渡辺真由子 ”「創作子どもポルノ」と子どもの人権 ”と博士論文の対照


 以下では、標題書(勁草書房2018年)【以下必要に応じ「渡辺書籍」ないし「書籍」と略す。】と渡辺の博士論文【以下必要に応じ「渡辺D」ないし「D」と略す。】を対照し、幾つかの点について検証する。
 検証すべき点は、大別して三つである。その第一は、表現の相似ないし相違である。渡辺は、書籍につき「筆者の博士論文を基にしたものである(219頁)と明言している。実際にその通りなのかどうかは、原典にあたらずに断じることができない。第二点は、剽窃に関する相違である。もし、博士論文が剽窃なしに成り立っているならば、渡辺の学位を剥奪すべきであるとの説は成立しなくなる。それ故、この点についてどのような相違があるかを確認する必要が生じる。そして第三点は、一方にのみ存在する部分の検証である。検証の対照には、渡辺が「要約」の「9.」に示す章立てとのずれの有無も含まれる。この要約の限りでは、博士論文には書籍にない部分が含まれている。それらがどのように書かれ、どのような役割を果たしているのかは、博士号の価値を検討する前提となる。
 ここでは、この三点につき、例示の限りで検証をなす。これは、諸般の事情によりやむをえないためである。
 渡辺Dについては、便宜上書籍が先にあるものかの如く、これと比較した。剽窃元の書誌事項等は、剽窃一覧を通じて確認されたい。書籍に関するその余の諸点については、入口を参照するなどして確認されたい。

 引用について予めお断りしておく。強調は引用者によって加えられた。それらはいずれも、渡辺書籍の剽窃が原典を改めた箇所である。剽窃元本文の太字は、剽窃にあたって削除されまたは書き換えられた部分である。渡辺書籍の欄の赤字は、書き換えられもしくは挿入された部分である。これらの判定において、全角と半角の相違は書き換えとして扱っていない。数字に関する用字の変更と注番号の変化は、下線で示した。〔〕内は引用者による補充的注記である。注釈の表示はいずれも原典の形式と異なるが、対応する本文の文字のおおよその位置と番号を維持した。渡辺書籍の剽窃元を示す注には、背景色と枠線を付した。原典の斜体を無視した。用字はそれぞれの原典のままとした。ただし、読点として用いられるカンマは、読点に置換した。渡辺Dについては、渡辺書籍との相違点を強調し、注への強調をすべて省いた。渡辺書籍には、渡辺Dとの比較に関する強調をしていない。

共通

 全体に共通するであろう事項について、まとめて触れる。

微細な相違

 両者には、微細なずれが様々に作り出されている。
 渡辺書籍と渡辺Dは、章節項・注番号・注の書式が異なる。書籍では章ごとに、Dでは通しで注番号が振られていることも一因である。
 記号の扱いや有無も、両者で多少異なる。例えば、Dの102頁(5章冒頭部102頁)に見られるまとまった文字列を他と区別するためであろう括弧として用いられる不等号が、書籍では消えている(4章冒頭部101頁)。あるいは、書籍で”「何某事件」判決”と書かれるもの(4章冒頭部82頁)が、Dでは”「何某」事件判決”と書かれている(5章冒頭部102頁)。また、引用の前の段落末が、書籍では句点に、Dでは「:」になっている箇所が見られる(D107頁と書籍90頁・D108頁と書籍92頁)。なお、Dでも、他の箇所では句点が用いられている。
 数字の表記にも相違が見られる。渡辺書籍が漢数字を用いている箇所のうち条数や年号等は、渡辺Dではアラビア数字で書かれている。あるいは、「論点その1」(渡辺D5-1-4.109頁)と「論点@」(渡辺書籍4章2(2)94頁)や「論点その2」(渡辺D5-1-4.110頁)と「論点A」(渡辺書籍4章2(2)95頁)のような微妙な書き方の違いも含む例も見られる。
 改行の相違もある。例えば、「動きもみられる。すなわち、学説の間では」(D5-1-4.110頁・書籍4章2(2)95頁)の句点の後の改行は、Dになく書籍にのみ見られる。「データの有無を重視している。しかし前述のように、創作物と」(渡辺D5-1-4A110頁)は、「データの有無を重視している。」で改行され、「しかし前述のように、」が削除され「創作物と」から文が始まっている(渡辺書籍4章2(2)96頁)
 これら細部については、すべてを挙げることはせず、適宜例を示すにとどめる。

