落の7行では、処罰の対象となる行為にまで触れる。それは一般に、前提たる定義の話とはされず、構成要件として語られるものである。だが、渡辺は、ここで触れる。
 「B児童ポルノに関する連邦法の用語の定義」は、上掲2256条を和訳したもののみで構成される。
 「C実在する未成年者の描写を規制する規定」では。2252A・2252条の一部の和訳に、渡辺が書いた注記的なものが付け加えられる。

米国法の構造と渡辺説
 予備知識のない読者への説明を兼ねて、この項に見られる渡辺の怪しげな外国法の理解と踏み込みの浅さについて例を挙げよう。
 渡辺も引く18 U.S. Code第2256条(8)は、児童ポルノを定義する。その(B)は実在児童と「見分けがつかない」(indistinguishable)ものの描写を、(C)は実在児童の描写に「見える」(modified to appear)ものを定義に含める。そこまでである。似た内容の虚構の一般的規制は、1466A条の任である。同条は、性的に露骨ないし猥褻な未成年者の視覚的描写を一般に禁ずる。
 1466A条を含む71章は、猥褻規制について定める。他方で、2256条が属する110章は、児童の性的虐待に関する内容である。両者が別物であるという程度のことは、容易に推知されよう。
 渡辺も、概略としては十分な整理を見せる(180-181頁)。しかし後に、それらが「子どもの権利を基礎とし」「子どもを保護しようとする」ものだと、他国のものとまとめてただ断じられることになる(184頁)
 日本法の場合、刑法175条と児ポ法の罰則には、保護法益を含む様々な違いがある。これに関する十分な知識があれば、渡辺のような説を唱えるとき、USA連邦法の切り分けが日本と等しいのか否かに始まる説明が必要だと理解できよう。渡辺が曲りなりに語るのは、大分後である(191-192頁)。もっとも、その説明のようなものは、出典不明の引用風の一文の、足掛け4行のみである。しかも、それは保護法益等に深入りするものですらない。USA連邦法の二つの章のずれの有無とずれがあるならその具合は、触れられてすらいない。渡辺は、罰せられる行為とその客体につき、自説が罰すべきとする対象とUSA連邦法の間で重なりが見られるということだけを見ている。このようなことをやってのける渡辺は、おそらく、表面的な字面しか理解していない。

(2) わいせつ規制
 USA連邦憲法の表現の自由に関する一般論とわいせつ規制に関する説明が約2頁を用いてなされる。
 この部分に見られる大規模な剽窃については別頁を参照されたい

(3) 実在しない児童を描写したマンガやアニメ等のポルノの規制
 「@実在しない未成年者の描写も規制する規定」では、18 U.S. Code 1466A条の一部を略した訳が示され、地の文での言い換えないし説明が1頁強に渡って続く。
 「A規制の適用例と裁判」は、8行に渡って二つの事例の存在を示す。それぞれ、アニメと漫画に関する事例である。
 この部分も、別頁の通り、剽窃から成っている。

2 イギリス
 ここでも、節の見出しの直後が項の見出しとなっている。

(1) 児童ポルノ規制
 この項は、約8頁半に及ぶ。ただし、2頁強は条文の和訳である。そして、例の如く、別頁の通り剽窃だらけである。
 「@児童ポルノ規制の系譜」が項見出しの直後に始まる。最初の8行で渡辺は、英国の制度が三つの地域で異なることに触れた後、イングランドとウェールズのそれを「中心に」するとし(146頁)、制度の大枠の変遷に言及する。以下では、規制の対象や処罰される行為等について、一般論的にまとめる。そして、渡辺も認めている通り、イングランドおよびウェールズの規定における児童ポルノは、創作を含むといえど擬似写真に限られることが確認される。(項全体参照)
 ”A「児童ポルノ」の定義規定”が、前節同様に独立している。この8行では、「いかがわしい」(indecent)の語義が問題となることが指摘される。その後、条文の和訳が資料として貼り付けられる。
 主に剽窃で構成される以上に続いて、1頁弱に渡って”B「いかがわしい」の判定基準”が述べられる。この款は、丸ごと堂々たる著作権侵害によって成る。詳しくは別頁を参照されたい。

(2) わいせつ物規制
 2頁弱のこの節は、イ・ウ両地域でのわいせつ規制を概説する。そこでは、2008年の立法も言及され、渡辺説と整合する方向性の需要者へ向けた対策が強調されるばかりでなく、立法への批判も紹介されている。
 勿論、ここも別頁の通り剽窃まみれである。

(3) 実在しない児童を描写したマンガやアニメ等のポルノの規制
 1頁強が2009年の立法について説明する。ただし、半分強は経緯の話である。その後に、2頁弱に渡って条文の和訳が挿入される。
 相変わらず、ここも別頁の通り剽窃まみれである。

3 カナダ
 約7頁半に渡るここでも、節の見出しの直後が項の見出しとなっている。

(1) 児童ポルノ規制
 「@児童ポルノ規制の系譜」は、2頁弱に渡る。そこでは、1980年代以降の立法について述べられた後、7行に渡って渡辺がなした捜査官への「ヒアリング」について記される。
 ”A「児童ポルノ」の定義規定”は、2頁弱である。そこでは、対象となる描写と処罰される行為、さらには量刑と適用除外についても言及される。そして最後に、半頁強を占めて関連する条文の和訳が示される。最早定義の話に留まっていないが、渡辺は標題を他と揃えることを優先している。
 渡辺が示す和訳は三項目に分けられ、いずれも同じ条数が示されている。これは、日本法ならば号にあたる別個の部分について、渡辺が条までを記して済ませたためである。それ故、不思議な処理が見られる。(c)と(d)が「または」で結び付けられてあたかも一個の存在であるかのように書かれるのである。そもそも、このような断片の特定には、条数のみでは不十分である。また、渡辺訳は、なぜか直訳的な「違反」との訳語に拘泥している。仮に十分な理解に基づく独自訳ならば、不自然である。あるいは、それが原典を尊重した直訳的なものであるなら、この訳語は理解できても、4つの部分を3つにまとめ直したことが説明され得なくなる。
渡辺作文
・電子的手段又は機械的手段によるか否かを問わず、一八歳未満の人又は一八歳未満として描写された人が露骨な性行為に従事する又はそのように従事しているとして描写されたのを示す、写真、映画、ビデオその他の視覚的な表現。又は性的な目的で、18歳未満の人の性器もしくは肛門部の描写を主たる特性とする、写真、映画、ビデオその他の視覚的な表現(刑法一六三・一)
・本法律に基づき違反にあたる、一八才未満の人との性行為を唱導する又は相談する書面による素材、視覚的な表現、又は音声的な記録(刑法一六三・一)
・本法律に基づき違反にあたる、一八歳未満の人との性行為の、性的な目的での描写を主たる特性とする書面による素材。又は本法律に基づき違反にあたる、18歳未満の人との性行為の、性的な目的での描写、表明、もしくは表現を主たる特性とする音声的な記録(刑法一六三・一)(163頁)

内閣府
電子的手段又は機械的手段によるか否かを問わず、18歳未満の人又は18歳未満として描写された人が露骨な性行為に従事する又はそのように従事しているとして描写されたのを示す、写真、映画、ビデオその他の視覚的な表現。又は性的な目的で、18歳未満の人の性器もしくは肛門部の描写を主たる特性とする、写真、映画、ビデオその他の視覚的な表現(刑法163.1)
本法律に基づき違反にあたる、18歳未満の人との性行為を唱導する又は相談する書面による素材、視覚的な表現、又は音声的な記録(刑法163.1)
本法律に基づき違反にあたる、18歳未満の人との性行為の、性的な目的での描写を主たる特性とする書面による素材。又は本法律に基づき違反にあたる、18歳未満の人との性行為の、性的な目的での描写、表明、もしくは表現を主たる特性とする音声的な記録(刑法163.1)

