渡辺真由子 ”「創作子どもポルノ」と子どもの人権 ”の責任


 以下では、標題書(勁草書房2018年)とその原形たる自称博士論文に関する第三者が書いたものを含む文書を通じ、その顛末に責任を負うのが誰かについて検討する。
 以下を見て気になることがあるならば、入口を参照し、あるいは詳細な記述のある頁を直接確認されたい。

頁内目次 諸文書 論文審査の要旨及び担当者 博士学位を取消すにあたって 慶大による学位調査について 検討

諸文書

論文審査の要旨及び担当者

 3頁から成るこの文書は、渡辺への学位の授与について説明する内容であった。かつて公開されていたこの文書は、審査した側から渡辺の自称博士論文を扱ったものである。慶應義塾のサイトからは抹消されたものの、第三者が保存した内容が公開されている例が見られる。それらを適法な引用と評価できるかどうかに疑義なしとできないため、ここでは関係する事項を明示しない。

 冒頭部最初の行には、報告番号欄と氏名欄がある。前者は未記入である。次の枠に、論文審査担当者四名の肩書等が書かれる。学力確認担当者の項は空欄である。

 その本文は、項目分けなしに書かれている。
 最初の段落は、渡辺の作文が8章から構成されるとする。
 次の段落は、「本研究」を簡潔に紹介し、「先駆的な成果となることを目指したものである」とする。
 その次の段落は、以下で各章を扱うことを1行で触れる。
 その後には、各章について、要約が書かれる。その末尾は3頁の上部である。このうち、7章に関する部分では「児童ポルノに関する法令と判例を精査した」(3頁)と、8章については「児童ポルノ規制の新たな展開へ向け、」「実現のための具体的な道筋を示した」(3頁)との評価が書かれる。

 次いで、「本研究の意義」が7行に渡って書かれる。
 本研究の意義は、創作子どもポルノの法規制と人権をめぐる従来の研究が、性的有害情報と人権侵害との関連性についての科学的データの紹介や、児童ポルノ禁止法の立法過程における子どもと人権に関する議論の一般的な分析にとどまってきた中、児童ポルノ規制の枠組みや視点について日本と国際規範との差異を明らかにし、子どもの性に関する人権保護へ向け、日本が国際規範との整合性を確保する上で必要な方向性を提示したことにある。
 そこには、上掲の通り、一定の新規の業績が存在したかのような美辞麗句が書かれている。

 さらに、「本研究が明らかにした新たな知見」三つが13行に渡って縷々述べられる。第一点は「表現の自由」への偏りの指摘であり、第二点は条約と外国法における「概念」の共有の指摘である。そして第三点は、日本の現行法における「一定の条件下で、創作子どもポルノを規制出来る可能性があることを示している点」だそうである。

 加えて、「本研究の限界」が9行に渡って言及される。指摘されるのは、実現性の薄さと調査対象の英語圏への偏りである。

 そして最後の2行が、渡辺の作文への評価を下す。
 以上の評価から、本学位審査委員会は、渡辺真由子君が博士(政策・メディア)の学位を授与する資格があるものと認める。

博士学位を取消すにあたって

 2019年3月20日付のこの文書は、大学院政策・メディア研究科委員長村井純の名義による1頁のpdfファイルである。
 そこでは、学位取消の理由が、「先行研究の成果に関する適切な表示を欠く流用」が「著者が基本的な注意義務を著しく怠ったことにより、学位授与の審査に際して当該著者の学術的な貢献および資質に係る重大な誤認を惹起した」とされる。すなわち、渡辺の過失による「流用」が審査を誤らせたという構成である。
 「適切な表示」および「流用」の文言は、慶應義塾の研究活動における不正行為に関する調査ガイドライン2(1)ウ(1頁)に沿うものであると推測される。

慶大による学位調査について

 渡辺は、自身のブログで、「慶大による学位調査について 」と題した文を示した。

 渡辺は、慶大が「一部に適切な表示を欠いていたとして、博士の学位を取り消すと発表した。」とする。「流用」の語を消しているのは、不都合なものはなかったことにするいつもの渡辺方式に過ぎないので、特に注意を向けるべきものでもない。また、この部分は後にさりげなく修正されている。
 渡辺は、「本件をめぐり、ご迷惑をおかけした著作権者様をはじめ関係各位の皆様には、この場を借りて改めてお詫び申し上げます。」とも書く。動詞めぐるの乱用が、渡辺的である。語彙が少ないのだろう。