明瞭な相違

 両者には、明らかな違いも存在する。
 Dには、書籍に書かれていないことが目次のみから明らかないし推定可能な部分が含まれている。例えば、目次のみから存在が明らかな、3ないし7章(書籍2ないし6章に相当)の小括と末尾の謝辞がこれに該当する。より細かい項目を単位としても、書籍において省かれたことが窺われる部分も存在する。
 反対に、書籍にしか存在しない部分も、両者の目次から発見できる。はしがき・あとがきは、書籍にしか存在しない。ただし、その内容が別項に反映されている可能性がある。
 目次に書かれない違いも見られる。Dには、冒頭に日本語と英語で1頁ずつの要旨が書かれる。また、目次の後に事例リスト・資料リスト・図表リストと称するものが1頁ずつ加わっている。

D独自の内容

 D独自の内容と関連する事項について、まとめて触れる。
 1頁は、「論文要旨」と自称する、作文全体の要約である。末尾には、キーワードとして「児童ポルノ規制、創作物、人権、表現の自由、国際比較」が書かれる。論理性のない内容は本文・書籍と同様である。これを要旨として書いていて、渡辺は疑問を持たなかったのだろうかと問わざるを得ない。とりわけ、末尾4行はすさまじい。松文館事件判決が、児童ポルノ的創作を現行法で規制する根拠とされているのである。現行法の知識を多少とも有するなら、学部生程度でも、このような斬新な主張はできないことだろう。だが、渡辺にはできる。
 2頁は、英語で書かれた要旨である。
 3頁から6頁までは、目次である。ここに書かれるのは三段階めの階層までである。本文の他、「参考文献」と「謝辞」も書かれる。
 7頁は、目次にない「事例リスト」である。1章5頁から22頁までの7つの事例が挙がる。
 8頁は、「資料リスト」である。1章27頁から7章168頁までの16件が挙げられる。うち1件は日本の法律を挙げる無意味なものであり、2件は条約の一部、11件は外国法の一部である。確認できた限り、掲載されているのはいずれも和訳である。条約の正文を無視していることは、特徴的である。また、2件は民間団体の声明である。
 9頁は「図表リスト」である。8件が示され、うち2件は「感想」である。
 213頁の「謝辞」は、書籍「あとがき」の一部となる内容である。

まとめ

 要するに、両者は、相当程度似ているようである。ただし、全編について十分な対照を行っていないため、これは現在のところ有力な仮説に過ぎない。

書籍4章

構造

渡辺書籍渡辺D
名称名称
性表現規制に関する学説081性表現規制に関する学説102
1わいせつ表現規制に関する学説と分析0825-1「成人」への性表現規制102
(1)わいせつ表現規制に関する学説0825-1-1わいせつ表現規制に関する学説102
@わいせつ概念の要素083@わいせつ概念の要素103
Aわいせつ規制の根拠085Aわいせつ規制の根拠104
Bマンガ規制086B漫画規制104
(2)わいせつ表現規制に関する学説の分析0875-1-2わいせつ表現規制に関する学説の分析105
2児童ポルノ規制に関する学説と分析0895-1-3児童ポルノ規制に関する学説106
(1)児童ポルノ規制に関する学説089
@児童ポルノの定義089@児童ポルノの定義106
A創作物規制093A創作物規制109
(2)児童ポルノ規制に関する学説の分析0945-1-4児童ポルノ規制に関する学説の分析109
3性的有害表現規制に関する学説と分析0975-2「青少年」への性表現規制111
(1)性的有害表現規制に関する学説0975-2-1性的有害表現規制に関する学説111
@青少年保護を目的とした有害図書規制098@青少年保護を目的とした有害図書規制111
A規制手段の合憲性098A規制手段の合憲性112
1 過度の広汎性098(1)過度の広汎性112
2 明確性099(2)明確性112
3 事前抑制禁止の法理099(3)事前抑制禁止の法理112
(2)性的有害表現規制に関する学説の分析1015-2-2性的有害表現規制に関する学説の分析113
5-3小括114