原文
(1) In this section, child pornography means
(a) a photographic, film, video or other visual representation, whether or not it was made by electronic or mechanical means,
(i) that shows a person who is or is depicted as being under the age of eighteen years and is engaged in or is depicted as engaged in explicit sexual activity, or
(ii) the dominant characteristic of which is the depiction, for a sexual purpose, of a sexual organ or the anal region of a person under the age of eighteen years;
(b) any written material, visual representation or audio recording that advocates or counsels sexual activity with a person under the age of eighteen years that would be an offence under this Act;
(c) any written material whose dominant characteristic is the description, for a sexual purpose, of sexual activity with a person under the age of eighteen years that would be an offence under this Act; or
(d) any audio recording that has as its dominant characteristic the description, presentation or representation, for a sexual purpose, of sexual activity with a person under the age of eighteen years that would be an offence under this Act.
 上掲引用は、163.1条の訳出例と原文である。「内閣府」としたのは、内閣府の2014年度版「アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリアにおける青少年のインターネット環境整備状況等調査」(pdfhtml)の一部(pdfhtml;pdf論理7-8・表示301-302頁)である。なお、他年度版との相違については確認していない。渡辺はこの項の見出しに注を付しているが、内閣府の当該報告書全体を参照先とするのみであり、具体的な参照・引用箇所を示していない。それ故、仮にこれが悪意のない引用であるとしても、出典の摘示が不十分である。また、同報告書の不自然な訳出を放置し特段の言及もしていないことは、研究を称するに際して渡辺が条文を十分に確認していないことを示している。
 なお、渡辺も示す通り、カナダの定義は、視覚的表現にとどまらず、音声や文字によるものを含む。
 「B判例の動向」では、法案成立の事情がなぜかここで言及されたりしつつ、2頁強に渡って二つの事例を通じて立法の正当性・合憲性が認められたことが述べられる。一つは絵画の展示に関する事案であり、もう一つは「コンピューターディスクの中のテキストファイル」の「内容が児童ポルノに該当」したことから捜査がなされて写真の所持等が発覚した事案(以上二件164頁)である。ここで渡辺は、「コンピューターディスク」というあまり知られていない存在が判例中に存在することを示した。もっとも、この文言は原典となる判例中に存在するため、渡辺の奇矯な用語法として咎めることもできない。

 そして、各項とも別頁の通り剽窃まみれである。

(2) わいせつ物規制
 10行で一般的な規制が概説される。条文は引用されない。
 なお、ここで渡辺が禁止行為を羅列する中に、「頒布」の語が二度出現する(166頁)。これは、剽窃元の誤りをそのまま残したものである。

(3) 実在しない児童を描写したマンガやアニメ等のポルノの規制
 6行で、わいせつ規制が創作を除外していないことが説かれ、判例が示されるのみである。条文は引用されない。

 例の如く、直前の(2)もこの(3)も、剽窃で構成されている

章全体
 ここでは主に犯罪としての構成要件の話がなされる。諸規定の背後にあるはずの、各国なりの当罰性に関する考え方とかはあまり語られない。保護法益論とかは出てこない。

 それでいて、時に、標題を乗り越えてまで扱う範囲が拡張される。判例を示すのは、それが制度の一部を成す限り、おかしな話ではない。しかし、標題に児童ポルノ規制と掲げながら一般的わいせつ規制を扱うのは、明らかな誤りである。両者が異なり得ることを知っていれば、少なくとも説明抜きにこのようなことはできない。あるいはもしかして渡辺は、児童ポルノを規制できるシステムとして単純に同視するような立場なのだろうか。それならば、両者を扱うのは可能である。だが、法律の話をすると言っておいて、説明もなくそうすることはできない。
 しかも、全体をまとめる小括的なものも章内にはない。なるほど、これが「精査する」(132頁)ということなのか。これほどまでに独自性の強い渡辺説は、どの分野なら通用するのだろう。

 別の問題もある。渡辺は、過剰規制の問題を無視している。とりわけ、カナダ法の規制範囲の広さについては、様々な形で語られているところである。3章で参照された加藤隆之『性表現規制の限界』も、触れられない。強硬な規制に無条件の賛意を示さない批判的検討は、存在しないことになっているのだろう。果たして、わかっていないからこうなのか、それとも意図的に都合の悪い部分を隠蔽したのかは明らかでない。ただ、いずれにせよ、渡辺の叙述には不足がある。

 なぜそうなるのか。ほぼ全体が剽窃だからである。本書を回収に追い込んだのは、渡辺のここでのやり口である。だが、渡辺の能力では、剽窃によらなければそれなりの記述すらも不可能だったかも知れない。このように考えると、そもそも渡辺は研究ごっこを始めてはならなかったのかも知れない。


 36頁強の本文に対し、111もの注が付されている。以下に示す通り、不要なものを除いたうちの約2割が不適切である。
 2・19・28・30・38・48-52・55・56・87・95の14件は、官庁の長い報告書の一部のURLのみを示し、章や頁等の直接的参照先を示していない。37は、新聞記事一件の紙名と日付のみを示す。これら15件は参照先の特定が不十分である。また、78は、自著全体を挙げて「既に論じている」とするのみである。
 5・10・11・39-42・45-47・56・65-67・76・79・83・91・93・94・98・101は、法令名等を主に原語で示すのみである。このうち98は日本語での説明が加わる。6は、USA憲法第一修正の名を示し、渡辺が内容を簡潔に説明している。14・15・16・17・20・22・32・33・35は、参照すべき法条を示すのみである。99は、日本語で外国法の一か条を示す。これらの合わせて33件は、本文中に適切な記載があれば注としては不要である。
 注105は、判決に関するものである。剽窃された原典の同位置の注は、判決を参照先としている。しかし、渡辺が示すのは、本文の剽窃元である。

【ここまで】

 次はいよいよ結論を示す終章である。その前に、ここまでについて振り返っておく。

章ごとに見る
 まずは、章ごとに概括的に整理する。序章では、表現の自由には限界があるので、科学的研究成果に拘泥せず、人権をなんとかしよう的な主張がなされた。それでいて、子供が狙われているという個別事例が大きく扱われたりもした。また、「国際社会」を代表するエクパットからの批判も紹介された。これらに加え、「研究」の方針のようなものが示された。1章は、まとまりがないものの、一定の子供観を推し進めるべきとの主張が読み取られなくもない。2章では、児ポ法の立法過程の一部が紹介され、そこに人権の観点がないことが指摘された。3章では、国内の三つの分野の判例が紹介された。4章は、3章に対応する各分野の学説を紹介し、人権の観点がないとした。5章は、児童ポルノを規制する条約を扱った。そして6章は、三ヶ国のわいせつ表現および児童ポルノへの規制を概説した。
 これらは、並列に語れるものではない。だが実際に、渡辺はただ並べた。それ故、それぞれのおはなし相互の関係性も、あまりはっきりとはしない。

対象のずれ
 そしてそこには過不足がある。立法過程は、児ポ法の一部についてしか扱われていない。国内の判例と学説は、3分野に渡った。しかし条約の章は児童ポルノについてのみ言及し、外国法については有害図書が欠けている。
章\分野猥褻表現児童ポルノ有害図書
  
  
 

 そのずれを上に図示した。法を扱う各章に、これだけの違いが見られるのである。果たしてこれに合理的な説明が可能なのだろうか。渡辺は、説明しようとしない。せいぜい、個々の場面でこれを選んだと宣言するのみである。それ故、二つの疑いが挟まれることになる。それは、渡辺が自説にとって都合が悪い話を意図的に除去したのではないかということと、渡辺が似たような話に目を配ることすらできない能力的問題を抱えているという二つである。

前提=結論
 そしてそもそも、渡辺の主張の骨子は、最初から明らかであった。@人権のためにA表現の自由を無視してB児童ポルノ風の創作を、規制しようというものである。もっとも、「すぐやる」から「やる方向で」までのどのへんかまでははっきりしない。そして、渡辺が採り上げるのは、基本的にこの路線に沿う話だけである。障害になりそうなものは、拘泥すべきでないと言ったり無視したりするだけである。
 一本の道を示して空手形を切る渡辺は、カルトの教祖か何かなのだろうか。

人権って何?
 主張は明らかである。それをもっともらしくしようとすることに、どうやら無理がある。その無理が主張の筋道にあるのか、それとも渡辺の能力にあるのかは、ここでは措く。根源がどこにあろうと、この作文におけるその無理が、一語に顕現している。それは、人権である。
 渡辺は、人権の視点とか観点からどうこうと何度も書く。反面、渡辺が言うところの人権とは何かが、どこにも書かれていないのである。局限された話に関する限りで、そういうことがこういう人権を害する的な言及はなされる。だが、渡辺語でいう「枠組み」の話は、ない。
 守るべきものの像が、はっきりしない。だから、守るためにどうすればいいかなど、明らかになろうはずがない。ところが、渡辺にとってはそうでないように見える。

人権対表現の自由
 渡辺は、そんな人権を、表現の自由と対置する。しかし、表現の自由も人権の一つである。このような対立構造は、そもそも存在できない。それ故、渡辺が空想する人権は、十分な学識のある者にこそ理解できない。