 そして、大学にも詫びつつ、「それとは別の問題として、」「不服申し立てによる再調査を求める予定である。」とし、三つの理由を示す。

 その第一は、「本件は故意によるものではない。」というものである。これに関連し、書籍と異なり「注に出典を明記」したこととか、剽窃元が「ネット上に公開されているため、不適切に引用すればすぐに暴露することは自明である。」等と言い募る。

 故意の有無は、争点ではない。慶大は過失によるとの認定をしているからである。この違いを理解できない渡辺が、刑事法を扱う論文(笑)で博士を得たのはどういうことなのだろうか。また、ばれるとわかりきっているから故意でやるはずがないという趣旨の主張は、意味不明である。
 また、剽窃が発生した原因についても、意味不明な供述がなされている。書籍では「編集過程における齟齬が発生した」ためでありながら、自称博論ではそうではないというのである。両者の表現はほとんど変わらないので、このような言い分は成り立たない。少なくともどちらかは嘘である。
 しかも渡辺は、「引用部分について、注に出典を明記している。」との独自説を唱える。少なくとも正当な慣行とされるような引用の定義に沿う限り、渡辺の剽窃は、そもそも引用とされ得ない。したがって、仮に出典の明記が十分であったとしても、それが罪責を打ち消すことはない。あまつさえ渡辺は、すぐバレることはやらないと言い切り、己の賢明ぶりを以ってその振る舞いを正当化する根拠にしようとする。実際に事が露見するには数ヶ月を要したことも、誰かが発見しなければ見過ごされていたことも、知らないらしい。無知の力を、我々は思い知らされる。
 そもそも、「危ない橋をわざわざ渡るつもりはない」のにあれだけの剽窃をやってのけたのならば、それもまたとんでもないお話である。これは、渡辺の主観におけるやってもよいことだとの認識に基づいて剽窃が重ねられたという意味である。そのような者に博士号を売ることができるかどうかは、容易に想像がつこう。

 第二点は、「大学側の調査委員会のあり方について」である。調査の経緯には、文部・慶大の「研究上の問題を調査する」ためのガイドラインに「準拠していない点が複数ある」のだそうだ。慶大GLが定める調査対象への通知が「立ち上げから1ヵ月半以上が経過してから唐突に」なされたことと、文部GLが定める”「関係者の秘密保持を徹底する」こと”に反して「当方に調査委員会の立ち上げすら通知していない段階で、マスコミに調査に関する情報を漏らした」こと、調査委員会の構成がGLの基準に反すること、そして委員について調査対象者に示してその異議を受け付けるべきにもかかわらずその説明がなかったことが、その具体的内容である。
 三つめは、救済措置の不存在である。渡辺は、「大学側は当方に対し6年にわたり研究指導を行い、正式な審査過程を経て学位を授与した。この事実を大学側が重く受け止めるのであれば、博士論文の修正や再指導等、何らかの救済措置を講じて然るべきと考える。」とする。

 これらの手続事項に関する異議も、基本的に失当である。
 渡辺がリンクする文部慶大のGLは、研究不正一般に関するものである。博士論文における不正は、大学による審査と密接に関係している。それ故、その他の場面とは異なる性質を有する。そこでは、立場の異なる院生と教員がいずれも調査対象となり、しかし両者それぞれに対してなされるべき調査は異なる。また、学校ないし研究科の運営・行政の問題も、調査の対象に含まれ得る。その他諸々を含む事情は、単発の論文自体における不正を前提とした一般的なルールのみを以って事に当たることを許さない。例えば慶大GL6(1)(4-5頁)は、不正行為をなした者に「著者」の語を充てている。前提が、論文における不正だからである。それらの事情故、GLの明文に反する調査を直ちに不当であるとすることはできない。
 仮にGLに沿って考えても、やはり渡辺の主張は概ね失当である。慶大のGLは、確かに、4(5)で被調査者への委員会委員の氏名等の開示と異議の受付について定める。しかし、通知の時期について明示的に定めているわけではない。調査委員に対象の教え子が含まれていたことも渡辺は問題視するところ、その程度の関係ではGL4(4)の「直接の利害関係を有しない者」に直ちに反するとは言えない。
 もっとも、渡辺の主張のすべてが不当だというわけでもない。調査委員会の構成が「大学側の教員3名及び大学側が手配した弁護士1名であった」との渡辺の言が事実に沿うならば、その構成は「義塾に属さない外部有識者を半数以上含めなくてはならない」とする慶大GL4(4)に反する。また、調査の開始がマスメディアに報じられたことは、GL7(5頁)の守秘義務に関する疑いを容れる。
 とはいえ、以上の諸事情からは、慶應義塾が可能な限り一般の調査ガイドラインを尊重し、これを準用したであろうことが読み取られる。