 上表の通り、書籍4章は、これに相当するD5章に近い構造を有する。しかし、切り分けの一部が異なる。いずれにせよ、その話を扱うという前提から不可能ではない構造である。また、Dには書籍にない小括が存在する。

細部

 細部について、書籍とDの対照を、例示の限りで扱う。

渡辺書籍 4章冒頭部 81-82頁 渡辺D 5章冒頭部 102頁
 分析にあたっては、性表現規制の類型を@わいせつ表現、A児童ポルノ、B性的有害表現に大別して取り上げる。@についての学説の議論対象は、わいせつ表現に関する主要判例とされる一九五七年「チャタレー事件」判決、一九六九年「悪徳の栄え事件」判決、一九八〇年「四畳半襖の下張り事件」判決、二〇〇七年「松文館事件」判決とする。Aについての学説の議論対象は、二〇一四年「児童ポルノ禁止法」第二次改正とする。またBについての学説の議論対象は、いずれも性的有害表現に関する主要判例とされる一九八九年「岐阜県青少年保護育成条例事件」判決と、一九九九年「宮崎県における青少年の健全な育成に関する条例事件」判決とする。  分析にあたっては、性表現規制の類型を<@「成人」への性表現規制>と、<A「青少年」への性表現規制>との2つに分け、@については「わいせつ表現」と「児童ポルノ」を取り上げる。学説の議論対象は、いずれもわいせつ表現に関する主要判例とされる1957年「チャタレー夫人の恋人」事件判決、1969年「悪徳の栄え」事件判決、1980年「4畳半襖の下張り」事件判決、2007年「松文館」事件判決。及び2014年「児童ポルノ禁止法」第2次改正とする。
 類型Aについては、「性的有害表現」を取り上げる。学説の議論対象は、いずれも性的有害表現に関する主要判例とされる1989年「岐阜県青少年保護育成条例」事件判決と、1999年「宮崎県における青少年の健全な育成に関する条例」事件判決とする。
〔強調を省く。〕

 上掲の通り、書き方が微妙に異なる部分が存在する。しかし、大意に変化はない。「学説の議論対象」という、学説がそれを議論しているのかそれとも渡辺が学説について扱う対象とするのか明らかでないへたくそな日本語遣いも共通している。書籍4章に関する限り、明瞭な相違が見られるのはどうやらこの部分のみである。

渡辺書籍 4章1(2) 88-89頁 渡辺D 5-1-2. 106頁
目ぼしい学説として挙げられる園田[二〇〇四]は、「しょせんはマンガであり、刑罰で禁止しなければならないほどに、成人の性欲をいたずらに刺激・興奮するものとはいえない」と主張しており、創作物の人権侵害性に真摯に向き合う姿勢は見られないと受け止めざるを得ない。 目ぼしい学説として挙げられる園田(2004)は、「しょせんは漫画であり、刑罰で禁止しなければならないほどに、成人の性欲をいたずらに刺激・興奮するものとはいえない」と主張し、創作物の人権侵害性に真摯に向き合う姿勢は見られない。
〔強調を省く。〕

 語句の微妙な増減と用字の変化も、上掲の通り一部に見られる。ここでは、引用らしきものが頁を示さずに書かれていることが共通し、しかしまんがの用字が異なっている。引用であるならば、あり得ないことである。