規制の対象
 渡辺は、独自の定義を前提として語っている。これに含まれ得るものの範囲は、とてつもなく広い。それ故、そのまま渡辺説が実現すれば、過剰な規制が混乱を招くこととなる。仮に規制の対象を広げるべきであると論ずるならば、その範囲をある程度確定するのが一般的なやり方である。ところが渡辺は、今のところそれすら怠っている。
 それだけではない。渡辺は、規制すべきものについて、簡単にしか語っていない。このようなものが出回っているという話は、はしがきでの例示のみである。これでは、規制の必要性など、説明のしようがない。渡辺は、印象程度のものを言い散らかすだけで、それらを規制すべきだと断じているのである。言い換えれば、渡辺は、そこに敵がいるとだけ言い、倒せと煽っている。しかし渡辺はその敵が何者でどんな力量を備えているかに目を向けない。それでいて渡辺は、こうすれば勝てると言い切ることになりそうなのである。小学生程度の格闘技の試合でも、ちょっと考えづらいお話である。
 まずは論理的に可能な仮説を考えてみるとよい。これらの話をしない渡辺の説に沿おうとすると、少なくとも相当の軋轢が生まれるであろうことが、容易に想像されよう。

まとまらない論理
 読者が理解できないものの根源は一つである。それを問いとして表現すれば、なぜ渡辺は説明したつもりでいるのだろうということである。ここまでに作文として示したものは、おそらく渡辺の主観においては説明になっているのだろう。だが、話は噛み合わず辻褄が合わず、論理と呼べるものはなく、あまつさえ捏造までやってのける。そこから筋道立てた話を読み取るのは、不可能である。
 ここまでから読み取られるのは、強固な信念だけである。そこに論理はない。それなのに渡辺は、この先を書いている。渡辺には、果たして何を書くことができるのだろうか。

 このあたりを踏まえて、CM明けの終章を読もう。きっと、TV的なクライマックスが待っていることだろう。渡辺がその素晴らしいお言葉を通じて人類社会に影響を与える可能性を肯定することは不可能だとしても、全面的に否定もできないのである。

■終章 日本における創作子どもポルノ規制のあり方とは

 章の見出しの後は、すぐに節の見出しである。このような位置に通例なら置かれるような、まとめの話をどう進めるのかといった記述がなされていない。

1 リサーチ・クエスチョンへの回答
 渡辺は、25頁にも及ぶこの節の冒頭部5行でRQを確認し、自ら設定した問いに自作自演で回答することを宣言する。

(1) 国際条約及び諸外国は、どのような枠組みで児童ポルノを規制しているのか
 冒頭2行によると、この項が、項名ともなったRQについて、「本書が明らかにした枠組みを提示し、さらに概念的な整理を行う」(176頁)んだそうだ。対象すら揺らぎっ放しの本書に枠組みがあったとは。しかも「概念的な整理」が可能だとは。この予測不可能な展開には、刮目せねばならない。やっと渡辺先生が本気を出してくれそうである。
 約4頁に及ぶ「@国際条約における児童ポルノ規制の枠組み」では、各条約の児童の性的虐待一般とか特に児童ポルノを厳しく取締る姿勢が再確認される。ただし、その内容は、原則として実在児童が被写体となることを前提としたものである。創作に関するおはなしは、末尾12行に含まれるのみである。
 約1頁半の「Aアメリカにおける児童ポルノ規制の枠組み」は、創作への規制を中心に、USAの制度を概説する。@とは打って変わって、わいせつ系の規制も含めてこういうことになっているというお話がなされる。これも約1頁半の「Bイギリスにおける児童ポルノ規制の枠組み」では、USAについてと同様に、主に非実在児童を描いた「ポルノ」に対して可能な刑事規制が再確認される。「Cカナダにおける児童ポルノ規制の枠組み」は、約1頁で同国の規制を概説する。そこには、立法時期を他国と比べる等の余計な記述もある。いずれにせよ、内容は5〜6章の焼き直しである。

 「D国際条約及び諸外国における児童ポルノ規制の枠組みに見られる概念」では、概念の語が、一般的でない使い方をされているように見える。これは読者の頭が悪いからそう見えるのだろうか。とりあえず、先生の顰に倣って(22頁注19参照)、辞書を引いてみよう。ここでは、一般的な意味として書かれているものだけを引用する。
1 物事の概括的な意味内容。「概念をつかむ」「文学という概念から外れる」 (小学館デジタル大辞泉)
(2) 大まかな認識 (三省堂WebDictionary)
@ ある事物の概括的で大まかな意味内容。(三省堂大辞林)
 書き方はそれぞれ違う。しかし、いずれにせよ、「意味内容」「認識」のようなそこにある何かを意味することに違いはない。また、何かの意味を説明するようなものであるということと、肯定あるいは否定の価値判断と関わらないもののようであることが共通している。そして同時に、方向性のあるお話に使われることは、辞書的な意味ではありえない。
 ciniiで論文を検索してみると、どうか。下掲の表は、ある日の検索結果の最新20件のうち、題目に概念の文字列を含む18件の情報を加工したものである。
著者題目掲載巻号
田中洋クロスメディアを中心とした広告コミュニケーション研究の時代(広研50年史物語(第5回)第3期広告概念の拡張期2007年〜現在(その1))日経広告研究所報51(6)
山田哲也・山本裕樹AIの概念と経済学の理論:その類似点と相違点(特集金融経済とAI)経済セミナー(699)
小林敏明故郷喪失の時代(第2回)故郷という概念文學界72(10)
不明情報フラッシュ 国際会計 「財務報告のための概念フレームワーク:第8章財務諸表の注記」、公表:FASB旬刊経理情報(1523)
青木義英・安本幸博・安村克己観光まちづくりにおける「ホスピタリティ」概念の再考観光学19
堀裕和自然知能:基本概念と実現手法人工知能33
木寅雄斗変わる「公共交通」の概念 IT、鉄道、自動車……誰が日本の移動を制するのか(移動革命:自動運転時代の支配者は誰だ)Wedge30(9)
清水徹男不眠症の概念とその変遷(特集不眠症の治療と睡眠薬)精神医学60(9)
大富浩一・山崎美稀新たな製品開発のアプローチ材料・プロセス選定のためのAshby法と機械設計 (第21回)Ashby法と1DCAEによる設計:基本概念機械設計62(10)
中根美知代関数の連続性についてのコーシーの誤り:反例が導いた厳密な概念(特集間違いから発展した数学)数学セミナー57(9)
三浦健治明治・大正・昭和詩史(11)現代詩という概念をつくったモダニズム詩(1)詩人会議56(9)
筬島大悟・真鍋沙由未戦前における皇室による保護から戦後の法的保護へ:無形文化財における保護概念の成立過程(その1)日本建築学会計画系論文集83(751)
田窪直規目録法の概念について図書館界70(3)
水林彪人権宣言におけるdroit概念再考(市民社会と市民法を論ずる)法律時報90(10)
徳山英邦IASB概念フレームワークにおける財政状態計算書:経済的資源と請求権の対置関係會計194(3)
上尾真道「すべてでない」地平における政治的審級について:ラカンの「女の享楽」概念の展開(政治と精神分析の未来)思想(1133)
川間健之介算数・数学につながる数の指導(2)概念の形成、数えることを中心に肢体不自由教育(236)
木村草太死刑違憲論を考える:「存在してはならない生」の概念(死刑大量執行の異常)世界(912)

 実例からは、辞書的な意味を前提としつつ、「(〜というものの)考え方の枠組み」「(〜となる)考え方」「(〜というものの)論理的な把握」「基本的な把握」等、様々な言い換えが可能であることが確認されよう。用例は、静的な状態と、前価値判断的な存在を前提としてこの語を用いている。他方で、概念の語義に既に価値判断をなされた一定の方向性までもを含める渡辺的な用法は見られない。
 さて、ここで渡辺先生の使い方を見てみよう。
すなわち三カ国において、児童ポルノ規制の枠組み作りにあたっては、創作子どもポルノも表現の自由で保護される対象から切り離し、「規制すべき対象」とみなす概念が共有されているといえよう。(184頁)
 これを日本語としてなんとか読解するとなると、とりあえず概念の語を理念とか方向性と置き換えねばどうにもならないのである。それは、辞書的な語義からは不可能な用法をする渡辺先生のおかげなのである。
 ここに出現する「みなす」の語にも、問題がある。もし渡辺が法学を修めているならば(仮定法)、この語を用いる際に注意深く考えたはずである。それは、条文において、異なるものを等しく扱うことを強制する際にこの語が用いられるからである。一定の場面で胎児を既に生まれた人とみなす民法の定めがその典型である。そのような用法を前提とするならば、ここでの渡辺の表現は、性質上規制されてはならない児童ポルノ的創作を規制する「概念」が共有されているという意味合いになってしまう。そのような主張そのものは可能かも知れない。だが、これまでの渡辺の主張とは整合しない。渡辺は法学をやったことがないのだろうか。だとするならば、なぜこんな作文を公表できるのだろうか。