 そして最後に渡辺は、「大学側には適正な再調査を求めるものである。 」とする。不要な「ものである」を加えて字数を増す手口は、渡辺ならではのものである。
 この要求が盗人猛々しいものに過ぎないことは、以上から既に明らかである。のみならず、渡辺自身の異議には、剽窃等とする評価の不適切性への指摘が全く含まれていないのである。基本的に罪状を認めた状態で、殊更に手続の瑕疵を追及したところで、むしろ従前以上に厳しい評価が得られる可能性すら考えられよう。そもそも、渡辺に「6年にわたり研究指導を行い、正式な審査過程を経て学位を授与した。この事実を大学側が重く受け止めるのであれば」、渡辺が言うような再調査ではなく、渡辺を排出した責任を取って廃業すべきところではないか。

 手続の一部には、不当性があったのかも知れない。しかし、それが手続全体の不当性に影響するものであるか否かは、これと別論である。渡辺は、お得意の換骨奪胎で、自身の正当性を主張したつもりなのだろう。確かに、手続の不当性が結果の不当性に繋がることを、全面的には否定できない。一方で、手続の不当性が結果の妥当性に影響を与えることを、全面的に肯定もできないのである。

検討

 「論文審査の要旨及び担当者」の日本語がおかしいのは渡辺譲りか、それとも師匠からしておかしかったのか。渡辺の用語法にも沿うこの文書からは、渡辺の作文のみを見ても明らかでない、後者の可能性を推認できる。その内容は、曲りなりに渡辺の作文をある程度仔細に反映している。そして限界の指摘は、この作文の明白な不足に対する一応の的確なものではある。
 これらの事情は、審査担当者が作文を読んでいないという言い訳を許さない。むしろ、内容を熟知した上で、その主張を容認しつつ博士号を売るという意思決定が読み取られる。
 そして、いずれにせよ、その全体がなすのは、渡辺作文への肯定的評価である。審査担当者は、論理性のない散文を博士論文として認めたことになる。のみならず、専門家なら追及すべき難点を無視したか、さもなくば無能であるが故にそれを発見できなかったということである。その無視または無能の結果が、後に剥奪される学位の授与であった。この事実を事後に見れば、少なくとも注意義務への重大な違背を理由に関係教員らが処分されるべきであることを示すものと理解できる。

 その後、「博士学位を取消すにあたって」は、過失による流用が審査を欺いたことを学位剥奪の理由とした。
 これは、「論文審査の要旨及び担当者」の内容に誤謬を認めないという意味である。この点で、「あたって」の立場は欺瞞的である。無内容な作文を博士論文として認める立場を譲っていないからである。しかし、このような方法に拠ることにも合理性はある。審査担当者らの罪責を認めるとなると、類似事案が幾つか明るみに出たとき、渡辺を許すような組織であった慶應義塾から教員が枯渇することだろう。そのような事態を未然に防ぎ、組織を防衛するためには、とかげの尻尾を切る以外に途はない。副査の一人が出向元に帰っているため、処分の均衡という公正さも、教員側の責任を認めないための美しき根拠となる。
 もっとも、部外者にとって、その合理性を受け容れる理由は存在しない。それ故、慶應義塾の責任逃れは、批判を免れない。

 失当な主張を重ねるばかりの「慶大による学位調査について」は、渡辺に博士号を買う資格がなかったことを如実に示す。指導担当者らが指導の過程でこれを理解できなかったことは、それらの重い過失または原始的無能力を示す。その振る舞いが学校法人に対して背任的であったことも、渡辺の剽窃作文とこれに関する主張から十分に推認される。

 以上の通り、指導担当者らは渡辺の事案について有責であると結論付けられる。処分が公表されていないのみであるかも知れない。しかし、慶應義塾が外面を守りたいというのならば、十分な処分を実施し公表することが求められる。

↑↑↑文献  ↑↑渡辺  ↑この件頭

中の人をフォロー  
2style.net