渡辺真由子 ”「創作子どもポルノ」と子どもの人権 ”(勁草書房2018年)への提言


 別頁以下にまとめた通り、標題の書籍(勁草書房2018年)が破滅的出鱈目さで編まれていたことを踏まえ、少しでもその悪影響による人権侵害を予防できるよう、二つの提言(笑)をまとめてみた。
 なお、以下の内容は、同書の回収を版元が始める前に書かれた。

頁内目次 気をつけよう 論文にするならせめてこうしよう


気をつけよう

 渡辺は講演商売人でもある。なので、なんかの拍子に万人の前に現れかねない。そんな前提で、渡辺への対策を人的な意味で考えておくことを提言(笑)する。

聞かない

 この出鱈目ぶりである。渡辺の話を聞くのは時間の無駄だと推定してもよいだろう。だから、初めから、見ない・聞かないようにすればよい。

呼ばない

 肩書きや前歴を見ると、それっぽい。そんな渡辺の中身は、あの作文が示す通りカラである。渡辺がちょうどよさそうに見えたとき、思いとどまろう。

呼ばせない

 誰かが騙されて、渡辺を呼んで話を聞かせようとするかも知れない。そういう方には適切な助言をしよう。都合が悪い話を無視する渡辺は、どんな仕事を委ねるにしても不適格である、とか。

特に役所には突っ込もう

 それでも間違って渡辺を呼ぶ者が、特に自治体だったらどうだろう。民間なら自由かもしれない。でも、税金を使ってやるべきことかどうか、談判するべきだろう。現行法を全く知らない方に、法律と関わる話をさせてよいのか、とか。
 事後であっても、監査請求等、できることはあるはずだ。

広めよう

 停められないタイミングで渡辺のドサ回り企画を知ったならば、せめて広く知らしめよう。事後になるかも知れないが、批判が集まることだろう。その影響はゼロとも限らない。そして、次の被害者を減らす力にはなる。もし聞かされた後なら、その素晴らしいご内容を広めるのも有効である。なるべく具体的に間違いを指摘すればよい。


論文にするならせめてこうしよう

 だいたい似たような話を論文として成立させるために、この作文を改変するならどうすればよいだろうか。これについて、提言(笑)する。

構成

 基本的な構造からして、渡辺作文は論文になっていない。まずはここを改めねばならない。そのために、大きい改変が必要である。

空想から仮説へ

 「実在しない子どもを性的に描くマンガやアニメ、ゲーム等の表現物」(冒頭独立付番1頁)への規制を指向して考えることは、不可能ではない。しかし、とにかく規制すべきなのだという信仰を告白しても、論文にはならない。他方で、その信仰が本物ならば、異説を叩き落して生き残れることを見せ付けねばならない。科学的であれという立場と信仰を顕示するという欲望のいずれをも満たす方法がある。それは、この基本的な立場をあくまで仮説として扱うことである。異説をぶつけ、比較し、検証すればよい。

全体構造の可視化

 渡辺作文では、独立した話がただ並べられている。このような随筆集的構造のものを、論文とは呼ばない。どこからどこまでが何の話かをはっきりさせた上で、まとまり相互の関係を明示する必要がある。これによって、読者は論文の構造を知ることができる。

前提の提示と説明

 渡辺は、大前提となる「人権」について、説明しない。そのくせ、人権の一つである表現の自由を、「人権」と対立させる。表現の自由は、自分を一部とする見えない敵と戦うことを強いられる。つまり、最初から勝ち目がない構造が作られているわけである。読者にとっても、何を守るのかがはっきりしない。これではいけない。ここでいう人権とはどういうものか、はっきりさせねばならない。

不要な部分の削除

 渡辺作文には、無用な記述が見られる。序章で事例・関連研究を扱う部分と、「子ども観」等に触れる1章である。いずれも、話の本筋にほとんど関わらない。規定字数に届けるために過去の作文からコピペで突っ込むくらいしか入れる理由のない部分は、不要である。不要なものは、削ればよい。仮にそれらの内容の一部を残すとしても、著者の問題意識の一端として示せば足りる。