加藤 W部9章2節(1) 223頁 渡辺書籍 4章1(1)@ 83頁 渡辺D 5-1-1.@ 103頁
 まず、わいせつ表現規制について包括的研究を発表した先駆者である奥平康弘は、次のようにいう【注6】。
 善良な性的道義観念に反することとは、「「〔加藤の原文のまま〕性的道義観念」というイデオロギーを内容とする。ある文書の内容――先述のようにわが法では、これが裁判されるのであり、定義はかかる性格をもつ裁判において、使用される――が、あるイデオロギーに反するかどうかによって、その社会的通用性の可否を決定されていいのだろうか。あるイデオロギーが、別のイデオロギーによって、裁判されていいのだろうか。もしそうなら、政治的文書が、支配的政治理論に反するが故に、その公表を禁止することは、なぜいけないのか。「性的道義観念」という名のイデオロギーだけは、特別に国家によって保護されなければならないのか。」。

231頁注6 奥平康弘『表現の自由U』(1984年)35頁。〔以下の補足説明約6行を省く。〕
〔この段落ここまでの約3行半を省く。〕わいせつ表現規制について包括的研究を発表した先駆者である【注5】奥平康弘は、次のように述べる【注6】。
 善良な性的道義観念に反することとは、『性的道義観念』というイデオロギーを内容とする。ある文書の内容――先述のようにわが法では、これが裁判されるのであり、定義はかかる性格をもつ裁判において、使用される――が、あるイデオロギーに反するかどうかによって、その社会的通用性の可否を決定されていいのだろうか。あるイデオロギーが、別のイデオロギーによって、裁判されていいのだろうか。

注5 加藤[二〇〇八]二二三頁。
注6 奥平[一九八四]三五頁。
〔この段落ここまでの4行弱を省く。〕わいせつ表現規制について包括的研究を発表した先駆者である【注163】奥平康弘は、次のように述べる【注164】
 善良な性的道義観念に反することとは、『性的道義観念』というイデオロギーを内容とする。ある文書の内容――先述のようにわが法では、これが裁判されるのであり、定義はかかる性格をもつ裁判において、使用される――が、あるイデオロギーに反するかどうかによって、その社会的通用性の可否を決定されていいのだろうか。あるイデオロギーが、別のイデオロギーによって、裁判されていいのだろうか。」。

注163 加藤、223頁。
注164 奥平康弘『表現の自由U』有斐閣、35頁、1984年。
奥平 35頁 渡辺書籍 4章1(1)@ 83頁の字下げ部 渡辺D 5-1-1.@ 103頁の字下げ部の一つ

 もし言葉の真実表現しているとおりにうけとれば、それは「性的道義観念というイデオロギーを内容とする。ある文書の内容――先述のようにわが法では、これが裁判されるのであり、定義はかかる性格をもつ裁判において、使用される――が、あるイデオロギーに反するかどうかによって、その社会的通用性の可否を決定されていいのだろうか。あるイデオロギーが、別のイデオロギーによって、裁判されていいのだろうか。もしそうなら、政治的文書が、支配的政治理論に反するが故に、その公表を禁止することは、なぜいけないのか。「性的道義観念」という名のイデオロギーだけは、特別に国家によって保護されなければならないのか。
〔上枠内の一部の再掲。〕
 善良な性的道義観念に反することとは、『性的道義観念というイデオロギーを内容とする。ある文書の内容――先述のようにわが法では、これが裁判されるのであり、定義はかかる性格をもつ裁判において、使用される――が、あるイデオロギーに反するかどうかによって、その社会的通用性の可否を決定されていいのだろうか。あるイデオロギーが、別のイデオロギーによって、裁判されていいのだろうか。
〔上枠内の一部の再掲。〕
 善良な性的道義観念に反することとは、『性的道義観念』というイデオロギーを内容とする。ある文書の内容――先述のようにわが法では、これが裁判されるのであり、定義はかかる性格をもつ裁判において、使用される――が、あるイデオロギーに反するかどうかによって、その社会的通用性の可否を決定されていいのだろうか。あるイデオロギーが、別のイデオロギーによって、裁判されていいのだろうか。