(2) 日本と国際条約及び諸外国の制度で、児童ポルノ規制について異なる視点は何か
 冒頭部2行では「本書が明らかにした各々の視点を提示し、さらに概念的な整理を行う」(184-185頁)ことが宣言される。本書には、「明らかにした」ものがあったようだ。そして、ここでいう「概念」がどのような意味か、読者にはわからない。
 「@日本における児童ポルノ規制の視点」では、6頁に渡って、2〜4章の話の要約めいたものが書かれる。その冒頭を見よう。
 日本では、創作子どもポルノ規制をめぐる立法過程の議論や学説においては、子どもの人権よりも「表現の自由」を優先させる視点が支配的であることが明らかになった。(185頁)
 渡辺は、「支配的であることが明らか」と、あたかも事実の如く語る。しかしそれは価値判断に過ぎない。しかも、渡辺がかく語るために参照し出典としたものは限られている。あまつさえ、主張と整合しないものを黙殺しているのである。そこにあるのは、2秒で言い切れるまとめ方を優先して恥じない、TV的な単純化である。

 以下でも、渡辺が「明らかにした」ことが、価値判断交じりに確認される。渡辺に見えた学界の立場への非難を通じた政府への信仰の告白も、重ねられる(190頁)
 渡辺は、出版関連団体の声明を「マンガやアニメについて「被害児童が実在しない世界と断じている。だが女児への性的暴行を描いたマンガに被害者が実在したケースはあり、そうした事実への目配りがなされていない。」(187頁)と非難する。その内容は、2章2での「女児への性的暴行を描いた漫画に被害者が実在したケースはあ」る(55頁)とする部分と大筋で同様である。だが、相変わらず典拠は不明である。また、何をもってマンガの被害者とするかも不明である。もしかすると渡辺の脳内では、漫画の登場人物が被害者になることが可能なのかも知れない。だとすれば、端的に言えば速やかな治療が必要だろう。それは空想と現実を区別していないということだからである。そうでないならば、どうか。存在できるのは、間接的な被害のみである。それを説明もなく直接的な被害かの如く語るのは、被害の語義の拡張である。一度なら筆が滑ったで済むかも知れないが、渡辺は二度同じ話をしている。

 「A国際条約及び諸外国における児童ポルノ規制の視点」では、1頁強に5・6章の対象に関する何かが書かれる。
 最初の段落8行は、二つの条約の名を挙げながら、引用風の文字列を繋ぎ合わせて書かれる。ここでは条約名のみが示され、条約のどこに書かれたものかは明らかにされない。しかも、いずれの引用風文字列がどの条約を出典とするかすら、はっきりしない。文献の扱いの出鱈目っぷりは、相変わらずである。なお、引用らしく書かれているもののうち第二のかぎかっこ内はサイバー犯罪条約の条約本体ではない説明書(段落102)からの引用を含み、しかし原文の訳として無理があることが確認された。条約名だけを挙げる渡辺の記述は、不正確でもある。

渡辺作文終章1(2)A第一段落3ないし5行め「」内
創作物の子どもポルノが、実在の子ども達に対して性的虐待行為に加わることを奨励したりそそのかしたりすることに使われ、性的虐待を促進する下位文化が形成される(191頁)

サイバー犯罪条約説明書段落102
102. In the three cases covered by paragraph 2, the protected legal interests are slightly different. Paragraph 2(a) focuses more directly on the protection against child abuse. Paragraphs 2(b) and 2(c) aim at providing protection against behaviour that, while not necessarily creating harm to the 'child' depicted in the material, as there might not be a real child, might be used to encourage or seduce children into participating in such acts, and hence form part of a subculture favouring child abuse.
〔下線は引用者が加えた〕
 上掲引用を通じ、詳しく見てみよう。渡辺は説明書段落102の第二文(上掲下線部)の一部を「引用」した。ところが、原典では、「創作子どもポルノ」にあたる語が出現しない。渡辺は、意味を補っているのである。その余の部分は翻訳の揺らぎの範疇に属するとはいえ、これでは引用とはいえない。
 この文に関するもの以外の部分については、確認ができていない。幾つかの箇所を繋ぎ合わせることで、渡辺が書いたような内容を再構成できなくはないものの、全く同一とするには無理のあるものしか発見できていないためである。渡辺の「引用」に疑いを挟むには十分であるものの、何らかの想定外の可能性に鑑み、ここでは批判を控える。
 この段落で渡辺は、条約と外国法において、「児童への弊害を、表現の自由よりも重視する視点が主流であることが明らかになった」(191頁)と言い切る。すごい。渡辺が見た外国は、英米法圏の三ヶ国のみである。それなのに、そこでのやり方が世界の主流だと言い切ってしまえるのである。しかも、各国の法の内実は様々である。しかし渡辺は、一つの「視点」が共通すると言い切るばかりで、違いを無視してのける。
 また、説明書の書き方を人権の視点であると断ずることにも無理がないではない。条約正文の定めの趣旨を人権から切り離された社会的法益の保護と捉えても、説明書と整合はするからである。渡辺説は、価値判断による断定でしかない。
 なお、外務省の説明書に、渡辺の引用にあたる部分はない。また、原典(段落102)と雑に対照した限り、渡辺訳の適正性への重大な疑義はない。

 以上に関連し、一点補足しておく。実は渡辺は、サイバー犯罪条約の説明書の同じ箇所に過去の作文で言及し、出典と段落を明記している(論理12頁)。だが、それはあくまでここで扱っているものとは別の作文である。そこで詳述しようとすまいと、今は無関係である。

 その余の部分でも、この国の法律はこんなことを言っている等とだけ引用風に書かれる。引用風ではあるが、何法とも何条とも書かれていない。だから読者は、法律のどこを見ればよいかもわからない。原典と異なり日本語で書かれているため、訳語の対応も明らかでなく、用語をいろいろ憶測して出典を探ってもうまくいくとは限らない。出典に到達できないならば、第三者名義の文字列に価値はない。それが自称引用者の空想に過ぎないかどうかを確認することができないからだ。読者が配慮する必要はない。出典を示さない渡辺が悪い、ただそれだけである。

 この付近で出現する弊害の語(191頁)については、2章1(1)(47頁)について既述の通りである。

 「B日本と国際条約及び諸外国の制度における、児童ポルノを規制する視点に見られる概念」は、前項Dと同様に概念の語を用いる。渡辺は、三つの「概念」を発見したとしてこれらを示す。なお、概念の語については、本章1(1)Dでの出現時に既に触れたのでここでは日本語に読み替えて放置する。
@創作子どもポルノは、実在する子どもを性の対象とする歪んだ認識を見る者にもたらす
A創作子どもポルノは、実在する子どもに性的虐待行為をそそのかす手段として、加害者に使われる。
B右記@あるいはAの結果として、創作子どもポルノは、実在する子どもが性的虐待の被害にあい、その人権が侵害される可能性を高める(193頁)
 上掲引用の「概念」は、一見すれば、ある程度もっともらしくはある。そのようなことが可能だからである。しかし、ここまでに渡辺が書いた内容との齟齬は、無視できない。渡辺は、@について論証していない。むしろ、その当否に意味がないかの如く言っている(序章1(2)6頁参照)。Aに至っては、事例が挙げられたのみである。その話は、一般化されていない。このようなものを前提に語られ得ることは、ない。それ故、Bは言及されるべき価値すら有しない。
 仮にBの主張が成り立つとしても、何かをなすべきであるというような説とは整合しない。渡辺は「人権」について語っておらず、Bが守る人権が空集合だからである。
 一般論としてならば、渡辺が言及した条約と外国法がある程度そのような「概念」を示していると見ることができるかも知れない。渡辺説と三つの「概念」の整合性は、その程度のものでしかない。

 ところで、この部分には、極めて厳しい指摘が見られる。渡辺は、立法関係者・業界団体・学界に向けて、次のように言ってのける。
自分たちの主義主張に相容れない情報に関する事例や判例については、積極的に取り上げない姿勢が否めない。 (192頁)
 全くである。主義主張に反するお話を無視するなど、許されない。渡辺先生も、それはよくわかっておいでのようだ。