無用な分散の排除

 渡辺作文の2から5章は、現行法の話を扱うくせに、なぜか切り分けられている。このようなやり方は、同じことを何度も語るという不合理を産む。同じ話を何度も見せる洗脳的なやり方としては優秀かも知れないが、主張に自信をお持ちの渡辺先生がそんなことを意図的にやるはずがない。だから、このやり方を墨守する必要はない。代案は、簡単なもので済む。それらを、現行法はどうなっているのか的な一つの章にまとめればよい。分けるとしても、日本法と外国法と条約を分ける程度で足りる。つまり、2から6章は、再構成できる。

要点と構造の摘示

 博論にあった小括は、書籍化に際して消された。だが、この章で何をやったかをまとめ直す部分は、必要である。論理的な考え方ができない渡辺には、不要に見えたのだろう。それは間違っている。何の話をしたのかと次にどう繋がるかをはっきりさせることは、全体構造を明らかにすることに繋がる。それを、避けてはならない。渡辺はやらなかったけど。むしろ、できなかったけど。渡辺の小括は、確認できた限り、単なる雑な要約であった。それ故、前後の章との関連性は表現されていなかった。
 この難点は、全体についても同様である。あとがきの浅い記述では不十分である。

内容

 全体構造から切り離された各部ごとの内容の過不足も、無視できない。この点でも、渡辺作文は過不足と不均衡にまみれている。

原則:十分な情報の確保

 渡辺作文は、自説と噛み合う話だけをするために、定型文で叩けない反対説を無視した。また、書籍化時に、過去の立法事情への言及を消してのけた。何の話なのかすらはっきりしない「子ども観」の章を残したのに、現行法の解釈にとって意味のある話をわざわざ消したのである。そして、都合が悪い話をなるべく無視している。作文なら、自己満足を優先してもよい。この意味で、渡辺のやり方は批判されるべきものではない。それは作文でしかないのだから。しかし、論文にするというならば、ありえないやり方である。その話をそこでするかどうかは、その件の話をする前提としての要否のみによって決めるべきことである。

部分:人権の話をしよう

 主張の根幹である「人権」について、渡辺は語らない。看板に肉屋と描いてあっても、なんだか肉っぽい何かを置いているらしいとしか伝わらない状態である。これでは何も伝わらない。上記の通り、説明が必要である。そして、それだけでは何かを人権の観点から論じたということにはならない。人権に資する法令の意義とか過不足、あるいは児ポ法に内在する人権関連の諸問題といったものが言及されねばならない。また、伝統的わいせつ規制を敷衍した米国の反児ポ立法や日本の刑法175条が維持する人権と無縁な構造についても、立場によっては批判を含む言及がなされてしかるべきである。渡辺作文に、それらは全くない。もちろん、これは必ずしも批判されるべきものではない。法を学んだ者なら、法が不可能を求めないことを知っているからである。それは、渡辺には、到底できないことである。

部分:わいせつ規制史の明示

 刑法175条のわいせつ規制には、歴史的蓄積がある。渡辺は優秀なので、断片をつまみ食いするかのように継ぎ接ぎしてのける。だが、これでは読者には伝わらない。とりわけ、架空の表現がどう規制されてきたかは、当該作文からでは理解のしようがない。その変化については、175条を大きく扱うならばまとまった記述が必要である。
 もっとも、刑法175条を大きく扱わないならば、この限りでない。そのような途を選ぶことも可能である。

部分:児ポ法の独自解釈からの脱却

 児童ポルノへの規制は、いまなお十分に安定した論理と実務が確立したとはいえないような状態である。同時に、しかるべき権限を背後にした言葉の意味も無視できない。それ故、まとまった言及をするには、少なくとも制定と改正に関する議事やしかるべき筋による説明を十分に参照せねればならない。基本的な文献である解説書二点も、無視できない。これに加え、学者や実務家の深めの突込みを可能な限り参照しなければ、単なる独自の空想しか書けないことになる。ところが渡辺は、法律雑誌の特集記事にすら目を向けていない。おそらく、それらの雑誌の存在を知らないのだろう。