 奥平の原典に加藤が加えた部分まで二重引用したため、参照先として示したものに含まれない文字列が書かれていることまで同じである。それ故、表現の自由を害して何かを国家が保護することへの疑義が抹消されていることまで共通する。また、渡辺が奥平の原典を参照していないことが推測される。同様の事情は、阪本昌成の著作に関しても確認できる。細かくは、別頁を参照されたい。

加藤 W部10章4節(4)A2 251頁 渡辺書籍 4章3(1)A2 99頁 渡辺D 5-2-1.(2) 112頁
 「有害図書」の定義が明確でなければならないのは31条の要請である。この明確性の要求、不利益を受ける場合を国民に正しく知らせるという機能を有している【注40】。とすれば、その判定基準は、国民の通常人(一般人)がその内容を理解できるかどうかというものでなければならない。 岐阜県青少年保護育成条例事件では、条例そのものではなくその下位規範によって規制の対象となる性的有害表現の要素が具体化されていたため、この点を問題視する見解もある【注41】〔この段落の以下2行強を省く。〕

264頁注40 芦部信喜が正当に指摘しているように、過度に広汎性の理論と明確性の理論(漠然性ゆえに無効の法理、void for vaguenes doctorine)は理論的には区別すべきであるが、しばしば重なりあう(『憲法学V』386-394頁)。過度に広汎な規制は、不明確な文言によってもたらされることが多いからである。
264頁注41 藤田・前掲論文70頁、戸松・前掲論文43頁。
263頁注23 同旨、藤田昇三「自動販売機規制による有害図書販売の規制の合憲性」法律のひろば43巻1号(1990年)66、69頁、戸松秀典「岐阜県青少年保護育成条例による有害図書の自動販売機への収納禁止規制は、憲法21条、31条、14条に違反しない――最高裁平成元年9月19日第三小法廷判決、本誌710号71頁」判例タイムズ717号(1990年)40、42頁。
 「有害図書」の定義が明確でなければならないのは憲法三一【注34】の要請である。この明確性の要求、不利益を受ける場合を国民に正しく知らせるという機能を有しているとすれば、その判定基準は、国民の通常人(一般人)がその内容を理解できるかどうかというものでなければならない【注35】岐阜県青少年保護育成条例事件では、条例そのものではなくその下位規範によって規制の対象となる性的有害表現の要素が具体化されていたため、この点を問題視する見解もある【注36】

注34 憲法三一条〔条文を写しただけなので以下を省く。〕
注35 加藤[二〇〇八]二五一頁。
注36 藤田昇三[一九九〇]「自動販売機規制による有害図書販売の規制の合憲性」法律のひろば四三巻一号六六・六九頁。
 「有害図書」の定義が明確でなければならないのは憲法31【注194】の要請である。この明確性の要求が、不利益を受ける場合を国民に正しく知らせるという機能を有しているとすれば、その判定基準は、国民の通常人(一般人)がその内容を理解できるかどうかというものでなければならない【注195】。岐阜県青少年保護育成条例事件〔鈎括弧がない〕では、条例そのものではなくその下位規範によって規制の対象となる性的有害表現の要素が具体化されていたため、この点を問題視する見解もある【注196】

注194 憲法31条〔条文を写しただけなので以下を省く。〕
注195 加藤、同251頁。
注196 藤田昇三「自動販売機規制による有害図書販売の規制の合憲性」法律のひろば43巻1号66、69頁。

 異なる部分でも、様相は等しい。確認のため、剽窃元を含めて上掲する。剽窃を含め、渡辺は、自身の弁の通り博士論文を再構成して書籍に用いているようである。すなわち、書籍を回収せしめた剽窃は博士論文においても書籍と同様だったということである。

 なお、渡辺Dの一部の章には、書籍に存在しない小括が書かれている。この渡辺D5章の場合、小括本文は40字59行にのぼる。そこでは、章全体の要約が書かれるのみであり、新たな内容は加わっていない。

書籍6章

 別頁の通り、この章はほぼ全体が剽窃から成る。博論には、途中も含めて書籍に存在しない部分が加わっている。しかし、共通する部分はおおよそ等しい。また、博論特有の部分にも剽窃が見られる。
 

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