(3) 創作子どもポルノは、日本の現行法の枠組みで規制できるか
 6頁強に渡り、刑法と児ポ法による「規制の可能性について、以下検討する」(194頁)んだそうだ。

 「@わいせつ物規制法と創作子どもポルノ」では、再び松文館事件地裁判決が引かれる。渡辺は、同判決が「人権侵害」(195頁)の予防を”個々の具体的法益の保護を下支えする「基礎的な法益」であ”(195頁)るとしたとの理解を示し、このような考え方に基づいて「議論を深めることが可能になった」(195頁)との説を披露する。高裁判決には同様の言い回しがないため、渡辺が地裁判決を引用元とするのは致し方ない。しかしこれを換言すれば、地裁判決の該当する部分は、高裁判決にとってそのような言い方をする必要がない、必ずしも本質的でない部分であると見ることもできる。勿論、渡辺は、そのような不都合な事情には言及しない。
 そして渡辺は、「現行の枠組みのまま創作子どもポルノ規制にも適用が可能であり、その実現は同法の運用次第であると思量されよう」(196頁)と結論づける。この結論の前段は、判例に照らせば自明である。そこには、長々と確認する必要すら存在しない。しかし後段は、問題である。定着した実務慣行は、既に法の一部である。無闇に漫画の性表現を摘発しない取締機関の態度が安定した状態を成しているとき、これを変えるのは難事業である。だが、渡辺は、いとも簡単に言ってのける。

 次の「A児童ポルノ禁止法と創作子どもポルノ」は、3頁強に及ぶ。
 渡辺は、ここでも、これこれこういう判例が「多い」と言い切る(197頁)。前後に脚注はなく、関連して言及される判例は高裁のもの一つだけである。つまり、多いと断ずる基準が読者に示されないのである。多いという言葉に一義的な基準はないので、多いと評価すること自体は間違っていない。しかし同時に意味もない。ただ、印象操作の手段としては、この限りでない。渡辺が「多い」と断ずることの問題性は、「多い」んだからそういうことなんだというフィクションで押し通すところにある。なるべく反対説に目を配らないやり方が、こんなところからも透けて見えると言えるのではなかろうか。渡辺のようなエスパーでもない限り、断定はできないが。

 それだけではない。
 すなわち、児童ポルノ禁止法は直接的には児童買春の対象となった児童や児童ポルノに描写された児童の保護を目的とするが、間接的には「児童一般」を保護することをも目的としていることが示された。(198頁)
 上掲引用のような一般論を、たった一つの高裁判決を参照するだけで、渡辺は断定的に語っているのである。

 このような流れで、渡辺は、条約と外国法が”「実在する子ども一般」に対する人権侵害の可能性を高めるとの認識で共通している”(198頁)との理解を示す。言い換えれば、「可能性を高める」という間接的な寄与しか存在しないということである。この部分は、あたかもその「人権侵害」が直接的であるかの如き他の箇所での主張と異なる。もし二通りの理解の間に矛盾がないということならば、渡辺は「人権侵害」が直接のものであろうと迂遠な経路で影響しようと同一視するということになる。そして渡辺は更に続ける。
この国際規範に基づけば、児童ポルノ禁止法が創作子どもポルノをも規制対象とすることは、「実在する児童の権利保護」という保護法益と合致すると考えられる。従って、犯罪の構成要件を実在の児童に限定する必要はないといえよう。(198-199頁)
 そのような「国際規範」が存在するとしよう。同時に、渡辺の不可解な用語を適宜読み直し、この数行の限りでなるべく辻褄の合うものとして理解するとしよう。それでもなお、渡辺が曰うような「合致」を断定的に語ることはできないと考えられる。法律全体の方向性や制度趣旨と個別の罰条における保護法益は、完全に同一ではないからである。直ちにかく断じることは、そもそそもできないのである。渡辺は両者を区別していない。そして、これを乗り越えたとしても、創作の流布等をその余の事象と切り離して個別具体的な児童の個人的法益に対する犯罪として構成できる場面は、稀である。渡辺の主張は、意味不明なものでしかない。
 そして、「従って」と続けるのは、意味不明である。このように捉える前提として、一つの異常な用語が問題となる。「構成要件」である。渡辺が構成要件と書いているものは、犯罪の客体である。通常の用語法では、かような表現がなされることはない。客体は、それによって一定の行為が構成要件に該当するかを分けることがあっても、構成要件そのものではないからである。それ故、上掲引用の最後の一文は、意味不明である。そこで、刑法を全く勉強していない渡辺独自の用語を修正し、構成要件の語を犯罪の客体と置き換えることにしよう。さて、犯罪の客体を創作に拡張することは、実在児童の保護のためだと言えるであろうか。創作は、直接児童を害するわけではない。この点は、現行法が定める罰条との決定的な違いである。だとすると、そのような変化を解釈のみで成し遂げることはできない。渡辺説のように、漫画に被害者がいるという妄想を導入しない限り。

2 人権保護の観点からのアプローチ
 約4頁半のこの節では、渡辺による標題通りの主張が引用を交えてなされる。
 その結果明らかとなったのは、「子どもの権利を基軸として、創作子どもポルノを含むあらゆる性的搾取から子どもを保護」しようとする、国際規範に共通の概念であった。(201頁)
 壊れた録音機が如き渡辺に対して同じ指摘を繰り返すことを避け、上掲の引用をもって重ねての言及を要しないことの例示および例証とする。
 渡辺は、はっきりしない「人権」のために、「国際規範との整合性を確保」(202頁)せよと言い募る。ただそれだけである。

3 刑法における創作子どもポルノ規制
 渡辺は、RQについて「判例に基づいて分析した」「結果明らかとなったのは」「二つの方法が考えられる」と冒頭部で述べる(205頁)。限られた判例だけをつまみ食いしても、判例に基づいたことになるらしい。また、結論に沿わない話が存在しないことにしても、判例に基づいたことになるらしい。そういうやり方で「明らかとなった」方法があるらしい。

(1) 運用面での改善
 2頁弱のこの項で渡辺は、刑法175条による創作児童ポルノ規制の「利益は、刑法一七五条の保護法益と合致する」(205頁)という独自説を披露し、「現行法のまま、創作子どもポルノ規制にも適用が可能と思量されよう」(206頁)と述べる。なお判例は、205頁の独自説と無関係に、適用の可能性を正面から認めている。渡辺が大袈裟な言い回しをする理由は、明らかでない。
 新たな問題点はここからである。渡辺は、初めて、松文館事件以外の漫画を扱った前例に言及する。
 実際これまでも、刑法一七五条のわいせつ図画販売容疑で一九七八年に『マンガエロジェニカ』(海潮社)が。一九七九年に『別冊ユートピア・唇の誘惑』(笠倉出版社)が摘発され、いずれも罰金刑が確定した【注8】。一九九一年には、マンガ同人誌を販売していた書店従業員らがわいせつ図画販売目的所持容疑で逮捕され、その後、発行元、作者、印刷会社など七四人も検挙・送検された【注9】。すなわち、刑法一七五条のマンガ本への適用は、約四〇年前から既に実施されてきたのである。(206頁)

216頁注8 長岡義幸[二〇一〇]『マンガはなぜ規制されるのか』平凡社、一四一頁。
216頁注9 当事者は争わず、処分保留で不起訴、あるいは罰金刑で終わっている(長岡[二〇一〇]六一頁)。
 松文館事件を「マンガがわいせつ図画に該当すると認定された初のケース」(188頁)とした記述は、間違っていたのだろうか。渡辺自身がその記述を上書きしたのなら間違いである。そうでないなら、矛盾する。それだけではない。これらの事件に関する事情の出典となるのは、私人の著書である。しかも、注8の文献の該当頁(上掲長岡141頁)には、「いずれも罰金刑が確定した」ことを示す記述が見られない。逮捕・摘発の語があるだけである。続きの頁にも、一方の裁判について「経営者が罰金刑を受け入れたため、終結することになる。」(上掲長岡142頁)とだけしか書かれていない。もう一方の結末は、明らかでない。注9にある頁には、不起訴または罰金との二件の結末がまとめて書かれてはいる。だが、渡辺が示す74人という人数は、そこには書かれていない。それが書かれているのは、渡辺が示していない60頁である。また、このような内容が書かれていない以上、注8は、参照先の正当性を疑わないとしても不十分である。もちろん、そもそも、裁判の結果を詳細を具体的に述べていない私人の著作のみを出典として語ること自体が失当である。そのようにせざるを得ないならば、それなりの書きようがある。だが、渡辺は、断定的な表現をしている。
 なお、関係雑誌名で朝日と毎日のDBを見たところ、判決を報じる記事はなかった。せいぜい、雑誌名の一方を出す記事が朝日に3件あったのみである。WestLawにもそれっぽい判決は収録されていなかった。この程度に情報が少ない事件について、渡辺はなぜ結末を知っているのだろう。