部分:有害図書規制の意義

 渡辺は、なぜか国内法についてのみ有害図書規制に言及している。その意味は不明である。ただ、児童ポルノ的なものの禁止に関する限り、この種の規制への言及は不要であるのみならず余事である。触れるにしても、現行法の章の前振り的な部分で周辺として言及するのがせいぜいであろう。

部分:均衡ある外国法研究へ

 渡辺が扱う外国法は、英語・英米法圏のものだけである。世界の制度の多様性は、反映されていない。渡辺は、自説に沿う部分が明らかに見られることと、おそらく英語くらいしか読めないという事情から、そうせざるを得なかった。そんな解釈も可能である。だが、その記述はことごとく剽窃である。それは渡辺の都合であり、論理にとってはどうでもよい。少なくとも、欧州一カ国に関する記述を加える必要がある。そして、可能であれば、より多くの地域・文化圏のものを参照すべきである。そのような作業は、他人が書いたものをパクることしかできない渡辺には、不可能であろう。

方法:全体像を確認する

 内外の法令を扱うにあたり、渡辺は自説の展開に必要な部分だけを採り上げる。アジビラでも書くのなら、それでよい。しかし、論文だと言い張りたいなら、ありえない。法の一部を採り上げるなら、法全体の趣旨を参照すべきである。渡辺はそれをしなかったが故に、児童売春者として絵が登場できるような間の抜けた独自説を唱えてのけた。

原則

 以上の諸点に含まれない、踏まえるべき原則的立場にも、様々な問題が残されている。

印象操作をやめる

 渡辺作文には、「多い」「乏しい」というような量的評価を典型にした、基準の明らかでない情緒的表現が頻出する。多い少ないと言うならば、基準と一体でなくてはなるまい。この種の表現には、著者の意図に沿わないものへの悪印象を振りまく意味しかない。

用語は常識的に

 渡辺は、例えば日弁連を弁護士会と呼んでみたりする(2章3等)。このような独自の略語は、話を通じにくくする。あるいは、「国際条約」のような無意味に長い語が頻用されたりする。条約は国家間の取決めを指す語であり、インターナショナルに国際と付けて付加する必要はなく不要である。その種の意味不明な振る舞いは有害無益であり、改めねばならない。私は馬鹿ですと宣言したいということでもない限り。

出典を示す

 渡辺は、出典を明示しない注を平然とつける。これでは意味がない。出典は、読者が確認できるように、原則としては少なくとも業界内の基準に沿って関係する事実を示すべきものである。渡辺的な独自の処理を説明もなしにすることは、許されない。

捏造しない

 渡辺は、引用っぽいものを捏造してのけた(序章1(2)等。あるいは序章の注参照。)。誤字脱字程度なら別段、渡辺のように堂々たる捏造をやってのけることは許されない。

剽窃しない

 渡辺は、平然と剽窃をやってのける(剽窃序章の注参照。)。こういうことをやってはいけない。折角まとめた長文が、絶版されて回収されてしまう。

まとめ

 以上に、せめてこれくらいはなんとかしないとどうにもならない諸点についてまとめてみた。これらは、優秀な高校生なら少しの指導で理解できる程度のお話である。このように手順を踏めば、渡辺説にとって重要であろう表現はほぼ消滅する。そして、渡辺が作文の終章で示したような提言(笑)は、成立し得まい。即ち、あの作文を論文化しようとすれば、原型をとどめることは不可能である。でもそれは仕方がない。渡辺の作文が、そういうものなのだから。

別案

 おおよその結論を維持するならば、異なる考え方が必要になる。
 渡辺説は、現行法に照らせば不可能である。それ故、何らかの異なる手段を提示すべきこととなる。よって、それを正当化するための前提が求められることになる。
 端的に言えば、創作を規制すべきとする立法事実をどう示すかが問題である。それ故、上述した提言(笑)の路線をある程度維持しつつ、科学的データ(笑)に基づく論理を示さなければならない。さもなくば、それは感想文と謗られることとなる。

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