 その後渡辺は、松文館事件地裁判決(第二2(2)(ウ)cの一部)を引用し、捜査機関に「マンガ本自体を摘発対象から外す意図はない」と述べる(206頁)。引用するのだが、どの判決のどの部分かを特定しないばかりか、そこに付された注は判決を示さず、その後の摘発についてのみ語る。出典を示していないのである。これに加えて、最終段落では、唐突に同事件の最高裁判決に言及する。地裁判決も明示的に言及する、渡辺語に曰う子ども・日本語で言う青少年の保護が刑法175条の趣旨に含まれることを示すためである。なぜ渡辺がここでのみ唐突に最高裁判決を引き合いに出すのかは、不明である。
 そして渡辺は最後に、刑法175条が「捜査機関による積極運用で、創作子どもポルノ規制にも適用が可能と考えられる」(207頁)という、一見もっともらしく実は無内容な主張を垂れ流す。

(2) 新規立法
 5頁弱のこの項では、新規立法とその方法論が提言される。その参考はUSAの創作規制である。
 渡辺は、こうすればよいという話だけをする。即ち、刑法という基本的・一般的な法律の一部を特に細かく改めることについて等は考えていないようである。

節全体
 ここでは、175条による規制の拡張と強化が訴えられた。もしそれで済むなら、それっぽい漫画等の規制はかなりなんとかなる。ところが渡辺先生は、この後で、屋上に屋を架すように児ポ法による規制もしろと仰せである。なぜそうせねばならないのか、言い換えれば二つの規制にはどんな関係があるのか、きっちり読ませていただかねばなるまい。

4 児童ポルノ禁止法における創作子どもポルノ規制
 渡辺は、4頁強のこの節で、「法令が裁判所においてどのように解釈されているかを、判例に基づいて分析したことにより導き出された」(212頁)二つの案を示す。なるほど、一つの判例から有利な部分を抜き出すことが、分析だということになるようである。

(1) 運用面での改善
 項の見出しに続き、すぐまるつき数字の小見出しが書かれる。
 「@構成要件の見直し」では、最初に、「本書が明らかにしたように」(212頁)判例が児ポ法の保護法益に児童一般の保護を含めているという、渡辺が認識した前提が書かれる。その種の前提諸々から、次のようなお話が飛び出してくるに至る。
 こうした国際規範鑑みれば、わが国の児童ポルノ禁止法が創作子どもポルノをも規制対象とすることは、「実在する児童の権利保護」という保護法益と合致すると共に、表現の自由の過度に広範な規制にもつながらないと考えられる。従って、犯罪の構成要件として同法が二条一項で定める「児童」について、「実在しない児童」に対象を拡大して運用することも、不可能ではないといえよう。
〔太字化は引用者による〕
 その内容は、かなり斬新な提案である。なお、上掲引用で太字とした箇所の奇妙な日本語は、以後適宜読み替えることとする。

児ポ法第二条(定義) 抜粋
@ この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。
B この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
 児ポ法2条3項が定義する児童ポルノだけを視野に入れてもなお、一見するだけでは素人に理解できない問題がある。実は、条文中の「相手方」とか「他人」の語も、実在の人物を予定した用語なのである。このことは、政府のサイトでこれらの語の検索結果となる諸法令における用法を確認すれば、誰にでも確かめることができる。渡辺説に沿う運用がなされる世界では、漫画に登場する児童に実在の人物が何かをできるということになる。渡辺の特殊能力ならば二次元と三次元の壁を壊すことができるとしても、そんなことができるのは渡辺だけであろう。渡辺のようなエスパーではないので、断言はしないけれど。
 そして同条1項が渡辺説に追い討ちをかける。架空の存在は年齢を持たないため、児童たり得ない。渡辺が主張するような処罰範囲の拡張は、このことから見ても不可能なのである。
 この主張からは、渡辺に法令用語の知識がないばかりでなく、前後の条項すら視界に入れていないことが確認される。

 この部分は、先行する記述とも矛盾する。渡辺は、4章2(2)で現行法における児童ポルノの定義に対する学説の批判を引き、「人権侵害を問題視する」(96頁)ものだと評価した。人権の観点を強調する渡辺の立場に即してこの話を言い換えれば、現行法の定義には問題があるとの認識を渡辺が示したということになる。それなのにここでは、現行法の定義を何ら批判せず、むしろこのままでやれると太鼓判を捺している。渡辺は、自ら示した人権の視点すら忘れている。

 ”A「科学的データ」から「人権へ」”では、約1頁半に渡って、渡辺が何度も繰り返した標題通りの主張が、国会の議事やカナダの方向性に言及しつつ縷々述べられる。
わが国も児童ポルノ禁止法の運用にあたり、科学的データ至上主義から脱却し、「人権保護の観点からのアプローチ」を最優先させる方向へと舵を切れば、創作子どもポルノは自ずと規制対象に入ることとなろう。(214頁)
 その最後が上掲引用部である。そこには、渡辺説が無条件かつ無制限に受容された未来への展望が書かれている。だが、人類が積み重ねてきた知は、これを肯定しない。
 立法でなく運用の話として、即ち現行法を改正せずに創作を規制することは、上述の通り、概ね不可能である。概ねとしたのは、立法時の議事等が、実在のモデルが存在する絵を取締る可能性に言及しているためである。もっとも、そのような例外的事象への取締が実際になされるとしても、創作一般への規制を肯定することにはならない。それ故、「運用にあたり」なんとかすることで創作一般が「規制対象に入る」と考えることはできない。
 「科学的データ至上主義」との表現も、渡辺説の難点を示す。この表現は、創作に関して、影響が立証されていないが故に規制がなされないことを攻撃する文脈で用いられている。これは不思議な主張である。渡辺自身が、「科学的データ」を引き合いに出して規制の正当性を裏付けるような表現をこの作文の序章1(2)でしているというのに。しかも、不都合なお話は存在しないことにし、あまつさえ、引用せず「研究成果」を捏造してまで正当化に用いているというのに。そしてこの不可解さを措いてもなお、疑義は挟まれ得る。そもそも、そこにあるのは「科学的データ至上主義」ではないからである。広範(渡辺語)な創作規制は、人権への不当な制限なるが故に回避されている。「科学的データ」は、可能な根拠に過ぎない。もっとも、この攻撃は、読者にとって有益ではある。渡辺が、「科学的」なるものを攻撃することで、自らの反科学的な立ち位置を明らかにしてくれるからである。
 「人権保護の観点からのアプローチ」もまた、不可能である。少なくとも、渡辺説を基盤とする限り、それは存在しないに等しい。渡辺は、人権について語っていないからである。保護すべきものが空集合でしかない以上、その「アプローチ」も空でしかない。そして、仮に何らかの人権を保護するために創作規制を求めるとしても、上述したような問題が存在し、少なくとも現行児ポ法によることはできない。渡辺がここで自白しているのは、その程度のことも理解できないという己の無能力である。

 そしてそもそも、渡辺が可能だとする解釈は、立法者が議会で明示した意思に反する。「客体となる児童については生存していることを要するというのが」「法の趣旨からの帰結」だからである(186回国会参議院法務委員会24号会議録2014年6月17日における階猛答弁[25])。渡辺の主張は、提案者側による議会での発言を無視せよという内容すら含んでいるのだ。これが通るようでは、議会制度そのものが成り立たない。

(2) 改正
 渡辺は、児ポ法の改正による対応をも訴える。これが主なのか、それとも予備的であるのかは、僅か1頁弱に収められた渡辺の弁からは判然としない。これは、おはなしを並べるだけで関係性を語らず気にせずの渡辺方式の故でもある。
 そこでの用語は、これまで同様に一般的な用法を踏まえていない。それ故、読解には困難が伴う。ただ、どうやら、独自説が法の趣旨に適うという渡辺の空想が第一段落から憶測される。第二段落では、「科学的データの有無にとらわれる必要はない」(215頁)と主張するのみで、具体的な改正の方向性はほとんど示されない。一点だけ判読可能なのは、児ポ法2条1項の定義を”「実在しない児童」も対象に含むよう改正するという選択肢もあり得る”(215頁)とする独自説である。4(1)に関連して触れた通り、これは不可能である。ただし、よほど特殊な独自説を前提とすればこの限りではない。

章全体
 この章では、そもそもずれたRQが再び持ち出され、それに回答したことにした上で、斬新な「アプローチ」に基づく「運用面での改善」と法改正が提案される。途中では、前章までの作文の焼き直しによる価値観の刷り込み的叙述が繰り返される。
 刑法と児ポ法の二箇所に関連規定を置くよう提案しつつ、両者の関係には一切触れず、この章が終わる。この一点のみを見ても、渡辺に二つの異なる立場を調整するという視点がないことが明らかである。なるほど、独自説を押し通すことしかできないわけである。
 そして、規制の対象の定義に関して、全体を通じた謎がある。渡辺は、はしがきで独自定義を示した。ところが、本章3(2)ではこれと異なる定義の話だけをし、同4(2)では現行法の定義への非実在児童の取り込みしか語っていない。三つの間の関係のみならず、独自説と改正提案の関係すらも、言及されていないのである。ならば、独自説は何だったのだろうか。
 簡潔に表現するならはしがきを言い替えただけとも言える程度の内容を、よくぞこれだけ引き伸ばしたものである。


 41頁もの本文に対し、11の注が存在する。
 2は、参照先を示すものではない。7は、条約名を英語で記したのみである。8・9は、出典の特定はあるものの、上述の通り内容が不適切である。11は、新聞記事2件を紙名と日付のみによって示しており、特定が不十分である。
 以上の通り、渡辺の注は、最後まで出鱈目であった。

あとがき

 4頁に渡るあとがきは、渡辺自身によりこの作文を賞賛するものとして書かれている。
 冒頭部で渡辺は、「そんな素朴な疑問が、本研究の出発点であった」(219頁)という表現で、大前提と結論の一致を改めて自白する。そして、そういうものが研究と呼ばれるという渡辺の認識も明らかとなる。渡辺の脳内の研究概念は、どうなっているのだろう。
 渡辺は「新たな知見」(220頁)の発見を誇る。それは、国内法の表現の自由への優先・国際規範の人権指向・現行法による規制の可能性という、渡辺にとって前提でしかないものである。日本語ではそれを発見とは言わない。空想とか妄想と言う。
 ここでは、指導担当者の名も羅列される。主査即ち指導教授は新保史生であり、この他に菅谷実加藤文俊・岡部正勝が関与したそうである(221頁)。菅谷と加藤は社会学者であり、法学の専門家ではない。素人に何を指導できるのかは、不明である。そして岡部は警察庁からの出向者である。

 ここで特に問題となるのは、主査たる新保と警察庁からの出向者岡部の立場である。
 新保は、作文全体を認容した立場である。著者と同罪と考えてもよいだろう。もっとも新保は、転職でもしない限りこれを通した責任を負い続ける。その残虐な運命には、同情される可能性もあるだろう。
 岡部がこの作文の指導に関与し学位を与えたということからは、警察がこの作文を容認したという意味合いを読み取ることが可能である。もしそうなら、警察が議会での改正児ポ法の発議者による答弁をないがしろにしたという図式が生じる。岡部にそのような意図があると考えることは、通例に沿えばあまり実際的でないだろう。しかし、そのような理解を許してしまったことについては、しかるべき問責がなされ得る。そのようなことのなきよう、官僚としての岡部には、渡辺説を採用しない現在の警察庁の立場への支持を示す機会が与えられてもよかろう。
 なお、菅谷と加藤は、法的事項について指導する能力をそもそも持たない。それ故、ここで主要な批判の対象とはならない。もっとも、それは無罪であることを意味しない。両名は、素人がしゃしゃり出て余計なことをしたよなあという感想を抱かれることに対し、反撃する権利を有さない。

参考文献

 巻末には、12頁を用いて180の参考文献が示されている。物件を確認すれば、本文の注にあった新聞記事が含まれていないことが明らかである。このため、羅列の対象が何らかの選択を経ていることが読み取られる。説明は一切なされていない。それ故、個々の文献と本文の関係性も、収録の対象を選択する基準も、明らかでない。
 そこには、憲法の教科書的なもの9点とその他の分野の同様のもの2点以上が含まれている。しかし、定評あるコメンタールは含まれていない。また、刑法に至っては教科書類すら含まれていない。このようなところのみを見ても、その不均衡が明白である。いずれにせよ、渡辺が基本的な事項を確認していないことは明白である。
 この種の論点を扱うならば基本的な文献となる児ポ法の解説書・記事も、含まれていない。第一人者として知られる奥村徹弁護士の著作は、1件しか登場しない。園田寿教授の著作も、3点しか現れない。法務省筋の解説も、見られない。このように必要な文献が欠けているということは、渡辺が独自に児ポ法の解釈をなしたことを隠していないという意味である。

索引

 この作文には、2頁に渡り、60語を採り上げた索引が付されている。特に説明が付されていないため、その選択基準は不明である。

考察

 以上の各部に関する諸問題を踏まえ、書籍全体について、改めて検討を加える。

基本的な主張

 渡辺は、人権の観点から、表現の自由を無視し、児童ポルノ的な創作を規制せよとする。そして、その手段として、刑法175条と児ポ法を用いよとする。この、全体を通じて一貫する主張そのものが、大過なく成り立つものではない。
 そこでいう人権とは何かが、説明されていない。それが何だかわからない状態では、人権の一つである表現の自由を踏み越えてよいとするための衡量は不可能である。実際に、渡辺もやっていない。児童ポルノ的な創作の定義は広く、限界は明らかでない。渡辺は、はしがきで曖昧な定義を掲げ、4章では現行法への批判に乗り、終章では部分的修正を提案する。その立場は、はっきりしない。刑法175条を用いた取締は、原理的には再検討の要すらない。だが渡辺は、長々と関係する話題を書き連ねる。そして児ポ法による取締は、同法の原理的転換を要する。それなのに、小手先の話が僅かになされるだけである。
 主張の断片だけを取り上げれば、一応のもっともらしい文字列が並んではいる。しかし、それを意味のあるものとして成立させるには、無理がある。ならば、渡辺には、なぜそのような主張をすることが可能なのか。前提が出鱈目だからである。

根源的破綻

 何らかの人権を擁護するために児童ポルノ的な創作を児ポ法で規制すべきであるとしてみよう。現行法にそれをはめ込むとき、渡辺説からは明白な矛盾が生ずる。
 渡辺説は、そこから生ずる被害の可能性を処罰の根拠とする。これは、現在の児童ポルノ規制の原理とは異なる考え方である。渡辺が213頁で述べるような現行法による取締を基礎付けることは、具体的な被害者の存在を前提とする現行法には不可能である。
 ならば何が可能か。単純に定義を改正し拡張して対応すれば、異なる原理による取締を一個の罰条に含めることとなる。同じ法律に何らかの新たな定めを付加するとしても、既存の定めとの性質の相違故に、技術的な困難が伴う。そしてこれらの方法論は、解釈上の困難の原因となる。のみならず、現存の児童ポルノ関連規定の一部あるいは全体を社会的法益に対する罪として解釈せざるを得ない事態に繋がる。それは、人権保護の後退に他ならない。そこに被害者が存在しないという構成の導入だからである。
 仮に既存の定めを渡辺説に合わせて再解釈するとしても、この後退は同様である。それが、被害者たる被写体を無視して悪影響の可能性だけを捉えるということだからである。同時に、それは定着した解釈の変更である。即ち、それは法的安定性への攻撃である。児ポ法の解釈が完全に安定したものであると考えることはできそうにない。しかし、処罰の対象が一定の範囲に納まり、何かが罰せられるかどうかについてある程度の予測可能性が成立してはいる。渡辺は、この状態を正面から否定する。このような手口もまた、「人権の観点」からは批判されるべきところであろう。それは渡辺説の背理である。
 しかも、人権擁護とはどういうことかについて、渡辺は踏み込まない。人権擁護の見地からは、伝統的わいせつ規制を敷衍した米国の反児ポ立法や日本の刑法175条の人権と無縁な構造は、むしろ批判の対象たり得る。どちらの視点も渡辺にはないようだが。あまつさえ、人権に資する法令各種とか、児ポ法に内在する諸問題も無視される。それなら、「人権」の看板はなんだということになる。
 それでも渡辺が「人権」を盾に独自の主張をなすのは、副次的な保護法益の強調を通じてである。なるほど、児ポ法は、児童一般の保護「も」目指している。しかし、このことは、特別なお話ではない。殺人罪を例としよう。同罪は、個人的法益たる生命を保護するために定められる。しかし同時に、その犯罪化は、殺人が起きない社会的環境とか国家にとっての秩序等への配慮を含んでいる。このような構造は、いずれの犯罪においても異ならない。その一部を殊更に強調し、主従を逆転させることで、渡辺の主張の根拠が成り立ったのである。
 また、副次的な保護法益を強調するならば、それに対する配慮が明瞭な場合についても言及せねばならない。実際的には、その典型である放火罪の構造と法定刑の相違に言及せねばならないこととなろう。勿論、渡辺は、それを怠っている。
 その程度のこともできないならば、「人権の観点から」被写体の被害を無視して悪影響だけを阻止すべきであるとでも、堂々と主張すればよい。だが、渡辺はそうしない。破綻した根拠から無理な主張をするばかりである。

方法論

 冷静に考えれば破綻が明らかになるようなずさんな根拠を示すための方法論は、一つではない。それらについて、確認しておこう。

事前選別
 渡辺は、結論に沿う言説や端的な攻撃が可能な対象を選別し、それらのみを挙げる。学説の多様性も判決群のぶれもそれ以外も、無視すれば済むことである。これなら、全世界が支持してくれる。

牽強付会
 自説に沿うものを利用するというだけではない。それが自説に適うと言い張ることも、渡辺流である。細かい話はしなくてもよい、とにかく言い張れば済む。仲間はもっと沢山いた。

捏造引用
 それでもまだ足りない。だから渡辺は、他人の説を捏造する。ほらみろこんなに私の主張を支持する「科学的データ」があるぞと、言い切るために。やればできる。

蛸壺構造
 お話相互の関係を気にしてはいけない。論理的な階層と無関係に話を並べる構造は、矛盾を気にせずにすむよいやり方である。もし論理的な構成で同じ話をすれば、矛盾が明らかとなってしまう。たとえ意味不明でも、それでいい。

 ええかげんしつこくなるので、いちいち実例を摘示することを控える。このようなやり口で、渡辺は前提=結論の正当性を示したことにしているのを、ここに確認する。

文献の不足

 渡辺は、限られた文献しか参照していない。この点について、特に言及しておく。
 まずは、この作文の中の比較を示す。

件数本文頁数頁当たり
41202.1
127112.5
215190.8
321171.2
430211.4
556183.1
6111363.1
11410.3
 左表は、注の件数に関するものである。本文の頁数は概数であり、頁当たり件数は四捨五入された小数第一位までのものである。注に無意味なものや不適切なものも含まれることは、既述の通りである。しかしここでは、それらについての指摘を重ねない。
 ここでは、2から4章の値の相対的な小ささに注目されたい。これらは、日本の現行法を扱う部分である。参考文献の項で別記した通り、渡辺には、十分な文献を検索し利用することができていない。用いた件数を見ても、終章以外の他の部分と比較すれば明らかに少ないのである。なお、渡辺は、終章では重ねて出典を示すことを省きがちであった。このことを考えれば、上掲3か章の相対的な少なさは、明白であるとしてもよいだろう。これで足りるとしたのなら判断力に問題がある。あるいは、渡辺にとって不都合なものへの言及を避けたと見ることもできる。これは、先行研究と真摯に向き合う姿勢(笑)ではない。
 このような相対比較からも、渡辺に現行法への理解がないことを推測できてしまう。もっとも、外国関係の箇所では、法令名等の原語を書いただけの注もある。水増しされた件数を基準に断定的に語るのは、危険である。
 上述のような傾向だけが証拠ではない。渡辺には、既に指摘したように異説を無視する等の手口が見られる。もしかすると見たかも知れないであろう文献を無視するという手段は、そのやり方を支えることができる。全体から窺われる渡辺の能力に鑑みれば、このような方法が用いられたと断ずることはできない。だが、そのようなやり口が悪用された可能性を否定することもできないのである。

博論との対照

 公開されている博論「要約」所収の目次には、項までの三段階しか見出しが書かれていない。それ故、比較対照はここまでとし、書籍の一部に存在するそれ以下については無視する。
 書籍はしがき・序章・1章と博論1・2章は、対応関係がはっきりしない。とはいえ、おおよそ似ているもの同士に過不足がある構成であろうことが推測される。とりわけ、博論2章は全体を「先行研究」と題し、その一節となった書籍1章相当の部分に対し、「性的有害情報と性的攻撃性の相関関係に関する調査」の節が加わっている。博論のこの章にも書籍1章4節とほぼ同名の「先行研究との関連でみた本研究の位置付け」の節が置かれている。ここから明らかなのは、書籍では「性的有害情報と性的攻撃性の相関関係」の話が省かれたことである。「科学的データ」を不要とする渡辺の立場からすれば、むしろ博論でそこに言及する意味が不明である。
 書籍2章は、博論3章の第2節に相当する。博論3章の第1節は過去の立法過程を扱い、第3節は「児童ポルノ禁止法の関連法」として二つの法律を扱う。また、これらの後に小括が置かれている。書籍では、過去の立法過程と関連法が省かれたことになる。
 書籍3章は、博論4章に対応する。博論には、わいせつ関連判例3つについて、書籍にない項が立っている。また、小括が存在する。
 書籍4章は、博論5章に相当する。博論に小括が存在すること以外は、両者に相違がない。
 書籍5章は、博論6章と並列されるべきものである。博論の冒頭には書籍にない「児童ポルノに関する国際条約をめぐる背景」の節が存在し、一部の題目が多少異なるものの、基本構造は同様と見られる。また、小括が存在する。
 書籍6章は博論7章と照応される。博論の各国の節の冒頭に青少年の定義の項が存在することと章に総括が置かれることを除いては、基本的な構造は同様である。ただし、各国それぞれに置かれて書籍で何かの「系譜」とされる項が、博論では「現状」とされている。
 書籍終章は、博論8章に対応する。博論第2節の三つの項が書籍ではいずれも節に格上げされているものの、その他の点では同様の構成である。このような処理が可能であること自体が、この作文の構造が論理的でないことを示す。

 全体を見ると、博論2ないし7章に小括が存在し、構成面の難点の一つが書籍化によって加わったことが明らかとなる。その他にも、明らかな欠落の一部は、博論においては充たされている。このような事情においては、書籍においてそれらが欠けているという難点については、指導教員の責に帰すことができない。他方で、基本的な構成が異ならないことも確認される。それ故、この作文の非論理的構造には、それを制止しなかった指導教員にも責任の一端を認めることができる。そもそもこの作文には、論文を名乗ろうとするならば治癒できない瑕疵が存在する。それらが容認されたという事実は、無視され得ない。
 博論にあって書籍にない部分は、それらが結論を導出するためには不要であるという判断がなされたということである。ならばなぜ、渡辺は博論にそれを書いたのだろう。謎はあまりに深い。部分相互の関係性からの推測が困難だからである。

総括

 独自の用語法や表現のような細部から、説明不足、恣意的かつ不足気味な出典の選択、さらには全体構造に至るまで、出鱈目は枚挙に暇がない。あまつさえ渡辺は、捏造までやってのけた。この作文に、拾い上げるべき価値はないと断言してよいだろう。
 かつて、裁判所は、政府の都合に沿う憲法解釈を打ち出すために「公共の福祉」を宝刀とした。その撫で斬りぶりが、人権擁護の立場から批判された時代があった。今、渡辺は、「人権」と名付けた刀での撫で斬りを政府に求める。その倒錯ぶりは、正義を背負って提言(笑)を垂れ流す渡辺には理解できないのかも知れない。多少とも学説史を知っているならば、そのような主張をするためには応分の準備が必要だと理解できるというのに。

 そんな作文は、似たようなことを「考える」者こそ出鱈目さを批判すべき対象である。結論に合わせた単発の場面の羅列と思い付きだけがその内容だからである。それは論文を名乗ってはいるものの、報道を自称するワイドショーのようなものである。


公開質問

 これは、渡辺の指導を担当した新保史生・菅谷実・加藤文俊・岡部正勝の諸先生へ、特に指導教員たる新保先生へのお尋ねである。以上の諸点への指摘を踏まえ、お尋ねを差し上げる。

 不備だらけの作文を出す者に博士号を売ったのはなぜか。
 なぜ明白に不当である博士号の授与を撤回しないのか。
 不適切な処理の責任をどう取るのか。

 仮にも研究者を名乗るのならば、以上にどこかでお答えいただきたいものである。あと、気が向いたら、この三点をリサーチクエスチョンとして作文を作ってみたいものである。新保先生、審査はよろしくお願いします♥

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書誌・所蔵等
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 版元  カーリル
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先頭
目次
構造と内容
構造等
構成
内容
はしがき
序章
1章 子ども観
2章 立法
3章 判例
4章 学説
5章 条約
6章 外国
【ここまで】
終章
あとがき
参考文献
索引
考察
頁外の関連資料
細目次
国会会議録
松文館地裁
序章の注
リサーチクエスチョン
・国際条約及び諸外国は、どのような枠組みで児童ポルノを規制しているのか
・日本と国際条約及び諸外国の制度で、児童ポルノ規制について異なる視点は何か
・創作子どもポルノは、日本の現行法の枠組みで規制できるか
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